不誠実な口付け
ハリーと結婚契約を結んだあと、クラリスは日を改めて引っ越した。
フォーグラフ邸は王都の住宅地にあるテラスハウスだった。三階建ての建物に、道路に面した小さな前庭と百日紅がシンボルツリーになっている裏庭がついている。長屋式で左右の隣家とはくっついており、縦に細長い裏庭は柵で区切られて生垣が目隠しになっていた。古くからある住宅地で、それなりに歴史のある建物だった。聞けば、最初の結婚のときにブラッドの紹介で買ったらしい。
「一応爵位があって上級職に就いていて、結婚するのだからって、オーガスト夫人に勧められたんだ。最初の相手は準男爵家の令嬢でね。俺が二十五のときに結婚して、二年で離婚」
自嘲するように笑い、ハリーは大げさに肩をすくめた。
そのオーガスト夫人にはハリーが連絡済みだそうだ。一方的に結婚したと連絡しただけのようで、夫人が納得したのかどうかは不明だった。次の休みにハリーと挨拶に行くことになっているが、事務所に夫人が押しかけてくる方が早いかもしれないとはハリーの言だ。
クラリスは簡単に邸内を案内してもらう。存在感のある重厚な年代モノの家具は、家を買ったときについてきたのだそうだ。居間や食堂にも絵画や写真、小物などの装飾品はほとんどない。実家などと比べるとずいぶん華やかさに欠ける気がしてしまう。
アンダーソン子爵邸もレイン子爵邸も古い家だ。代々の肖像画だけでも何枚もある。暮らしてきた人の数が違うのだから仕方ない。
それとも独身男性の家だからだろうか。
今までのハリーの相手の気配の感じられる品は見当たらなかった。
「書斎と俺の部屋以外は君の好きに変えてもらって構わない。経費の見積もりを出してくれたら検討するよ」
家具や壁紙などには一見した限りでは気になる箇所はないが、殺風景に見えてしまうのを改善したい。クラリスは追々考えればいいかしらと頭の隅にメモした。しかし、一緒に暮らすのにクラリスの好きにしていい、相談じゃなくて検討というのはひっかかる。
使用人は、掃除洗濯料理を一手に引き受けるメイドのベティと庭師兼力仕事担当のアントン。五十代の二人は夫婦で、ハリーの前の住人のときにもこの家に勤めていたそうだ。ベティはフォーグラフ邸の専属だが、アントンは別の家の庭の手入れも請け負っているそうだ。
クラリスが必要なら使用人を増やしてもいいとハリーは言ったが、クラリスは断った。エルトンが病気療養中からほとんど社交は行っていないし、これから昔のようにするつもりもない。着付けが必要なドレスなど着ないし、入浴も化粧も一人でできる。付き添いがいないと出かけられないわけでもない。
子爵家令嬢から子爵夫人へと貴族女性の模範的な道を辿ったクラリスだが、寮暮らしだった専門高等学校の三年間はかなり自由に過ごした。社会勉強になると言って進学を勧めたエルトンはこんな状況は想定していなかっただろうけれど、結果としては役に立っている。
クラリスの寝室はハリーとは別に用意されていた。
晩餐後に案内してもらっていた書斎から一緒に階段を上がり、三階の寝室の前でわかれる。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
今夜は初夜にあたる。
手を出さないでいられる自信がない、とハリーは言っていたからクラリスは身構えていたのだけれど、特に何も言われずにほっとした。
寝室の扉を開こうとしたとき、クラリスは手を引かれた。振り向かせられて、背が扉に当たる。
「っ!」
気が付いたときにはハリーに唇をふさがれていた。
押し付けられた唇は少し冷たく、食むようにされると熱い息がかかる。
ハリーが求めるなら応えられると言った手前、クラリスは驚いたけれど抵抗せずに受け入れた。実際、嫌悪感はなかった。
深い口付けはエルトンが元気だったころ以来、四年ぶりくらいだ。
耳を撫でられて、思わずクラリスはぎゅっと閉じていた目を開ける。
すると、相手の顔はクラリスが予想していたよりも上にあった。
――エルトンではなかった。
一瞬だけそう思ってしまった。
ハリーは気づいたのだろう。目を細めて笑った。
メガネをしたままできるのね、とクラリスはあさってなことを考える。すると、緊張が解け、少しだけ余裕ができた。
でもクラリスの戸惑いが全て解消される前に、ハリーは唇を離してしまった。
彼はクラリスを見下ろして、にやりと笑う。意地悪というよりは得意げだった。
ほら見ろ、と言わんばかりだ。
「エルトン氏と俺は違うだろう?」
「それは……」
「結婚を長く続けるために適度な距離を保とう。俺が君の色香に惑わされてしまわないように」
ハリーはそう茶化して、両手を上げた。
――嫌だったわけではない。少し戸惑っただけ。
しかし、クラリスが何か言う前に、ハリーはその場をあとにした。彼の部屋はクラリスの隣。
「君が求めるならいつでも応じるよ」
扉を閉める前に、彼はそう言ってもう一度笑った。
ハリーとの接触に全く嫌悪感を抱かなかった自分にクラリスは驚いていた。
エルトンへの罪悪感もない。
彼は晩年、クラリスに再婚を勧めていた。
「一人で残すのは忍びない。誰かいい人がいたら幸せになってくれ」
クラリスに対してエルトンが独占欲を持っていたのかよくわからない。いつも穏やかな愛情で包んでくれていた。激しい恋ではなかったのかもしれない。
自分はどうだろうか。
子どものころから好きだった。彼と結婚するのが当然だと思って生きてきたし、彼以外と結婚する想像などハリーとの結婚を思いつくまでしたこともなかった。
強く求めるような恋ではなく、静かにずっと心の中にあるような恋だ。
今でも変わらずそこにある。
――しかし、エルトンはもう夫ではない。
今、クラリスが結婚しているのはハリーだ。
ハリー以外の誰かと触れ合うのはありえないけれど、ハリーなら問題ない。
エルトンを心の特別な場所に置きながら、身体的にはハリーを受け入れられる。
クラリスの左手の薬指には指輪が二つあった。エルトンから贈られた結婚指輪を外さなかったハリーだからこそ、クラリスは受け入れることができるのかもしれない。
クラリスは恋愛とは別の基準で、体を許せるかどうかを決めているようだった。
エルトンに対してもハリーに対しても不誠実かしら、とクラリスは自問する。
貴族家の友人知人には、数回しか会ったことがない相手と政略結婚した人が何人かいる。彼女たちの中には恋愛感情を抱くことがないまま、夫に抱かれた人もいるだろう。
そう考えると、夫であるハリーなら許せるというクラリスの気持ちもそれほどおかしくはない気がする。
先ほどの口付けは慣れていなかったせいだと思う。エルトンしか知らないのだ。比べてしまうのは仕方ないことだった。
だからと言って、慣れたいわけでもない。
クラリスは「ハリーが求めるなら」で、ハリーは「クラリスが求めるなら」だから、このまま白い結婚になるのだろうなとクラリスは考えたのだった。