3-6:禍
その時。
日妻の視線が匿坂の背後に向いた。
「…どうせ終わりなら」
日妻が最後の力を振り絞って立ち上がる。
「せめて、アナタを道連れにしてやります!」
日妻が綿花に向かって突進した。
「綿花!」
匿坂が飛び出した。
日妻の拳が綿花に届く寸前、匿坂が間に割って入る。
「させるか!」
匿坂の溶解液に覆われた腕が、日妻の顔面を捉えた。
(ガッ!)
「ぐあっ!」
日妻が地面に叩きつけられる。
匿坂は容赦しなかった。
溶解液を纏った拳を、何度も何度も日妻に叩き込む。
顔面、腹部、脇腹。
「ぐっ…が…あああ!」
日妻の悲鳴が霊園に響いた。
溶解液が皮膚を焼き、服を溶かしていく。
「先輩、だめです!それ以上やったら死んじゃいます!」
綿花の声で、匿坂は拳を止めた。
息を荒くしながら、日妻から手を離す。
日妻はもう動けなかった。
全身が溶解液で爛れ、意識も朦朧としている。
「…悪い、取り乱した。おい動けるか?」
匿坂は日妻の状態を確認した。
全身の服が溶解液で溶け、皮膚も所々が赤く爛れている。
呼吸は浅いがまだ生きている。
ギリギリの理性で、溶解液の濃度を抑えていたため、深くまでは達していない。
「うぅぁ…」
日妻は苦痛に顔を歪めながらも、意識はある。
「先輩、その人生きてますか?」
綿花が心配そうに、日妻を見下ろす。
「ああ、多分。何とかな」
匿坂は日妻の腕を掴んだ。
「警察に連れて行く。お前から話を聞く必要がある」
匿坂が日妻を引き起こそうとした時、霊園の入り口から黒塗りのセダンが近づいてくるのが見えた。
「なんだ?」
車は墓地の前で止まり、三人の男が降りてきた。
全員が黒いスーツを着ている。
「日妻様、ご苦労様でした」
先頭の男が敬礼した。
四十代前半、軍人のような風格がある。
「迎えに参りました」
「迎えだと?」
匿坂は警戒した。
嫌な予感がする。
「日妻様を、民間人に引き渡すわけにはいきません」
男は冷静に続けた。
「それに、あなたも来ていただく必要があります」
「断る」
「選択の余地があると思いで?」
男が手を上げると、後ろの二人が前に出てきた。
体格の良い男たちで、明らかに戦闘訓練を受けている。
「なんだお前ら、やる気か?」
匿坂は日妻を地面に下ろし、全身から黒い溶解液を分泌した。
「どこからでもかかって来い」
匿坂の体表を覆った溶解液が、街灯に照らされて不気味に輝く。
「生意気だな、大人しく捕まっとけ」
二人の男が同時に襲いかかってきた。
ーーーが、匿坂の溶解液バリアに拳が触れた瞬間、ジュウジュウという音と共に手袋が溶け始めた。
「あ、あああ熱い!」
「うぎゃああ!」
二人は慌てて手を引っ込めた。
素手では匿坂に近づくことすらできない。
「安心しろ、濃度は下げてる」
匿坂が一歩前に出ると、二人の男は後退した。
「だが、これ以上やるってなら」
匿坂は右手から溶解液を放射した。
液体が地面に落ちて、石畳を溶かしていく。
「お前らもこうなるぞ」
「…くそ、武器を使え!」
指揮官が指示を出すと、二人の男が拳銃を抜いた。
(パンッ、パンッ!)
容赦なく引かれる引き金。
銃弾が匿坂に向かって飛ぶ。
「綿花、下がってろ!」
「は、はい!」
溶解液に触れた瞬間、弾丸は溶けて無力化された。
「何だと…」
「弾丸程度で止められるとでも?」
匿坂は堂々と前進する。
溶解液が銃弾を溶かしていく様子に、二人の男は青ざめた。
「化け物め…!」
男たちは後退するしかなかった。
「逃すか」
匿坂の不意をついた体当たりが、右の男を襲う。
溶解液に触れた男の服が瞬時に溶け、皮膚が赤くなる。
「ぎゃああ!」
続いて左の男に腕を振るって、広範囲に溶解液を撒き散らす。
男は必死に避けたが、足に液体がかかって転倒した。
「ぐあっ」
「まだやるか?」
匿坂は二人を圧倒していた。
溶解液は、防御も攻撃も完璧に近い。
「素晴らしい」
指揮官が拍手した。
「やはり数で優っても、常人では異能力者には敵わないか」
「降参するか?」
匿坂は油断していた。
二人の男を無力化したことで、戦いは終わったと思っていた。
その時、墓石の陰から四人目の人影がそっと現れる。
小柄な男で、手のひらから薄い白い煙のようなものが立ち上っていた。
「睡眠ガス…散布」
男が手を匿坂に向けると、無色透明の気体が漂ってくる。
「なっ…」
匿坂は息を止めようとしたが、既に遅かった。
日妻との戦闘で呼吸が荒くなっていたため、ガスを吸い込んでしまった。
「うっ…これは…」
視界がぼやけていく。
体に力が入らない。
溶解液の分泌も止まっていった。
「油断が命取りでしたな」
指揮官の声が遠くなっていく。
その時、地面に倒れていた日妻が、か細い声で呟いた。
「おい…」
「日妻様!」
指揮官が駆け寄る。
「奴が…持ってる…資料…」
日妻は苦痛に顔を歪めながら、匿坂を指差した。
「危険だ…回収しろ…」
「了解しました」
指揮官は匿坂の懐をまさぐり、書類を抜きとると中身を確認する。
「これですね」
「ああ…それだ…」
日妻は力尽きたように、再び地面に倒れ込んだ。
「日妻様、少しお休みください。この異能力者は我々が責任持って回収します」
「この…野郎…」
「先輩!」
綿花の叫び声が聞こえた。
だが、もう体が動かない。
匿坂の意識は闇に沈んでいった。
政府の回収部隊は、匿坂と日妻を車に運び込む。
「先輩!先輩!」
綿花は匿坂に駆け寄ろうとしたが、指揮官が手で制止した。
「あなたは見逃してあげます」
「待って!先輩をどこへ連れて行くの!」
「言えません、国家の重要事項ですので」
指揮官は冷たく言い放った。
「あなたは元警察関係者ですよね?情報は全てこちらで把握してます。これ以上関わると、あなたも危うくなりますよ。例えば実家の祖母…と言えば伝わりますかね?」
「っ!!!」
綿花は唇を噛んだ。
「…」
「賢明な判断を」
指揮官はそう言い残すと、車に乗り込む。
セダンが走り去った。
綿花は地面に膝をつく。
「先輩…それに封筒まで持ってかれた。どうすれば」
1人その場に取り残された綿花。
夜風だけが、墓地を撫でていた…。




