プロローグ(前編)
都内の中堅企業〈ヴェルター・ソリューションズ〉の資料室で、社員が一人、頭から血を流して倒れていた。
被害者の山田は病院に運ばれ、意識は戻ったものの、記憶が混濁しているという。
匿坂冬十郎は、警察ではなく、社の依頼で呼ばれた探偵だった。
依頼人である総務部長は、匿坂を会議室に案内すると、開口一番こう言った。
「警察沙汰にはしたくない。社内の問題なら、外に漏らさずに片づけたいんです」
(会社の体面か…よくある話だ)
匿坂は短くうなずき、総務部長が用意した資料に目を通した。
隣では助手の綿花吹雪が、タブレットを操作している。
会議室には数名の社員が同席していた。
全員、事件に関係がある可能性のある人物たちだ。
匿坂は資料を読み終えると、顔を上げた。
「…調査は終わった」
総務部長が驚いたように目を見開く。
「もう、ですか?」
「ああ」
匿坂は会議室の中央に立ち、一人の男を指差した。
「つまり、犯人はあなただ」
匿坂の指す先には、営業部の佐々木がいた。
40代半ば、小太りで冴えない風貌の男だ。
彼は椅子に座ったまま、匿坂を見上げて首を横に振る。
「何を言ってるんですか。僕が山田さんを殴ったなんて、証拠があるんですか」
「証拠なら十分にある」
匿坂は佐々木の反論を遮り、テーブルに資料を広げた。
綿花がタブレットを操作し、モニターに画像を映し出す。
「まず、事件が起きたのは昨夜、午後8時頃。被害者の山田さんが資料室で頭を殴られて倒れていた。発見したのは警備員だ」
モニターには資料室の写真。
壁一面の書類棚、床には血痕。
「山田さんは頭部に重傷を負い、病院に運ばれた。意識は戻ったが、記憶が混濁して証言ができない状態だ」
匿坂は続ける。
「警察の鑑定によれば、凶器は石のように硬い物。だが現場には凶器が見つからなかった」
佐々木は腕を組み、鼻で笑った。
「だから僕じゃないって言ってるでしょう。凶器もないのに、どうやって殴ったって言うんですか」
「それは後で説明する」
匿坂は資料をめくり、次のページを示した。
「まず、あなたには動機がある。山田さんは先月、あなたのミスを上司に報告した。それが原因で、あなたは昇進を逃した」
佐々木の顔がわずかに歪む。
「…それを、誰から聞いた」
声に怒気が混じる。
その時、隣の総務部長が口を開いた。
「すまない、佐々木くん。匿坂さんに話したのは私だ。些細なことでも手がかりになるかもしれないと思って…」
「些細なこと、ですか!」
佐々木の声が一瞬で荒れた。
「あれがどれだけ俺の人生を狂わせたか、あなたに分かりますか!」
匿坂はその様子を冷静に見つめ、言葉を継ぐ。
「つまり、動機は十分にある。あとは実行の証拠だけだ」
匿坂は綿花に目配せした。
綿花がタブレットを操作し、モニターに社員の出退勤記録が映る。
「昨夜、山田さんが資料室に入ったのは午後7時50分。
そして、その5分後にあなたも会社を出ようとしていた。
出退勤記録には午後7時55分、あなたがカードキーを通した記録がある」
佐々木は肩をすくめて言い返した。
「それがどうしたんですか。僕は帰ろうとしただけです」
「いや、あなたは帰っていない」
匿坂は一枚の資料を取り出し、佐々木の前に置く。
「警備員の証言と防犯カメラの映像を照らし合わせると、あなたがエントランスを出たのは午後8時10分だった。入館記録は7時55分。つまり、15分間、社内にいた」
佐々木の顔が強張る。
「それは…トイレに寄っていただけです」
「トイレは1階にある。あなたがカードキーを通したのは3階の出口だ。
1階に降りるだけなら15分もかからない」
匿坂は一歩、前に出る。
「あなたは山田さんが資料室にいることを知っていた。
そして、カードキーを通した後に資料室へ向かった。
山田さんを殴り、凶器を隠して1階から退社した」
佐々木は立ち上がり、声を荒げた。
「だから凶器がないって言ってるでしょう! どうやって隠したって言うんですか!」
「隠す必要がなかったからだ」
匿坂の声は低く、確信に満ちていた。
「凶器は最初から、あなたの体の一部だった」
静寂が落ちる。
佐々木は一歩後ずさり、青ざめた顔で震えた。
「な、何を言って…」
「あなたは異能力者の可能性がある」
匿坂は静かに告げた。
「硬化系の異能力を持っているのでは?自分の手を石とかに変えて、それで山田さんを殴った」
会議室にざわめきが広がる。「異能力」という単語が空気を震わせた。
佐々木は顔を引きつらせ、首を振る。
「ば、馬鹿らしい!そんな証拠もないくせに…」
「証拠ならある」
綿花がタブレットを操作し、モニターに映像を映した。
そこには、佐々木の右手が映されていた。
「今朝、あなたが出社した時の防犯カメラの映像です。右手の甲に、灰色の痣のようなものが見える。異能力を使い慣れていないから、一時的に痕が残ったのだろう」
佐々木は自分の右手を見つめ、小刻みに震えた。
「もちろん、これだけでは確定的な証拠にはならない。だがーーー」
匿坂は一歩踏み込む。
「もし警察に通報すれば、異能対策課が調査に来る。彼らは異能力使用の痕跡を確実に見抜く。体内の微細な変化も逃さない」
佐々木の顔から血の気が引いた。
会議室の空気が一瞬で締まる。
総務部長が重い声を出した。
「やはり、隠しても仕方がない。探偵さんの情報をもとに、警察に対応をお願いするよ」
「それが賢明でしょう。こちらから正確に伝えておきます」
会議室には静かな緊張が残った。総務部長は深くうなずき、匿坂の言葉を重く受け止めているようだった。
佐々木は両手で顔を覆い、低く呻く。
「く、くそ…!」
数秒後、顔を上げたその目には、怒りと絶望が入り混じっていた。
「そうだよ、俺がやったんだ…」
震える声で告白が落ちる。
「あいつが余計なことを言わなければ!俺は昇進できたはずだったんだ!」
静まり返る会議室。
総務部長が息をのんだまま動けない。
「でも…」
佐々木は急に立ち上がった。
「ここで捕まるわけにはいかない!」
その瞬間、佐々木の右手が灰色に変色し始める。
石化した拳が、匿坂へと振り下ろされた。
社員たちの悲鳴。
総務部長が椅子ごと転げ落ちる。
だが匿坂はわずかに身をかわし、拳が頬をかすめた。
背後の壁が砕け、石膏の破片が飛び散る。
「先輩!」
綿花が叫ぶ。
だが匿坂は落ち着いた声で答えた。
「異能力、使い慣れてないな?」
彼は一歩踏み込み、佐々木の腕を取り、関節を極めた。佐々木が悲鳴を上げ、石化が解けていく。
「ぐああっ!」
匿坂はそのまま佐々木を床に押さえつけ、動きを封じた。綿花が携帯を取り出す。
「警察に連絡します」
「異能対策課に直接繋いでくれ」
佐々木は荒い息を吐きながら、呟いた。
「くそ!この力を使えば、バレないと思ったのに…」
匿坂は静かに答えた。
「異能力は万能じゃない。力に頼った時点で、お前の負けは決まってた」
数分後、異能対策課の職員が到着し、佐々木を連行した。会議室には匿坂と綿花、そして依頼主の総務部長だけが残る。
「ありがとうございました。まさか、うちの社員に異能力者がいたなんて…」
「異能力者は見た目じゃ分からない。気をつけた方がいい」
匿坂は言い、部屋を出ようとした。
「先輩」
綿花が袖を引っ張り、小声で言った。
「上着、石膏まみれですよ」
匿坂は自分の肩を見て顔をしかめた。
壁の破片が黒いジャケットに白くこびりついている。
「久しぶりに気合い入れて買ったジャケットが…」
匿坂は天を仰いで、ため息をついた。
「また服屋に行く羽目になりますね」
「クリーニングで落ちないか?」
「無理だと思いますよ…」
匿坂は肩の石膏を払うが、繊維に食い込んで取れない。
「…経費で落ちないかな」
「無理です」
綿花はきっぱり言い切った。
匿坂はがっかりした顔で、会議室を後にした。




