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1-2:異能

「綿花、救急車を呼べ」

振り返ることなく桜並木へ駆け込んでいく匿坂の背中を見て、綿花は小さく微笑んだ。

やはり先輩は、事件となると別人になる。

これが、探偵・匿坂冬十郎の真の姿だった。


ーーー現場は阿鼻叫喚の状況だった。

桜の木の下で、20代前半の女性が倒れている。右腕から血を流していたが、意識はあるようだ。周囲には野次馬が集まり、スマートフォンで撮影する者までいる。


「下がってください。警察です」

白井が警察手帳を掲げながら人込みをかき分ける。匿坂はその後について現場に近づいた。

被害者の傷を詳しく観察する。確かに鋭利な刃物による切り傷だが、その特徴は異常だった。傷口は極めて薄く、まるで紙を鋭利なカッターで切ったような完璧な断面を見せている。幸いなのか深さは浅く、威嚇程度に留められている。


「これは」

匿坂は眉を寄せた。この傷は現実の刃物では作れない。どんなに鋭利なナイフでも、これほど薄く完璧な切り口は不可能だ。


「犯人は」

「あっちに逃げて行ったって!」

野次馬の一人が東屋の方向を指差した。匿坂は立ち上がると、その方向へ歩いていく。

東屋は桜の木に囲まれた小さな休憩所だった。普段なら花見客で賑わう場所だが、今は人影がない。いや、一人だけいた。

ベンチに座る男性。40代、身長180センチほどの痩せ型。神経質そうな顔立ちだが、その体つきからは鍛えられた筋肉の存在が感じられる。手には何も持っていない。


「あなたがやったんですか?」

匿坂は静かに声をかけた。男は顔を上げると、薄笑いを浮かべた。


「証拠でもあるんですか」

「ない」

「なら帰ったらどうです。探偵さん」

男は匿坂の正体を知っているようだった。これは偶然ではない。最初から匿坂を狙っていたのだ。


「面白い能力を持っているようだな」

匿坂が呟くと、男の表情が変わった。


「何のことやら」

「凶器を持たずに人を傷つける。そんなことができるのは」

匿坂の右手に、黒色の液体が滲み出た。


「異能力者だけだ」

男が立ち上がった瞬間、匿坂の周囲の空気が変化した。

シュッ!

風切り音と共に、目に見えない何かが匿坂の頬をかすめる。赤い線が一筋、肌に現れた。


「なるほど」

匿坂は頬の血を指で拭うと、静かに呟いた。


「空気の物質化か」

男は驚いたような表情を見せた。


「よく分かりましたね。まあ、分かったところでですが」

男が手を振ると、匿坂の周囲に複数の風切り音が響いた。見えない刃が四方八方から襲いかかる。

匿坂は咄嗟に右手から溶解液を噴射した。黒色の液体が霧状に広がり、空中で何かを溶かしているような音がする。ジュウジュウと、まるで氷が熱湯に触れたような音だった。


「ほう、面白い能力だ」

男の声に余裕があった。


「でも、これはどうかな?」

今度は足元から攻撃が来た。地面に向けて溶解液を垂らすが、間に合わない。鋭い痛みが左足に走る。


「ぐっ…」

匿坂は後ろに跳び下がった。足を見ると、ズボンに切れ目が入り、薄く血が滲んでいる。


「空気を固体化できるなら、攻撃パターンは無限大…か」

呟きながらも、匿坂の頭は冷静に状況を分析していた。相手は空気さえあればどこからでも攻撃できる。しかも武器の形状も自在だ。しかし能力に頼り切っているわけではないらしい。体の動きを見る限り、格闘の心得もあるようだ。

だが、必ず弱点はあるはずだ。


「そうやって、逃げ回ってるだけじゃ。長くは持たないですよ」

男が再び手を振る。今度は上空から半透明な巨大なハンマーのような形状が降ってきた。

匿坂は横に転がって回避しつつ、全身から溶解液を分泌した。体表を薄い黒色の液体の膜が覆う。これで多少の攻撃は防げるはずだ。


「防御に徹するつもりですか?」

男は立ち上がると、両手を広げた。


「なら、これはどう防ぎます?」

匿坂を中心に周囲の空気が変化した。壁のように固体化した空気が周囲を取り囲み、徐々に狭まってくる。能力の使い方が非常に巧妙だ。


「密室作成か」

匿坂は溶解液を壁に向けて放った。液体が空気の壁に触れると、ジュウジュウと音を立てて溶けていく。だが、男もすぐにそれを修復してしまう。


「無駄ですよ。空気はいくらでもありますからね」

男の声に自信があった。確かに、この能力は反則級だ。攻撃も防御も自在で、しかも材料となる空気は無尽蔵にある。しかも使い方が非常に頭脳的だ。

だが、匿坂は焦ってはいなかった。


「確かに強力な能力だ」

溶解液で壁を溶かしながら、匿坂は冷静に話しかける。


「だが一つ疑問がある」

「何です?」

「なぜ軽傷なんだ」

男の動きが一瞬止まった。


「今日の被害者も過去の被害者も、全員軽傷だ。これだけの能力があれば殺害することなど容易なはず。なのになぜ」

匿坂の推理が始まった。


「まさか手加減しているのか?」

「黙れ!」

男が感情的になった瞬間、空気の壁の密度が下がった。匿坂は即座にそれを察知し、溶解液を集中させて一点突破を図る。


「なっ!?」

壁に穴が開いた。

匿坂は迷わずそこから脱出すると、男との距離を詰めた。接近戦に持ち込めば、相手の能力の優位性は薄れるはずだ。

だが男は慌てなかった。格闘の構えを取ると、匿坂の接近を待ち受ける。


「図星か?」

匿坂の瞳が鋭く光った。


「お前は本当は人を殺したくないんだ」

匿坂の言葉に男の顔が歪む。


「だから攻撃が甘い。能力は一流だが殺意は三流だ」

「黙れ黙れぇ!お前になにが分かる!」

男が両手を振り回すと、無数の刃が匿坂に向かって飛んだ。だが先ほどまでの精密さはない。感情に振り回されている証拠だ。

匿坂は溶解液のバリアを展開しながら、さらに距離を詰める。男が拳を振るってきたが、匿坂はそれを軽々と避けた。格闘の心得はあるようだが、動揺している今では大した脅威ではない。


「なぜこんなしょうもない犯罪を犯す。目的は何だ」

「お前には関係ない!」

「アンタのような人間が、こんなことをするのは何か理由があるはずだ」

匿坂の声は静かだが、確信に満ちていた。


「誰かに命令されているのか?それとも脅されているのか」

「違う!」

男の声が震えた。


「俺は、俺は自分の意志で」

「嘘だな」

匿坂は断言した。


「アンタの能力なら、誰にも見つからずに人を殺せる。なのに軽傷に留めている。しかも人目につく場所での犯行だ。これはまるで…」

匿坂が男の目前まで迫った時、男の瞳に涙が浮かんでいることに気づいた。


「誰かに指示されてるのか?」

男の体から力が抜けた。空気の武器が全て霧散し、あたりに静寂が戻る。


「俺は」

男は震え声で口を開いた。

「俺だってやめたい。でも、ダメなんだ」

「全部話してくれ」

「娘が」

男は膝から崩れ落ちた。


「娘が人質に取られてるんだ。言う通りにしないと、殺すって」

匿坂は男の前にしゃがみ込んだ。 


「相手は誰だ」

「分からない。電話でしか話したことがなくて。ただ」

男は震える手で携帯電話を取り出した。


「ここから指示が来るんだ」

匿坂は携帯の画面を見た。非通知設定だが、着信履歴は残っている。


「綿花」

振り返ると、綿花と白井がこちらに駆けつけてきていた。


「この非通知を調べろ。急ぎだ」

「分かりました」

綿花が携帯を受け取る。匿坂は再び男を見た。


「あなたの名前は?」

「高菜木健だ」

「高菜木さん、娘さんは必ず助ける」


匿坂の言葉に、高菜木の目に希望の光が宿った。

「本当か?」

「引き受けた以上、必ず守る」

匿坂は立ち上がると、白井を振り返った。


「通り魔事件は終わりだ。これからは誘拐事件として捜査を進める」

白井は呆然としていたが、やがて頷いた。


「わ、分かりました」

匿坂は桜の花びらが舞い散る空を見上げた。事件はより複雑な様相を呈してきた。だが、それこそが匿坂冬十郎の本領発揮の時でもあった。

春の風が、新たな戦いの始まりを告げていた。


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