3-4:仇(イラスト有り)
日妻 蜻蛉
翌朝、匿坂は新宿のネットカフェで、内海から受け取った封筒を開いていた。
中には国家プロジェクトの詳細な資料が入っている。
異能力者を使った人体実験の記録。
薬物投与のデータ。
そして被害者のリスト。
白井健太の名前もそこにあった。
「綿花、これを見てくれ」
綿花は資料に目を通しながら、顔を青ざめさせた。
「こんなに多くの被害者が…」
「子供も含まれている」
匿坂の拳が震えていた。
「日妻蜻蛉という男が、この計画の中心人物のようだ」
「記憶操作の異能力、ですか。恐ろしい能力です」
「…ああ。奴がいる限り、真実を公表しても隠蔽される可能性が高い」
匿坂は立ち上がった。
(まず奴を止めなければ…)
拳を握りしめ、気を引き締める。
その時。匿坂のスマホに、どこからかメッセージが届いた。
『今夜9時。35.7219, 139.***** 一人で来てください -日妻蜻蛉』
「座標ですか?これは」
「そうっぽいな」
綿花がスマホで調べる。
「これは…霊園ですね」
匿坂は眉を寄せた。
「なぜそんな場所を?死者と対話させてやる、ということでしょうか」
綿花は不安そうに呟いた。
「それとも、先輩を葬る場所として選んだのかも」
匿坂は資料をバッグにしまった。
「どちらにしろ、罠だな」
「先輩、一人で行くんですか?」
「ああ、向こうの要求通りにする。危険も伴う、お前は来るな」
「近くで待機しててもいいですか?」
「ダメだ」
綿花が食い下がった。
「何かあったらすぐに駆けつけます」
「でも危険だ」
「危ないことはしません!」
「…分かった」
匿坂は頷いた。
「ただし、俺の合図があるまで絶対に出てくるな」
「はい」
◇
午後9時。霊園は夜の静寂に包まれていた。
街灯の明かりが墓石を照らし、不気味な影を作り出している。
指定された座標は、霊園の奥まった場所だった。
「来てくれましたか」
匿坂が現れると、日妻蜻蛉が墓石の前に立っていた。
昼間とは違い、黒いジャージを着ている。
「時間通りですね。律儀な方だ」
「単刀直入に聞く」
匿坂は距離を保ったまま立ち止まった。
「国家プロジェクトを中止する気はあるか」
「そうですねぇ…」
日妻は意外にも真剣に考え込んだ。
「やめることも可能です」
「本当か?」
「ただし、条件があります」
日妻が振り返った。
「対価を提示してください。プロジェクト中止による国防力低下を補える代案を」
「代案…」
匿坂は考えた。
「異能力者の自発的な協力体制を構築するのはどうだ?強制ではなく、あくまでも志願制で」
「もしそれが上手くいった暁には何を望みますか」
「被害者への補償と謝罪。そして責任者の処罰を希望する」
「最高責任者を前に、素晴らしい提案ですね」
日妻は笑いながら頷いた。
「検討に値します」
だが、その笑みには温度がなかった。
匿坂は違和感を覚えた。
「ただ」
日妻の表情が変わる。
「一つだけ、許されない問題があります」
「何だ?」
「…あなたの存在ですよ!」
日妻が突然飛び掛かってきた。
「ちっ!」
匿坂は咄嗟に後ろへ跳んで避けた。
「なんのつもりだ?」
「交渉?代案?」
日妻は冷たく笑う。
「そんなもの、最初からするつもりはありませんよ」
「遊んでいたのか」
「ええ。あなたの反応を見たかっただけです」
日妻の瞳が紫色に光り始めた。
「簡易記憶消去、異能封印」
紫の光が匿坂を包み込む。
「しまった…」
匿坂は頭を押さえてよろめいた。
全身から黒い溶解液を出そうとしたが、何も出てこない。
「あなたの異能力を封印しました」
日妻が満足そうに微笑んだ。
「通常の記憶消去は時間がかかりますが、これは発動が早い。私が解かない限り、永続的に異能力を封じられる」
「卑怯な真似しやがって」
「戦いに卑怯もクソもありません」
日妻がゆっくりと近づいてくる。
「それでは始めましょうか。これで純粋な格闘であなたを痛めつけられる」
日妻が一気に踏み込んだ。
その速度は常人を遥かに超えている。
「うおっ!」
匿坂は間一髪で横に跳んで避けた。
日妻の拳が墓石を砕く。
「只者じゃないな」
「政府特殊部隊で十年鍛えてきました」
日妻が連続して拳を繰り出す。
匿坂は後退しながら何とか避けるが、徐々に追い詰められていく。
「そこです!」
(ズガッ)
「うっ!」
日妻の拳が匿坂の腹部を捉えた。
鈍い痛みが走る。
「元刑事程度では、私の相手にはなりませんよ」
キックが飛ぶ。
匿坂は両腕でガードしたが、衝撃で数メートル吹き飛ばされた。
「ぐほっ…」
墓石に背中を打ち付け、匿坂は倒れ込む。
その時、足元の蔦に気づいた。
古い墓地に自生している植物だ。
(使えるか…)
匿坂は倒れたふりをしながら、素早く蔦を近くの大きな墓石に結び付けた。
その墓石は、見たところ長年の風雨で傾き、土台も緩んでいて不安定だった。
匿坂は蔦の端を引き寄せ、両手でしっかりと握りしめた。
墓石がバランスを崩し、日妻の頭上に倒れかかる。
「なっ!」
日妻は慌てて横に跳んだが、体勢が崩れた。
その隙に匿坂は立ち上がった。
戦いの中で、体が思い出していく。
刑事時代の戦闘スキル。
犯人を制圧するために磨いた技術。
匿坂は研ぎ澄まされた集中状態で踏み込んだ。
日妻の右ストレートを僅かに首をひねって避け、
そのまま体重を乗せた左の裏拳を顎に叩き込む。
「ぐっ!」
裏拳からの流れで右肘を鳩尾に突き入れ、
左膝蹴りを腹部に。
よろめいたところへ右アッパー。
さらに左フックを側頭部に。
最後に右の回し蹴りを脇腹へ叩き込む。
六連撃が一瞬で決まった。
「ガハッ!」
日妻が後退し、口から血を吐く。
「まさか…こんな技を持ってるとは」
「刑事時代に身につけた」
匿坂は構えを取り直す。
「犯人逮捕のための実践格闘術だ」
日妻は血を拭い、ふらつきながらも立ち上がった。
「過小評価していました」
「どうやら異能に頼るだけの、能無しではないらしい」
「…まだやる気か?」
「当然です」
日妻の目に殺気が宿る。
「本気で行きます」
日妻が叫び、突っ込んできた。
先ほどまでより速い。動きに迷いがない。
匿坂は日妻を受け止めきれず、墓石に叩きつけられた。
鈍い痛みが背を走る。
(まずい!反応が遅れる!)
体が重い。呼吸も荒い。
匿坂の体は長引く戦いで、言うことをきかなくなっていた。
「これで終わりです」
日妻が腕を振り上げる。
鋭い爪が光を反射して、刃のようにきらめいた。
顔を狙って飛んでくる。
(くそ、ここまでか)
ーーーその瞬間、脳裏に内海の資料がよぎった。
健太や他の実験被害者たち。
無力だった自分。
(絶対に、無駄にはしない)
何かが体の奥で蠢いた。
焼けつくような痛みと共に、意識が一気に冴えていく。
封印されていたはずの力が戻ってきた。
匿坂は片腕を払った。
黒い溶解液が勢いよく周囲に撒き散らされる。
「なっ!?」
(ジュワァァァァ!!!)
不意を突かれた日妻に直撃した。
「ぎゃああああ!」
全身に溶解液を浴び、日妻が地面に倒れ込む。
「ぐぁぁ!…なぜ能力が使える!?封じたはずだ!」
日妻は困惑していた。
匿坂は答えなかった。
ただ、静かに見下ろすだけ。
地面を這う日妻の皮膚は焼け爛れ、服が溶けていく。
それでも、なお匿坂を睨みつけていた。
目の奥にはまだ闘志が残っている。
匿坂は息を吐いた。
(タタタタッ!)
遠くから足音が聞こえる。
綿花が駆け寄ってきた。
「先輩!無事ですか!」
「ああ…何とかな」
匿坂は立ち上がり、日妻に視線を落とす。
ーーーそして、脳裏に数時間前の出来事が蘇った。




