1:桜散る依頼
「くそ、また死んだ…レベル上げに3時間もかけたのに」
新宿のネットカフェ、薄暗いブースの中で匿坂冬十郎はモニターに向かって情けない声で呟いた。画面には『GAME OVER』の文字が赤々と表示されている。時計を見ると午前6時。気がつけば徹夜でMMORPGに興じていた。
三十歳の男がやることではない、と自分でも思う。しかも昨日の晩飯はカップ麺だけだった。いや、一昨日も同じだったかもしれない。拠点を持たない生活では娯楽も限られる。ネットカフェは寝床であり、オフィスであり、唯一の息抜きの場でもあった。
「うーん…首痛い」
首を回すとミシミシと音がした。狭いブースで長時間同じ姿勢を取っていたせいで、体中が痛い。コンビニ弁当の空き箱が足元に転がっている。それも3個も。昨夜の夕食だったか、一昨日のものだったか、もう覚えていない。ブースの床には食べかすも散らばっていた。
(ブルルルル...)
スマホが震える。
「匿坂だ」
「先輩、おはようございます。今どちらにいらっしゃいますか?」
綿花吹雪の声だった。元部下の彼女は今、匿坂の助手として働いている。というより、世話係に近い。
「新宿だ。あー、でも正確にはどこだっけ…東口?南口?」
「またネカフェですね。それに場所もあやふやじゃないですか。しっかりしてください」
図星を突かれて匿坂は苦笑いした。綿花には全てお見通しらしい。そもそも新宿のどのネカフェにいるのかも曖昧だった。
「それで、用件は」
「警視庁の白井警部補からご連絡がありました。お話があるそうです」
「白井?」
匿坂は眉を寄せた。白井という名前に覚えはない。だが警察からの連絡となると、依頼の可能性が高い。
「分かった。どこで会う」
「上野恩賜公園の噴水前、10時はいかがでしょうか。桜が綺麗ですよ」
「桜か」
確かに季節は春だった。街を歩けば薄紅色の花びらが舞っている。だがネットカフェにこもりがちな匿坂には、季節の移ろいなど関係なかった。
「10時に行く」
通話を切ると、匿坂はゲームからログアウトした。そろそろシャワーでも浴びるかと立ち上がろうとして、足元の弁当箱に躓きそうになる。慌ててバランスを取ろうとしたら、今度はドリンクホルダーに肘をぶつけた。
「痛っ…危ない」
危うくモニターに激突するところだった。しかも肘をぶつけた拍子に、置いてあったコーヒーの紙コップが倒れて中身が少しこぼれた。
「あー、やってしまった」
我ながら情けない。こんな調子で探偵などと名乗っているのだから、世の中は不思議なものだ。慌ててティッシュを探すが見当たらず、結局シャツの袖で拭く羽目になった。
それからネカフェを出て歩くこと少し。
「ここか」
上野公園の桜は満開だった。
10時ちょうどに噴水前に到着すると、綿花が先に来ていた。彼女の隣には見知らぬ男性が立っている。30代前半だろうか?がっしりとした体格に鋭い目つき。警察官特有の雰囲気を纏っていた。
「先輩、お疲れさまです」
綿花は匿坂の姿を見ると、小さくため息をついた。
「また同じ服ですね。それも3日連続で。あと、シャツが裏返しですよ」
「忘れていた。って、裏返し?」
匿坂は自分の格好を見下ろした。確かに昨日と同じシャツを着ている。しかもよく見ると、タグが首元から飛び出していた。いつの間に裏返しで着ていたのだろう。
「あと、靴下も左右別の色ですね」
綿花の指摘で足元を見ると、確かに片方は紺色、もう片方は黒だった。薄暗いネカフェで適当に履いた結果がこれだ。
「気にするな、それよりこちらが?」
「はい、白井警部補です」
綿花の紹介で、男性が一歩前に出た。
「白井と申します。お忙しい中、ありがとうございます」
「匿坂だ。依頼の件は」
社交辞令を省いて本題に入る。これは匿坂の悪い癖だった。だが白井は特に気にした様子もない。
「最近、都内で連続通り魔事件が発生しております。被害者は3名。全員軽傷ですが、犯行手口に不可解な点が多くございまして」
「不可解な点とは」
「凶器が見つからないのです」
白井は困惑した表情を見せた。
「被害者は皆、鋭利な刃物で切りつけられたような傷を負ってます。現場には凶器らしきものが一切残されておりません。それに」
白井は困惑を深めた。
「傷の特徴が奇妙なのです。極めて薄く、しかし完全に切断されている。まるで髪の毛のように細い刃物で切られたような。しかしそんな凶器は現実には存在しません。目撃者の証言も曖昧で、犯人の特定に至っていない状況です」
匿坂は桜の花びらが風に舞うのを眺めながら聞いていた。凶器なき犯行。確かに奇妙だ。
「それで俺に何を求める」
「匿坂さんは元刑事でいらっしゃいます。特殊な事件の捜査経験をお持ちと伺いました。ぜひ、捜査にご協力いただけませんでしょうか」
特殊な事件。その言葉に匿坂の表情がわずかに曇った。おそらく白井は知らないのだろう。匿坂がなぜ警察を辞めることになったのかを。
「報酬は」
「1日3万円でいかがでしょうか」
悪くない条件だった。ネットカフェ代とコンビニ弁当代には十分すぎる。
「引き受けよう」
「ありがとうございます。では早速、現場を」
その時、公園の奥から悲鳴が聞こえた。
「きゃああああ!」
三人は反射的に声のした方向を見た。桜並木の向こうから、人々が慌てて駆け出してくる。
「また通り魔よ!」
「誰か警察を!」
「血が、血が出てる!」
綿花の顔が青ざめた。
「まさか、また」
匿坂は既に走り出していた。先ほどまでの間抜けな雰囲気は微塵もない。その瞳に宿る鋭い光は、まさに狩人のそれだった。