プロローグ(後編)
ヴェルター・ソリューションズのビルを出ると、匿坂は駅へと続く道を歩き始めた。
隣を歩く綿花が、タブレットを鞄にしまいながら口を開いた。
「それにしても、また異能犯罪でしたね」
「そうだな」
匿坂はポケットに手を突っ込んだまま答えた。
「最近、本当に増えてる気がします」
「そりゃそうだろ。異能力者自体が増えてるんだから」
信号待ちの間、匿坂は空を見上げた。
「5年前は異能力者なんて都市伝説レベルだった。それが今じゃ50人に1人だ。犯罪に使う奴が出てきても、不思議じゃないだろ」
「ちゃんと法整備が進めば…」
「残念ながら、進まないと思うぞ」
匿坂はきっぱりと言い切った。
「この前も異能力の使用をめぐって国会で揉めてただろ。使用するには国から許可を得ろとか何とか」
綿花は小さく頷いた。
「政治家の中にも異能力者がいるっぽくてな。反対派と賛成派で揉めて、何も決まらなかった。人権だの差別だの言って、結局何も進まない」
「先輩の言う通りかもしれません…。異能対策課も、捜査権限しかないですしね。異能力者を管理する法律がないから、事件が起きてからじゃないと動けない...」
「ああ」
信号が青に変わる。
二人は横断歩道を渡りながら、匿坂が続けた。
「今日だって、行った時はまさか異能力が絡んでるとは思わなかった。並の探偵じゃ手に負えないだろうな。警察も同じだ」
「…先輩」
綿花が少し真面目な声で言った。
「今日みたいに、今後も異能力者が暴れ出したらどうするんですか。先輩、異能力使わなかったですよね」
「使う必要がなかっただけだ」
匿坂は軽く答える。
「相手は素人だった。異能力を過信して体術も疎か。だから簡単に制圧できた」
「でも、もっと強い相手だったら……」
「その時は使う」
匿坂は立ち止まり、綿花を見た。
「俺の異能力は手加減が難しいからな。できれば使いたくない」
綿花は何かを言いかけたが、結局何も言わなかった。
二人は再び歩き出す。
しばらく歩いたところで、匿坂が急に立ち止まる。
「腹減った」
「……は?」
「腹が減ったって言ったんだ」
匿坂は道路沿いのファーストフード店を指差した。
「ちょっと寄っていくぞ」
「はあ……」
綿花は呆れた顔でついていった。
店内は明るく、夜遅い時間にもかかわらず客が数人いた。
匿坂はハンバーガーセットを注文し、窓際の席に座る。
綿花はコーヒーだけを頼み、向かいに腰を下ろした。
「先輩、ちゃんと家で食事してますか?」
「してるよ」
「嘘ですね」
綿花はコーヒーを一口飲み、匿坂を睨んだ。
「絶対、コンビニかファーストフードばかりでしょう」
「……否定はしない」
匿坂はポテトを口に放り込んだ。
綿花は溜息をつく。
「もっと健康に気を遣ってください。探偵は体が資本なんですから」
「分かってる」
匿坂は適当に答えながらハンバーガーを食べ続けた。
綿花は呆れつつも、やがて真面目な表情に戻る。
「先輩、今日の依頼料、ちゃんと請求しておきますね」
「ああ、頼む」
綿花はタブレットを取り出し、今日の仕事の記録をまとめ始めた。
匿坂は食べ終えると、ドリンクを一気に飲み干す。
「ごちそうさま」
立ち上がり、トレイを片付ける。
綿花もコーヒーを飲み終え、匿坂の後について店を出た。
外に出ると、夜風が心地よい。
「じゃあ、俺は行くわ」
匿坂はそう言って背を向けた。
「どこに行くんですか?」
「ちょっとな」
匿坂は曖昧に答え、手を振る。
「また明日」
「……はあ」
綿花は匿坂の後ろ姿を見送り、少し考えてから、こっそりと後をつけた。
匿坂は路地を曲がり、雑居ビルが立ち並ぶエリアに入っていく。
そして、ある建物の前で立ち止まった。
そこには大きく「ネットカフェ」という看板が掲げられている。
匿坂はためらうことなく店内へ。
綿花は少し離れた場所からその様子を見ていた。
「……またですか」
小さく呟き、深い溜息をつく。
匿坂がネットカフェに入り浸っているのは知っていた。
というより、匿坂はネットカフェに“住んでいる”ようなものだった。
家がないのだ。
「そろそろちゃんと、家に住んでください……」
誰にも聞こえない声で呟き、踵を返す。
ネットカフェの看板が、夜の街に眩しく光っていた。




