クラリスの相談
十七年ぶりに会ったハリー・フォーグラフは、知的で落ち着いた紳士といった風情だった。銀縁のメガネも似合っている。
大人になるってこういうことなのね、と自分も同じだけ年を取ったくせに他人事のようにクラリスは感心した。
学生時代のハリーは――粗野だとか乱暴だとかではなかったのだけれど――洗練されていないもっと野性的な雰囲気があって、貴公子然としたブラッド・エイプリルと女子生徒の人気を二分していた。彼らと成績を競い合っていたこともあって、クラリスは女子の中では比較的彼らと話す方だった。しかし、クラリスに婚約者がいたせいか、やっかみを受けることはあまりなかった。どちらかというと、三人の関係を演劇のように鑑賞されていたらしい。
あのころを思い出すと自然に笑みが浮かんでしまう。
しかし今日は旧交を温めにきたわけではなかった。
クラリスは紅茶を一口飲み、テーブルに戻す。クラリスの改まった様子を感じ取ったのか、ハリーも姿勢を正した。
「王都に出てきたついでに雑談をしに来たってわけではなさそうだな」
「ええ、そうなの。ちょっと問題が発生して……王都で魔術契約士を探したらあなたの名前が出てきたから、相談だけでもと思って伺ったの」
貴族家に関わる書類は王都の役所に提出するのが受理までの期間が一番短いため、クラリスは久しぶりに実家から王都に出てきた。ついでに今起こっている問題の解決策が得られたらという思いつきで魔術契約士を探した。そこで彼の名前を見つけたのだ。
専門高等学校の卒業時に、ハリーは魔術契約士を目指すと聞いていた。卒業して結婚して、魔術とは距離のある生活をしていたクラリスは、彼が国家試験に受かったことも知らなかった。
旧交を温めにきたわけではないが、数いる魔術契約士からハリーを選んだのは、懐かしくて会いたくなったからというのが大きい。あとは彼の売り文句が「結婚契約の第一人者」だったからだ。結婚契約がどういうものかは知らないが、結婚したくない場合の相談にも強いかもしれないと期待したのだ。
「予約もせずにごめんなさい」
「構わないよ。空きがなければ受付でそう言うさ」
ハリーは鷹揚にうなずく。
それに後押しされてクラリスは口を開いた。
「私が結婚したのは知っているわよね? 夫が昨年、亡くなったの」
「それは……お悔やみ申し上げる」
「ありがとう」
「そこまで年上ではなかったよな? まだお若かったんじゃないか?」
学生時代に婚約者の話をしたのをハリーは覚えていてくれたようだ。
「ええ。四十歳だった。でも、三年くらいずっと闘病していたから、覚悟はしていたわ……」
夫のエルトンが亡くなったときには、これ以上彼が苦しむことはないと思ったら、少しほっとしてしまったのだ。
「夫はレイン子爵だったのだけれど、私たちには子どもがいなくて爵位は夫の弟ラッセル・レインが継いだわ。それで、私は実家に帰って離れを借りて暮らしていたの。実家を継いだ兄も兄嫁も引き止めるから、喪中の間くらいは甘えさせてもらおうと思っていたのだけれど、……今考えると心配されていたのね」
実家のアンダーソン子爵家と婚家のレイン子爵家は領地の一部を接しており、代々付き合いがあった。クラリスの世代で初めて互いに年の近い子どもが生まれたことで、エルトンとクラリスは幼いころに婚約した。完全な政略結婚というわけではなく、成長したところで両親から意志を確認されたし、エルトンからも求婚された。クラリスは彼が好きだったから二つ返事で受けたのだ。結果的には恋愛結婚だったと思っている。
家族ぐるみの付き合いなのでクラリスの兄ウォルトとエルトンも仲が良かったから、ウォルトにとってもエルトンの死はショックだっただろう。
「一年経って、そろそろ私もどうするか考えなくてはと思っていたら、ラッセルが求婚してきたの」
「君のご夫君の弟の?」
「ええ。ラッセルも幼馴染ではあるのだけれど、私は昔から苦手で……」
年下だからか、女だからか、幼いころからクラリスに対してだけ横柄な態度を取るのだ。髪を引っ張られたり転ばされたりといったこともあり、ラッセルと二人にならないように、クラリスはウォルトやエルトンにいつもくっついていた。
「求婚も、兄のものは全て自分が引き継いで当然だ、という主張なの」
爵位と同じ扱いだ。
「ラッセル氏は未婚なんだろう? ずっと君を好いていたとか……」
エルトンが完治しないと宣告されてから爵位はラッセルに譲り、同じ屋敷で暮らしていたけれど、そんなそぶりは一切なかった。
それに、
「たとえそうだったとしても嫌よ! 無理だわ」
勢いよく反論するとハリーは少し目を瞠ったあと、「申し訳ない。そういう問題ではないわけだな」と謝った。
非を認めてすぐに謝ってくれるのは昔から彼の美徳だと思っていた。ラッセルだったらクラリス相手には絶対に謝らないだろう。
エルトンはおおらかで、女性は守るものと考えていたし、六歳の年の差もあったせいで、だいたいのことをクラリスに譲ってくれた。対等な喧嘩より、一方的にクラリスがすねたりエルトンが叱ったりといった思い出の方が多い。
思いにふけりそうになったクラリスを、ハリーの声が現実に引き戻す。
「それで?」
「ええ。それで、姻族関係終了届を出したの」
「ああ」
姻族関係終了届は、配偶者の親族との関係を断ち切る届け出だ。
結婚してからエルトンが亡くなるまで十六年暮らした思い出の屋敷はラッセルが相続しているからどちらにしても訪問できない。親しくしていた大叔母などはラッセルの求婚の件から相談しており、断絶後も個人的に仲良くしてもらえることになっている。墓参りに親族限定という決まりはない。レイン子爵家と親族関係を断ったとして困ることはない。
「これで親族だからとラッセルから呼び出されることはなくなるけれど、求婚を断るのとは別問題なのよね」
「そうだな」
「魔術契約で何か良い案はないかしら?」
クラリスが訊ねると、ハリーは難しい顔をした。
「まず前提として、魔術契約はお互いの合意がないと発動しない。しかし、民事でも刑事でも裁判の判決を元にした契約は例外だ。ただし、魔術契約の合意を得るにしても、訴えるにしても、魔術契約士は依頼人に代わって交渉する資格がないんだ」
「そうなのね。知らなかったわ」
魔術科に在籍していたときも働くつもりがなかったため、良い成績で卒業することしか考えていなかったクラリスだ。
「弁護士を雇うことを勧めるよ。あてはあるかい? うちの事務所と提携している弁護士事務所は夫婦でやっているから、相談しやすいかもしれない」
「ありがとう。でも弁護士なら、実家と懇意にしている方がいて兄から相談してもらっているの。魔術契約について弁護士からあなたに連絡するかもしれないけれど、かまわない?」
「ああ、もちろん」
ハリーはそう請け負って、
「そもそも、どういった魔術契約をしたいんだ? 二度と関わるなとか?」
「そこまでではないのだけれど」
あまり具体的なことは考えていなかったクラリスは、少し言葉を切る。
「私はただ求婚を断りたいのよ」
「断れないだって? まさか脅されているのか」
身を乗り出すハリーに、クラリスは慌てて否定する。
「いいえ、違うわ。大丈夫よ」
それから、クラリスはため息をついた。
「それが……私は断っているのに、とにかく聞く耳を持たないというか……」
あなたと結婚するつもりはないと伝えているのに、まだ喪中のつもりなのか、早く忘れろなどと言われるのだ。
そういうことではない。
エルトンと出会わなかったとしても、ラッセルと結婚することはなかった。
「結局その席では、断りを聞き入れてもらえなかったのよ。また改めると言われても、私の気持ちが変わることはないのに……」
「君の兄上はなんて?」
「私の好きにしていいって。アンダーソン子爵名義で求婚を断る手紙も送ってくれているわ」
一昨日のことだから、ラッセルからまだ返事はなかった。
兄も兄で昔からラッセルに思うところがあったのか、今後の家同士の付き合いは仕事上の範囲だけになりそうだ。
「それで案外あっさり解決するかもしれないな。……まあそのあたりは君の家の弁護士が詳しいだろうから。魔術契約が必要になったらいつでも言ってくれ」
「ありがとう。助かるわ」
クラリスが疲れた声で言うと、ハリーは、
「以上は魔術契約士としてのアドバイスだ」
「ええ」
クラリスが首を傾げながらうなずくと、ハリーはにやりと笑った。
「軽口が許されている友人としてのアドバイスなら、他の誰かと再婚するのを勧めるよ」
「再婚?」
「これ以上の断り文句はないだろ」
「ふふ、それはそうね」
クラリスも笑う。
「そんな都合のいい結婚ができたら苦労しないけれどな」
ハリーが自嘲するように付け加えたのを聞き、クラリスは思い出す。
先客とハリーが話していたことをクラリスは少し耳にしてしまった。
「そういえば、フォーグラフさんはお見合いをするの?」
「ああ……聞こえてたか?」
「ごめんなさい」
「いや、構わないよ」
愚痴を聞いてもらえるならね、とハリーは付け足し、クラリスは首肯した。
「先ほどの夫人は親戚なんだが、仲人が趣味でね。彼女の仲介で俺は二度結婚して二度離婚したんだ。それでもまだ誰か紹介したいらしくて、困っているところ」
「まあ」
ハリーが二度離婚したということがクラリスには信じがたい。
そう伝えると、彼はため息をつく。
「俺は結婚生活に向いてないんだよ。だからもううんざりなんだが、夫人はどうしても挽回したいらしい」
笑い話で終わらせるつもりか、彼は軽く肩をすくめてから、時計を一瞥した。
クラリスもいつもならここで話を切り上げただろう。
しかし、クラリスは疲れていた。
このあともラッセルとのやり取りが続くかもしれないと思うと億劫で、手っ取り早く終わりにできる方法があるならそれに飛びつきたかった。
そこで思いついてしまったのだ。
「あなたと私なら都合のいい結婚ができるんじゃない?」