フォーグラフ夫人の初日
翌朝、クラリスが起きたとき、ハリーはすでに出勤したあとだった。
「そんなに遅く起きたつもりはないんだけれど……」
「旦那様は休み明けにはいつも早く出勤されますね。朝食は事務所で召し上がるそうで、サンドイッチをお作りしています」
「そうなのね」
クラリスは一人で朝食を取りながら、ベティの話に相槌を打つ。
どうしてそれを自分に教えてくれないのだろうか。
家庭に向かないという彼の言葉は単なる言い訳ではないのだな、と思う。
自覚があるなら改善すればいいのに。その必要を感じないということかしら。
釣った魚にエサはやらないというけれど、ハリーはそもそも釣ったつもりもないのかもしれない。
前の二人とも勧められたから結婚しただけで、ハリーは相手をなんとも思っていなかったのかも。
ハリーが帰ったら話をしようとクラリスは決めた。
ハリーが心配していた通り、オーガスト夫人はこちらから会いに行くより先に自ら会いに来た。
ただし、ハリーの事務所ではなく、フォーグラフ邸にだった。
ハリーは不在のため、クラリスが相手をするしかない。
彼女は、クラリスと事務所ですれ違ったことには気づいていないようだった。
二階の応接間は裏庭に面していて明るい。自宅への来客はほとんどないそうで、滅多に使われないこの部屋は殺風景を競うなら一番だ。親戚なのだから居間に案内したほうが良かったかもしれない。
クラリスはオーガスト夫人と対面に座った。
挨拶を交わしてすぐに「突然、結婚だなんて」と口火を切った夫人に、クラリスは微笑んだ。
「ハリーとは専門高等学校魔術科の同期でした。私は昨年夫と死別しました。先日、事務所に相談に行った際に意気投合して……学生時代に仲良くしていたこともあって、きっとうまくやっていけるだろうと思って結婚することにいたしましたの」
全てを説明しているわけではないが、嘘はない。
「まあ、あなたも魔術師ですの?」
「ええ」
もう簡単な魔術陣しか覚えていないけれど。
「そう……若い娘よりあなたみたいな落ち着いた方のほうがいいのかしら……」
夫人は大きくため息をつく。
そして、聞かせてくれたのは、ハリーの二度の結婚についてだった。
最初は彼が二十五歳。相手は二十歳の準男爵家の令嬢だった。二年後、ハリーの事務所の秘書と駆け落ちしたのだそうだ。彼女はハリーに昼食を届ける名目でたびたび事務所を訪れていて、ハリーが接客している間などは秘書が相手をしていたらしい。秘書が事務所の金をいくらか持ちだしたこともあって、大々的に捜索されて二人は見つかった。持ち逃げの件をハリーが示談にしたため、二人は結婚して地方都市で暮らしている。
「駆け落ちなんてするお嬢さんだとは、わたくしも思いもしなかったのよ」
二度目の結婚は彼が三十歳のとき、相手は二十六歳の中流階級の娘だった。
「お相手がハリーさんを気に入ったの。だから今度こそはと思ったのに」
そのときにはすでに結婚契約を開発しており、彼女とも魔術契約を結んだのだそうだ。結果、彼女の心はハリーから離れて、指輪が効力を発した形になった。
友人の茶会で知り合った別の男性と恋に落ちた彼女と離婚。結婚生活は三年間だった。
それが今から二年前のことになる。
「子どもができたら違ったのかもしれないけれど、こればっかりは何ともねぇ」
探るように目を向けられ、クラリスは緩く首を振る。
「私も前夫との間には子どもができなくて……。私はもうどちらでも構わないと思っています」
「そう……。ハリーさんも子どもが欲しいって感じではないものね」
同居気分の結婚だから、子どもの話なんて一切しなかった。
結婚したくないと思っていたハリーだから、夫人の予想は間違っていないだろう。
エルトンと結婚してから、子どもができないことはずっと悩みだった。結婚当初は健在だった義父母は何も言わなかったけれど、親戚の中には口さがない者もいた。そんなクラリスの不安を宥めてくれたのはエルトンだった。医者の見立てでは二人とも問題なかった。「いつか時がくれば授かるよ」とエルトンは言ったけれど、いつかは永遠に来なかった。
重くなった空気を感じたのか、オーガスト夫人は軽く咳払いをした。
「わたくしの人選が失敗して、ハリーさんがこの先ずっと一人きりかと思うと申し訳なくて、新しい縁談を持ってきていたところでしたの」
ちょうどその現場にクラリスは居合わせたのだ。
「あなたは大丈夫なのかしら」
オーガスト夫人はクラリスの左手に咎めるような視線を向けた。
薬指には指輪が二つある。
「これは、ハリーも理解してくれていますわ。だから彼と結婚しようと思ったのです」
クラリスは微笑んで、夫人をまっすぐに見つめた。
「私も彼も、恋に身を狂わせる年でもありませんでしょう? それに、結婚生活の維持はハリーより私のほうがきっと得意ですわ」
夫人はクラリスの反論に軽く目を瞠って、それから頬に手をあててため息をつく。
「確かに、ハリーさんはねぇ……」
夫人も思い当たることがあるようだった。
「お手並み拝見といきますわね」
にっこりと笑う夫人に、クラリスも笑顔を返したのだった。
その日、帰宅したハリーにオーガスト夫人のことを話す。ハリーは夫人を苦手にしているのか、「助かった」とほっとしていた。
それから、出勤時間や帰宅時間の予定は共有してほしいと告げた。
「ベティに伝えるのではダメなのか」
「緊急でなければ、直接私に教えて」
きっぱり言うと、彼は「わかった」と引き下がった。
「それから、今度写真を撮りにいきましょう」
「写真? 何の?」
「私たちの結婚記念のよ」
「結婚記念? 必要か?」
「必要よ」
再度きっぱり言うと、彼は「君がそう言うなら」と引き下がった。
「今までの奥様とは?」
「写真かい? いや、特に何も言われなかったから……」
言えなかったのかもしれないわね、とクラリスは思う。
劣勢をごまかすためか、ハリーはあからさまに話題を変えた。
「そういえば、ブラッドが半年ほど前に結婚したのは知ってるかい?」
「まあ、知らないわ。それよりも、エイプリルさんってずっと未婚だったの?」
クラリスはここ数年隠居状態だったせいか社交界の話に疎い。
「伯爵なのに」
「親戚から優秀な魔術師を養子にすれば跡継ぎは自分の直系でなくても構わないから、って言っていたな」
「まあ、いかにも魔術師伯爵のお家ね。お相手は?」
「一番弟子だってさ。フィーナ・マーチ。ほら、『新しい魔術文字の可能性について』の」
「フィーナ・マーチ? 有名な方?」
「知らないのか?」
ハリーは驚いた顔をした。
二人とも、魔術三昧な学生時代を過ごした。
彼はずっとそこにいるけれど、クラリスはもうそこにいない。
ハリーは魔術科時代のクラリスしか知らないのだ。
取り残されたような寂しさを感じながら、クラリスは首を振った。
「卒業してからほとんど魔術には触れていないの」
「ああ、そうか。すまない……いや、謝ることでもないのか」
複雑な表情を浮かべるハリーに、クラリスは微笑む。
「いえ。それで? エイプリル伯爵夫人のこと」
「そう、彼女の魔術科時代に書いた論文が有名なんだ」
「書斎にあるの? 読んでみたいわ」
「もちろん」
ハリーはほっと息をつく。それから、くくっと小さく声を上げて笑った。
「何かおかしい?」
「いや、すまない。君じゃない」
咳払いをしたあと、
「今までの相手は、魔術の話なんて興味を持たなかったから、君が論文を読みたいって言ったのがうれしくてさ。……そんな自分がおかしかった」
ハリーは笑顔で、でも困ったように眉を下げて、そう言った。