3-3:混濁する記憶
午後10時。港は霧に包まれていた。
街灯の光がぼんやりと見える中、匿坂は指定された場所へ向かう。
海の匂いと、潮風が頬を撫でる。
冷たくも心地いい風だった。
倉庫が立ち並ぶエリアに足を踏み入れると、一人の男が待っていた。
「こんばんは、匿坂さん」
50代くらいの男性。倉庫の影から現れたその姿は、警察幹部らしい威厳を放っている。
「あなたが…」
匿坂は見覚えのある顔に目を向けた。
(…どこかで見たような気がする)
記憶は霞むが、確かに知っている。
「内海です。3年前、あなたの直属の上司でした」
名前を聞いた瞬間、記憶の断片が浮かぶ。
警察署の廊下、書類を抱えた内海の姿。
『匿坂君、これとこれとこの書類運んでくれ…』
『またですか?後でご飯奢ってくださいね』
ーーーいつかの記憶が少し戻っていた。
「内海…さん」
匿坂は小さく呟く。
「思い出し始めているようですね」
内海は苦悩に満ちた表情を見せる。
「あなたの記憶は封印されています」
「封印?」
「ええ、政府の人間によって」
内海の声が震えた。
「私も…見て見ぬふりをするしかありませんでした」
匿坂は一歩前に踏み出す。
「どういうことだ」
「あなたは3年前、国の『ある秘密』を知ってしまった」
内海は重い口調で続ける。
「国家プロジェクト。異能力者を使った人体実験です」
匿坂の目が見開く。
「人体実験?」
「政府の計画です。異能力の軍事利用を目的とした研究でした」
「警察は直接関与していません」
「ただ、情報を耳にしても見て見ぬふりをしろと、圧力をかけられていました」
匿坂は拳を握る。
「それと俺に何の関係が」
「健太君も、その実験体の一人だったんです」
「何だと?」
匿坂の声が荒くなる。
「彼の能力暴走は、実験で投与された薬物の副作用でした。制御装置の実験中に暴走してしまい、手に負えなくなって…」
「それで?」
「実験の最高責任者が、健太君を外に捨てたんです」
内海は目を伏せる。
「それであのような事件に…」
匿坂の全身が震える。
「私は直接手を下していません。ですが、見て見ぬふりをした。同罪に変わりありません。」
「申し訳ありませんでした」
匿坂は静かに内海を見つめる。
「なぜ今になって」
「白井君が死んだからです」
内海の目に涙が浮かぶ。
「彼はある男の手によって、あなたへの憎しみを増幅させられていました」
「ある男?」
「日妻蜻蛉という男です」
内海が告げる。
「政府の特殊部隊に所属し、実験の最高責任者です」
「日妻蜻蛉…?」
その名を聞いた瞬間、匿坂の頭に激痛が走る。
(…記憶の断片が浮かぶ)
-----
警察署の資料室。深夜。誰もいない時間。
匿坂は密かにコピーを取る。
「異能力者人体実験」「政府機関」「被験者リスト」
手書きのレポートにまとめる。
場面は飛んで、警察署の一室。大きな机に座る男性の影。
「匿坂君、君はあまりにも多くを知りすぎた」
机の上に広げられたレポート。
「君のレポートは処分される」
書類を燃やす炎。
背後から伸びてくる手。振り返ると、紫色の光が視界を覆い尽くした。
『ーーー記憶封印』
頭に激痛が走る。意識が遠のく。
-----
「ぐっ…」
匿坂は頭を押さえた。
「あなたは実験の証拠情報を集めていました。でも日妻の能力で記憶を消去されたんです」
匿坂は荒い息を吐く。記憶が少しずつ戻ってくる。
「私も反対の声を上げるべきでした。でも、当時は上層部の圧力には逆らえなかった」
「今は違うのか」
「はい」
内海は頷く。
「出世して、ある程度の権限を持つようになりました。動けるようになったんです。情報を集めることも、あなたに接触することも」
内海は懐から分厚い封筒を取り出した。
「国家プロジェクトの証拠資料です。私が上層部になってから密かに集めたものです」
「なぜ俺に渡す」
「真実を明かしてほしいからです」
内海は息を詰めるように言う。
「もう、純粋な子供たちを傷つけたくない。白井君のような悲劇も繰り返したくない。私では敵わなかったが、あなたなら…きっと」
(カツカツカツ…)
その時、倉庫の外から足音が聞こえた。
「内海警視正、お疲れ様でした」
現れたのは内海より少し若い男性だった。黒いスーツ。いかにも政府関係者という雰囲気が出ていた。
「日妻…!」
内海の顔が青ざめる。
「なぜここに」
「警察内部から連絡がありましてね。内海警視正の動きがおかしいと」
日妻蜻蛉は冷たく笑う。
「それで尾行させてもらいました」
匿坂は日妻を睨む。
「おや、久しぶりですね、匿坂さん。3年ぶりでしょうか」
「貴様…」
匿坂が溶解液を放とうとした瞬間、日妻の瞳が紫色に光った。
「記憶封印」
強烈な精神攻撃が匿坂を襲う。匿坂の意識が遠のきそうになった。
その時、内海が日妻に飛びかかる。
「逃げてください、匿坂さん!」
「内海さん!?」
だが、日妻は冷静に内海の腕を掴む。
そのまま関節を極め、一瞬で組み伏せる。
「ぐあっ…」
「ふっ、無様ですね」
日妻によって、内海は床に押さえつけられてしまった。
記憶操作すら使わない。
そもそも相手にすらしていない。
匿坂は警戒する。
(今の一連の動き。コイツ、異能力頼りではないな)
日妻が指を鳴らすと、倉庫の外から足音が聞こえた。
数人の男たちが現れる。
「げほっ、気をつけてください匿坂さん!彼らは公安ですが…」
内海が苦しそうに言う。
「日妻に操られています…!」
公安の男たちは虚ろな目。意思が感じられない。
その時、倉庫の外で激しい衝突音が響いた。
(ガシャァァン!!!)
金属がひしゃげる音。
ガラスの割れる音。
「何だ!」
日妻が振り返る。
倉庫の外で、レンタカーが高級車に追突していた。
日妻の顔が歪む。
「どこの馬鹿だ、私の車を!お気に入りの車だったのに…!」
「先輩!無事ですか!」
綿花が息を切らしながら、倉庫に駆け込む。
「レンタカーで尾行していました。でも慣れない車種で、ブレーキが間に合わなくて…」
綿花は匿坂に言い訳をして、誤魔化していた。
その背後で日妻が動く。
「隙だらけですよ!記憶消去ぉぉ!!!」
またしても、強烈な精神攻撃が匿坂を襲う。
「綿花!」
「先輩!?きゃあああ!」
匿坂は咄嗟に綿花を突き飛ばす。
綿花が倉庫の隅に倒れ込む。
「嫌になるほど善人ですね。あの時のままだ、そうやって他人を優先するから、自分だけが痛い目みるんですよ」
「彼を馬鹿にするな!」
内海が日妻の足を掴む。
「なっ!?往生際が悪いですよ、離しなさい」
日妻の集中が乱れる。記憶操作の光が弱まった。
綿花も近くの木箱を日妻に投げつける。
「ぐっ」
日妻がよろめく。
その隙に、匿坂は溶解液を日妻に向けて放った。
「やめなさい!卑怯ですよ!」
日妻は後退して攻撃を避ける。
内海を組み伏せていた手が離れた。
「内海警視正…あなたにはガッカリでした」
日妻は冷たく言う。
「裏切り者には死を」
日妻が右手を軽く挙げる。
洗脳された公安の一人が拳銃を取り出し、内海に向ける。
「やめろ!」
匿坂が叫ぶが間に合わない。
(パンッ)
銃声が響く。
「ぐふっ」
内海の胸に赤い染みが広がった。
「内海さん!」
匿坂が駆け寄る。
日妻は距離を取り、冷たく笑った。
「そんな老人放っておきなさい。にしても、匿坂さんには驚かされます」
「なにがだ!」
「時々いるんですよ。記憶操作が効きにくい人間が。あれほど強く封じたのに、わずか3年で自力に記憶を再構築するとは。厄介な脳の持ち主だ」
匿坂は息を吐き、視線を返す。
「人間の記憶は、ただのデータじゃない。意味で繋がってる。強い意志がある限り、例え異能力で上書きされようが、思い出せるはずだ。お前の記憶操作は万能じゃない!」
日妻は小さく笑い、目を細める。
「…だからアナタは厄介なんですよ。強い意志、記憶を取り戻そうとする執念を、抵抗力に変える奴なんて今までいませんでしたよ」
匿坂と日妻は、睨み合っていた。
「匿坂さん…」
内海が手を伸ばしてくる。
「内海さん、じっとしててください」
「先輩、救急車呼びました!」
綿花がスマホを片手に近寄る。
「もういいんです。私は助からない」
内海が最後の力を振り絞った。
「それより、これを…」
内海は震える手で懐から出した封筒を、匿坂に差し出す。匿坂はそれを受け取った。
「真実を…明かして…ください」
匿坂は無言で内海の手を握る。
「ありがとう…ございます…」
内海は安らかな表情で息を引き取った。
しばらくの沈黙の後、遠くからサイレンの音が聞こえ始めた。
「やれやれ、時間切れのようですね」
日妻は続ける。
「今日は引き上げます、次会った時が最後ですよ。完全に記憶を消して廃人にして、殺してやりますから」
日妻は言い残して、走り去る。
洗脳された公安たちも、無言で後を追う。
サイレンの音が徐々に近づく。
「先輩、これからどうしましょう…」
「サイレンが近いな」
匿坂は立ち上がる。
「ここにいると厄介なことになる」
匿坂は封筒を握りしめる。
「内海さんには悪いが、行くぞ!」
「はい」
二人は倉庫を後にした。
匿坂は心の中で内海に謝罪する。
(すみません内海さん。真実を明かすまで、少し待っててください)
倉庫の外に出ると、夜風が頬を打った。
サイレンの音が、だんだん近づいてくる。
綿花のレンタカーが、歪んだバンパーを晒して停まっていた。
「動きますかね…」
「動いてくれなきゃ困る」
匿坂がドアを開け、運転席に乗り込む。
キーを回すと、かすかにエンジンが唸った。
一度、止まる。
匿坂が舌打ちした。
「頼む、今だけは動いてくれ」
もう一度キーをひねる。
今度は、かすかに振動が伝わってきた。
エンジンが息を吹き返し、ヘッドライトが暗闇を切り裂く。
「動いた!」
綿花が目を見開く。
匿坂はアクセルを軽く踏んだ。
車体がゆっくり前に進み、港の倉庫が遠ざかっていく。
「保険、入っててよかった…」
綿花が小さく呟いた。
「弁償の話は後だ」
匿坂はフロントガラス越しに、赤い光の点滅を見つめた。
(急がなきゃ、内海さんの死が無駄になる)
二人を乗せたレンタカーは、霧の中へと消えていった。




