3:浮遊する記憶
「財布がない」
匿坂冬十郎は池袋のネットカフェで途方に暮れていた。
昨夜から利用していたブースの料金を支払おうとして、手を空にしたまま周囲を見回す。
「また床に落としたか?」
匿坂は慌ててブースの床を探した。
狭い個室の隅々まで確認したが、財布は見つからない。
「参ったな」
仕方なく受付に向かうと、若い男性スタッフがため息交じりに声をかけてきた。
「すみません、財布の落とし物ってきてませんか」
「またですか? 昨日も同じこと言ってましたよね」
「昨日も?」
匿坂は首をかしげた。
昨日は財布を紛失した覚えがない。
「はい。結局ズボンの後ろポケットにあったじゃないですか」
言われて後ろポケットを確認すると、確かに財布があった。
「あった。ありがとう」
「お客さん、大丈夫ですか? 最近、忘れっぽくないですか?」
(言い方ってもんがあるだろ…)
匿坂は苦笑いを浮かべた。
だが、スタッフの言葉が妙に引っかかる。
確かに最近、記憶が曖昧になることが多い。
久しぶりにコーヒーを飲んだと思ったら綿花に前日も飲んでると言われたり、ゲームに課金した覚えがないのに課金されていたり。
昨日何をしていたかも、はっきりと思い出せない時がある。
「年のせいかな、笑えないな」
匿坂はひたすら苦笑いでごまかしながら、会計を済ませた。
外に出ると、5月の爽やかな風が頬を撫でた。
匿坂は綿花から受け取ったシャツを着ている。
コレクトレス戦で前の服が使い物にならなくなったため、また新調してもらったのだ。
「今度は汚さないように気をつけよう」
そう心に誓った矢先、歩きながら飲んでいたコーヒーをシャツにこぼしてしまった。
「やっちまった」
茶色いシミが胸元に広がる。
また綿花に怒られるだろう。
スマホが震えた。
「匿坂だ」
「先輩、緊急事態です」
綿花の声が震えている。
「どうした」
「元警部補の白井さんが、獄中で死亡しました」
匿坂の足が止まった。
「何だって?」
「今朝、房で倒れているのが発見されて。死因は心臓発作とのことですが」
「心臓発作?」
匿坂は眉を寄せる。
「アイツ、そんなに年齢いってないだろ?持病とかあったのか?」
「いえ、健康診断でも異常はなかったそうで」
匿坂の表情が険しくなった。
「異能対策課から、先輩に調査依頼が来ています」
綿花が続けた。
「すぐに拘置所に向かってください」
◇
東京拘置所で、匿坂は白井の死亡現場を確認した。
独房は何の変哲もない6畳ほどの部屋だった。
「発見時の状況は?」
匿坂は看守に質問した。
「朝の点呼で返事がなくて…」
看守は淡々と答える。
「扉を開けたら床で倒れていました」
「苦しんだ様子は?」
「それが、とても安らかな表情で…まるで眠っているかのような」
匿坂は眉を寄せた。
急性心筋梗塞なら、普通は苦悶の表情を浮かべるはずだ。
「検死は?」
「警察病院で行われる予定です。でも、持病もないし不可解ですね」
匿坂は独房の中を歩き回った。
壁、床、天井。どこにも異常は見当たらない。
争った形跡もない。
その時、綿花が資料を持って現れた。
「先輩、お待たせしました!これが白井さんの、面会記録です」
「誰か来てたか?」
「昨日の夕方、政府関係者が1名」
匿坂は眉を寄せた。
「政府関係者?名前は?」
綿花が肩をすくめる。
「面会記録には『政府関係者』としか書かれていません。看守長に確認したのですが、詳しい名前は教えてもらえませんでした」
匿坂は独房をもう一度見回す。
白井が死んでしまった今、最後に何を考えていたのか、知る術はない。
「あと、これも」
綿花が小さな紙片の写真を差し出した。
「白井さんの枕の下から見つかったそうです」
画面には震える文字で書かれたメモが映っていた。
『俺は操られていた。匿坂への憎しみは本物だったが、増幅されていた。真の敵は政府内部にいる。気をつけろ』
匿坂の顔が青ざめた。
「操られていた?」
「どういう意味でしょうか」
綿花が不安そうに尋ねる。
「分かない…だが」
匿坂は画面を見つめた。
「白井の死は他殺かもしれない」
匿坂は独房の扉を振り返る。
この密室で、一体何が起きたのか。
そして、白井を操っていたのは誰なのか。
「先輩」
綿花が心配そうに匿坂を見た。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「ああ、大丈夫だ」
匿坂は額を押さえた。
また頭がぼんやりとする。
最近、こういうことが増えている。
「とにかく、この件は慎重に調べる必要がある」
匿坂は独房を後にした。
背後で、看守が扉を閉める音が響いた。




