転生した私が、もう一度恋をするまで
目にとめていただきありがとうございます。可愛い恋が書きたくて。ゆるい世界設定です。よろしくお願いします。
誤字等の報告どうもありがとうございます。助かります。徐々に修正してまいります!
サークルのみんなと一緒に行ったジェットコースターが有名な遊園地。コースターが急降下して前方で水しぶきがダーンと上がって「キャーッ!」と叫んだ時だ。二つ前の席で大好きな私の彼、悠太と、友人の理沙が同じように歓声を上げながら抱き合っているのを見て、私は多分真顔になったと思う。次の瞬間、私は水の直撃を受けて、ずぶ濡れになった。
「ゲホッ…ッ…」
「アンヌ様っ!」
水を思い切り被ってゲホゲホと咳き込んだ私は背中を擦られ、フカフカのタオルで拭かれ包まれ大急ぎで屋敷へ運ばれた。
「ううーっ…」
「お嬢様、しっかり!スティーブ、早くお医者様を!」
侍女のエルサが大声を出している。着替えをさせられながら、自分がアンヌ・ウェイト12歳であると同時に、遊園地で自分の彼と親友だと思っていた子の浮気(いや、彼にとっては私のほうが浮気だったのかも)を見た田中陽子21歳だということを考えていた。
手に職を、と早目の就職内定を目指して勉強ばかりしていた大学生活。なのに3年になってから、そんなに運動が得意なわけでもないのに、血迷って、少し無理して入部したテニスサークル。そこで出会った悠太。
名前も見た目も平凡な私にも優しくて、話を聴いてくれて、大好きだったのに。本当は美人の理沙の方が良かったんだね。もう恋なんかしない。
こんな世界に来た驚きよりも失恋のツラさで虚しくなっている私がずぶ濡れだったのは先ほど水に落ちたからだ。ドレスが水を吸って、危うく命を落とすところだったようだが、そのショックと失恋のショックが重なってこんなことになってしまったのだろうか。
何にしても小学生の時に水泳教室に通っていた私にとっては大したことではないように感じられる。みんな心配しているけど、こうして生きている感じがするし、あの後ジェットコースターを降りてどうなったかを想像すると、何だかわからないけどここにいる方がマシだ。
転生するほどのことが起きたのか?と思うと恐ろしくて考えたくない…。思い出せなくていい。
自分の記憶と侍女のエルサの話をつなぐと、男爵家の娘として子どもながらに社交を始めたばかりの私は同じ男爵位のラッセル家のお茶会に参加して、池に落ちた。3歳年上のエヴァン・ラッセルが池から流れ出る小さな水路を跳び越そうとみんなを誘い、できないと言う私にも無理やりさせたのだ。
「ごめん…」
「いいの、私ができなかっただけなの」
謝ってくれたエヴァンはオロオロしていたが、私が平気よという感じで言ったのでちょっとホッとしたようだった。小さい子が自分を責めては可愛そうだし、実際落ちたのは私アンヌが鈍かったからで他の子はみんな跳び越せたのだから。
第一、そのおかげでここに来られたのだから、感謝しているくらいです。
「みんなアンヌよりも大きいのに、一緒にさせるのが悪い」
とラッセル男爵はエヴァンを叱ったけれど、もう一度私が自分がもう少し跳べれば良かったのだと、また自分一人ではそんなことをしようとも思わないので、水に落ちたのもちょっと楽しかったと言うと、困ったように「このお詫びは必ず」と言った。
私は水に落ちたことで混ざりあったアンヌと陽子の記憶を統合するのでいっぱいいっぱいだったので、男爵の言葉にも曖昧に返事をした。ぼんやりして見えたのか、エルサとスティーブに家に連れて帰ってもらってから、またお医者様を呼ばれてしまった。
2日間ほど家で療養をさせられたので、その間に今の自分について考えることができた。客観的に見てアンヌは貴族の子にしては平凡。薄い頼りない金の髪に薄い緑の目、ややぽっちゃりで運動は苦手…だから水に落ちたのだ。
勉強もそこそこ。もうじき前世でいう中・高等学校にあたる学園の中等部に入学するが、多分そこで優秀と言われることはないだろう。自信は…うん、アンヌとしての自分にもなかった。落ちこぼれないように頑張らねば。前世の知識が生かせればいいのだけれど。
家族はというと、二人の兄のうち、上のアーロンは嫡男として上級学校、大学に通っている。次男のクリフは運動が得意で、学園の高等部を卒業したらきっと騎士になるための試験を受ける。私は長女だけれどこんな感じだし、どこかに嫁いで平凡な生活を送るだろう。
「アンヌはおっとりしているから心配だよ」
「全く池に落とすなんて、許せないな、エヴァンめ!」
「そうだぞ、あんな変な男に引っかかってはいけないぞ」
「…あれは私のせいだからエヴァンを悪く言わないで。それに大丈夫。私に声をかける方はいないと思うわ」
「「そんなことはないっ!」」
やたらと見目麗しい、艶々ブラウンの髪の兄二人にそう力説されても信じることはできない。全然似ていないのだから。それでも身内の贔屓目で可愛がってもらうのを止めることはできず、2日間の療養の後も数日は寝ていろと言われて大変だった。
ようやくお庭に出ても良いと言われた日、ラッセル家から使いが来て、その後すぐにエヴァンとラッセル男爵がやって来た。
「え、婚約?」
「ああ、これも何かの縁だ。ぜひ」
お父様とラッセル男爵の会話に「ああ、これは池に落としたお詫びだな」と思った私はお父様に訊かれて、
「すぐにお返事するのは…その…お友達からお願いできれば」
と答えた。
エヴァンは明らかにホッとした顔をしていた。自分の失敗で一生が決まるなんてきっとツライだろう。彼のために、しばらく婚約者候補としてすごし、本当の適齢期の前にやんわり円満に解消できるようお父様にお願いしようと思った。
「あの…この前は、本当にごめん」
「いいのよ、本当におもしろかったし。この先だってあんな機会があるかどうかわからないもの」
そう言うと、エヴァンは
「そんな…じゃあ、今度は水路じゃなくて、野原で、いや花畑で走り回ろう!」
と言ってきた。どこまでも身体を動かすのが好きな子なのねと思い、了承した。
その機会は思ったよりもずっと早くやってきた。婚約話の2週間後にはお誘いの便りが届き、私はお付きのエルサとスティーブと共に迎えの馬車に乗り、招待された庭園に向かった。長男でもないのに、うちは私に対して過保護だと思う。
到着したのは最近開園した庭園で、整備された区画と花畑、なんと農園も併設されているという。
「アンヌ!」
「お招きありがとう、エヴァン。すごい!ステキな庭園ね!」
扉が開くと、既に着いていたエヴァンが馬車に走り寄り、エスコートしてくれた。本当に元気な子だわ。
「トピアリーの向こうに花畑があるんだ、行こう!」
「ええ」
幾何学的なトピアリーを抜けると桃色の可愛らしい花がカーペットのように地面を覆っていた。その向こうにはブルーの小さな花が広がっている。なんとなく浮かなかった気分が晴れるほどの美しさだ。
「なんてキレイなの!ステキ!エヴァン、連れて来てくれてありがとう!」
「い、いや…喜んでくれて良かったよ…元気そうだし…」
「まあ、もしかして心配してくれたの?もうすっかり元気、というか別に風邪をひいたわけでもないし、ただ濡れただけよ?うちはみんな過保護で恥ずかしいわ。でもありがとう。本当にキレイね〜」
「アンヌのほうが…」
「えっ?」
「なんでもないよ!」
「あっ、奥に農園風の区画があるって、行きましょう!」
「走ると危ないよ!」
「やだ、エヴァンったら、ここには走るために来たんでしょう?」
「そ、それはそうだけど…」
「じゃあ競走よ!」
「あっ、待ってよ!」
農園の区画では初めて見るお野菜や果物があって、管理の人にいろいろ質問して教えてもらった。前世と同じお野菜もたくさんあったので、帰りにビジターセンターのようなお店もある建物で少し買って帰ることにした。
エヴァンに訊かれたので、家で何か料理をしようと思ってと答えるとエヴァンだけでなくうちのエルサもスティーブもびっくりしていた。そうね、男爵令嬢しかも12歳が料理、は普通しないわね。でも一応記憶があるから作れないことはないと思う。この身体では練習は必要でしょうけど。
「簡単なものなら自分で作れるようになったほうがいいでしょ?」
「なんのために?」
「うーん…なんだって自分でできたら嬉しいから、かな?」
3人共訝しげだったけど、前世の記憶がある私にとっては普通のことで、人生何が起こるかわからないことを体験した私にとってはなおのことだった。
エルサとスティーブは前世の私と同年代だけど、エヴァンはずっと年下だ。だからわからないことは適当に返事をするのではなく、きちんと伝えたい。
「私はまだ子どもで、エルサやスティーブに守ってもらったり、家でみんなにお世話をしてもらっているけれど、いつかは大人になるでしょう?」
「うん」
「私が大人になった時、この世の中がどうなっているかわからないって思っていて」
「えっ?どういう意味?どうなるかって、戦争が起きるとか?」
「あっ、違うの!ううん、そうね、そういうこともあるかもしれないけど」
「じゃあ、何?」
「もしかしたら、今よりも女の人が働くようになったり」
「エルサみたいに?」
とエヴァンが彼女を見る。
エルサも貴族なのでいつかは家に戻ってどこかへ嫁ぐことになる。この世界の人生設計を考えると、それは案外早いかもしれない。
「ええ、でも侍女だけではなく、今は男の人しかしていない仕事を女の人がすることが増えるんじゃないかなって。例えば今も就いている人はいるけれど、教師や、医師の人数が増えたり、専門的な物を取り扱うお店を開いたり…服飾や宝飾品は女の人の感覚も必要よね。それにレストランやカフェも…」
そこまで話して、3人がポカンとしていることに気付いて恥ずかしくなった。
「…なんて、そんなのわからないけど、でも、自分でもできることが増えたら、自信がもてそうだわって…」
最後はモジモジしてしまったけれど、エヴァンが
「アンヌはすごいな!僕も負けないようにがんばるよ!」
と言ったので、きっとエヴァンは立派な大人になるわと応援の言葉をかけた。そして帰りはエヴァンが屋敷まで送ってくれたので、お礼に今度はうちに遊びに来てねと伝えた。
いつかは解消される婚約者候補だけれど、それまでわざわざ関係を悪くすることもないし、仲良くしていたほうが解消後も気まずくならないだろう。
「さようならまたね」と手を振りながら『エヴァンにとってあまり恥ずかしくない婚約者候補でいられるようにしなくちゃね』と思ったのだった。
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エヴァンはさておき、買ったお野菜のうち、ニンジンはレモンとオイルを使ったラペに、じゃがいもは千切りにしてガレットにした。厨房でシェフと一緒に作ってとても楽しかった。食事の時にお母様が
「アンヌはいつの間にこんなに大人になったのかしら。好き嫌いが多かったのに、お野菜が食べられるようになったのね、立派だわ〜」
とほめてくれた。なるほど、偏食でぽっちゃりだったのかも?と思ったけれど、すかさずお兄様たちが
「母上、アンヌはそのうち何でも食べられるようになるって俺達が言ってたじゃないか」
「しかもこんな料理ができるようになって、やっぱり俺達の妹はすごいな!俺達にそっくりだ!」
「食事の後はアンヌの好きな焼き菓子を買ってきてあるから一緒に食べような」
「フルーツもあるぞ」
と言っていたので、ああ、体型はこの二人のせいだなと思った。
これはいけないと食事の改善と運動として室内でこっそりストレッチや筋トレをすることにした。エルサにはどうしてもバレてしまったが、もう少し見た目をスッキリさせたいと言えばニッコリ微笑んで、運動中に人が急に部屋に入って来ないように見張ってくれた。
平凡は平凡なりに努力して今よりステキになりたいものだもの。いつかエヴァンと別れることになるのなら、その後で幸せを掴めるように、できることは増やそう。前世の知識に頼りすぎて妙なことにならないようにも気をつけなくては。
そういうわけで、12歳なのでまだまだ伸びしろがあるはず、と裁縫や楽器にも挑戦してみることにした。が、楽器は前世同様上達の見込みはないことが早々に判明した。でも歌は楽しいので、お庭でもしょっちゅう歌ってスティーブとエルサに明るくて良い声だとほめられた。うちの人たちって褒め上手。
裁縫は意外と性に合っているのか、刺繍も上手だと褒められたので、ハンカチにニンジンと小鳥を刺してみた。オレンジ色と緑の小鳥はなかなか可愛らしくできた。ちょっと変な組み合わせだし鳥はメジロだからここの人たちにはわからないみたいだけど、いいよね。
そんな風にすごしていたらエヴァンが家に遊びに来ることになった。エルサが「婚約者候補なのだからハンカチに刺繍をして贈ってはどうか」と言うので、この前庭園で見た桃色のお花を刺した。おそらく芝桜だろう小さな花。それだけだと少し寂しい感じがしたので、一緒に咲いていたブルーの花も刺す。遠目だったけれど、多分ブルースターかな。
遊びに来たエヴァンはとてもとても喜んでくれたので、今度はラッセルの家紋を入れてあげると約束した。その後も私達は定期的に交流をもった。時にはあの庭園に行き、時には屋敷で私の作ったお菓子の味見をし、時には一緒に演劇を観に行った。
こうして思っていたよりも交流して良い関係を作っているうちに、私はいつの間にかエヴァンのことが好きになっていた。だってエヴァンはいつも元気で優しくて、近くにいてくれたのだから。
けれど、最初の「お詫び婚約」の時の「友達」発言を聞いた彼のホッとした笑顔が忘れられず、この気持ちはしまっておくことに決めていた。
中身が大人なのに、子ども相手に我ながらバカみたいだと思ったし、またあんなツラい思いはしたくない。
その後、周りが私達を「婚約者候補」ではなく「婚約者」だと思っていると気付いたけれど、それを訂正せずにいるくらい好きなのに、まだ、もう少し、と思っている自分が滑稽だった。
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その風向きが変わったのは、1年後、13歳になった私がエヴァンの通う学園に入学してから少し経った時のことだった。
明るいエヴァンは学園でも人気者で、いつも高等部で華やかな友人達に囲まれている姿を見かけた。男爵家なのに生徒会のメンバーに入っていてエドワード王太子とも平気で話している。すごい人だったんだなと思った。
エヴァンは学園内で私を見かけると、いつも近くに来て声をかけてくれたが、彼の友人たちは遠くから私達を見ているだけで、言葉を交わすことはほとんどなかった。高位の皆様だものね。
中でもエヴァンと距離が近く感じられる子爵令嬢のヴィヴィアン・アークライトは、エヴァンが私との会話を終えて離れるとすぐに私をチラチラと見ながらエヴァンに近付き、何やら話しかけていた。
「これは牽制されているわねぇ…」
当初の目的通り、そのうち円満に「婚約者候補」を解消しようと思っている私にとってヴィヴィアンのようにわかりやすくエヴァンに近付く女性は重要な存在に思えた。胸の痛みを誤魔化して、エヴァンとの会話を短く切り上げるようにした。
そのうち、私も同じ学年で友人ができて教室の移動や昼食を共にするようになった。放課後は手芸クラブにも参加するようになり、エヴァンと家で交流する機会も減った。
そうは言ってもエヴァンは時々我が家に顔を見せてくれる。律儀な人だ。
「アンヌ、学校であまり見かけないから心配していたけど、元気そうで良かった」
「手芸クラブが意外と忙しくて…今はテーブルセンターに刺繍をしているの。今度バザーに出して、収益は寄付する予定よ」
「そうか、アンヌは立派だな」
「手芸以外はあまり特技がないからよ」
「そんなことないよ!」
「ふふ、ありがとう。嬉しいわ。エヴァンも忙しいのでしょう?」
「ああ…生徒会の手伝いをさせられていて。卒業後の人脈づくりに必要だから仕方がないけど、もっとアンヌとゆっくりしたいよ」
「エヴァンは人気者だから仕方ないわ。学年も学部も違うし」
「ああ…アンヌの作ったショートブレッドが食べたい…」
ぽつりと言うエヴァンは本当に疲れているようだ。
「まあ、じゃあ今度作っていくわね」
「えっ、本当?」
「ええ、もちろん」
その夜、「約束した手前、仕方がないわよね」と言いつつ、嬉しい気持ちでショートブレッドを焼いた。
次の日、カフェテリアで友人のレイチェル・ブレンドンと一緒に午後の授業に向けて詩の暗唱の練習をしていると、向こうからエヴァンたちが歩いて来た。小さく手を振られたので振り返すと小走りにやってきたエヴァンが
「アンヌ、もしかして、作って来てくれた?」
と期待を込めた顔で訊いてきた。私はバッグから小袋を取り出し手渡しながら
「ちょっと作りすぎちゃったから、良かったらみんなで食べてね」
と伝えた。エヴァンは「え?それはないよ。でも、ありがとう」と言うと仲間のところへと戻って行った。そうねぇ、高位のお友達には出せませんよね。
レイチェルが
「ねえ、やっぱりラッセル様と婚約してるの?」
と訊いてきたので、私は、まだはっきりと決まっている訳ではないとやんわりと伝えるにとどめておいた。
「でも、ラッセル様は…」
「そう、エヴァンは人気があるから。今だってほら」
そう言って見ればヴィヴィアンがエヴァンの側に身を寄せ、彼は彼女の肩に手を置いていた。
「…あれは」
「私は学園に入学する前からの知り合いで、家族ぐるみのお付き合いって感じなのよ。だからエヴァンを縛るものは何もないの。もちろん私も同じよ」
「それより良かったら食べてちょうだい」とレイチェルにもショートブレッドの並んだ箱を差し出すと、ワッと声を上げたレイチェルは急いで私の分ももらってくるねと紅茶を取りに行った。待っていると、
「あれ、これ手作り?」
「そうよ、良かったら1つどうぞ」
「やった、ラッキーだな」
同じクラスのクライド・エイデンがやって来て、同じ席に着いた。伯爵家の嫡男だが気さくでいい人だ。勉強もよくできるし、スポーツでも目立つ。人付き合いもスマートで人気者。うちの学年のエヴァンといった感じだ。
クライドだけではない。レイチェルも語学や数学で既に目立っているし、何と言ってもその美貌には目が眩みそうだ。あまり容姿のことを言ってはいけないと思いつつあまりの美しさに時々見惚れてしまう。そしてなんと彼女は侯爵家令嬢なのだ。
どうして私と仲良くなったのか、本当に不思議だが、おそらく前世の人権感覚のせいで彼女に対してあまり遠慮がないので気が楽なのだろうと思う。そこそこ高位で美人とくれば友達作りも苦労がありそうだよね、と前世持ちは思うのだった。
「あら、クライド、一緒に食べるの?紅茶もう一つもらってくればよかったわ」
「いいよレイチェル、アンヌのを少しもらうから」
「いやだわクライド、そんな行儀が悪いの」
「大丈夫だよ誰も見てないし」
「そういう問題じゃないのよ」
そんなやり取りをしている間にもサクサクとショートブレッドを食べるクライドは、結局紅茶も全部飲んでしまった。
「もう!一口も飲めなかったわ」
「今度、街の人気のカフェでコーヒーをご馳走するからさ」
「コーヒーは苦いから飲めないの」
「子どもだなぁ」
肩を竦めたクライドの肩を軽く小突くと、大げさに痛がっていたので、ハイハイといなしてレイチェルと午後の授業に向かった。エヴァンたちがカフェテリアの奥でまだ何か話しているのが見えた。
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放課後、手芸クラブが終わって外に出ると門のところにエヴァンの姿が見えた。偶然出会えたのが嬉しくて、ショートブレッドの感想を聞こうかと近くに行くと、門の陰からヴィヴィアンが現れた。思わず立ち止まってしまった私の耳に二人の会話が届く。
「手作りのお菓子なんて、貴族なのに素朴ぅ…」
「はっ、笑わせるな?」
え…笑わせるなって…本当は嬉しくなかったの?…確かに貴族令息に手作りお菓子はないかもしれないけど、エヴァンが頼んだのに?
「ねえ、1本くらい分けてくれてもいいでしょう?」
「手作り菓子を、貴族のお前がか?」
ひ、酷い…確かにそんなに美味しくないかもしれないけど、一生懸命作ったのに…婚約も結婚もしなくても、エヴァンとはいい関係だと思っていた私は衝撃を受けた。
「そうだよ…あの時だって、信じてたのに…」
ショックのあまり、前世の最後の記憶、遊園地での出来事を思い出す。彼だと思っていたのに私の目の前で理沙と抱き合っていた悠太。そうだ、もう恋なんてしないと決心したのに、またこんな風にエヴァンを好きになってしまった。その結果がこれだ。
私は二人に気づかれないように、そっと校舎に戻った。今更刺繍を再開するのもなんだし、そんな気分でもないし、と図書室で植物図鑑を広げる。刺繍の図案になりそうなものを探していたら、庭園で見て感動したあのピンクの花が載っていた。
「花言葉は『私を拒否しないで』『臆病な心』だって…私にぴったりだったんだ…」
気がつくと、図鑑にポタポタと涙が落ちていた。「いけない、本が濡れてしまう」と慌ててハンカチで拭き取る。良かった、大して濡れていないからすぐに乾くだろう。
机の奥に図鑑を押しやって、乾くのを待っていたら、また悲しくなって涙が出てきた。
「あーあ…馬鹿みたい」
「何が?」
「わっ!?」
振り返るとクライドがいた。
「誰が馬鹿みたいだって?」
「やだ、聞いてたの?」
「図書館は静かだからね、聞こえたって感じかな」
「…それは…そうね。ごめんなさい」
「嘘だよ、小さい声だった。でも近くに来たから聞こえたんだ」
「聞かないでよ…」
「ごめん。でも心配で」
「…どこから見てたの?」
「君が校舎を出てから」
「ずっと?」
「うん、ずっと」
「〜〜〜っ!」
恥ずかしくて顔が熱くなる。全部じゃないの。
「アンヌはエヴァン先輩と婚約しているの?」
「『婚約者候補』よ…別にお互い縛りはないの」
「本当に?」
「本当よ」
クライドは何やら嬉しそうに笑うと、
「もう遅いし、帰ろう。送っていくよ」
と言った。断ったが「いいからいいから」と押し切られて、本を棚に戻すと一緒に外へ出た。日が傾いて、夕方から夜になろうとしていた。
「アンヌは、将来何がしたいの?」
「え?そんな…特には。あ、でも手芸は好きだから、いろいろな物を作りたいかな」
「そうなんだ。いい夢だね」
「夢…そう、夢なのかな。でもそんなにすごい物は作れないから…どうかなぁ。小さい頃は、私って平凡だし、普通にどこかに嫁ぐんだと思っていたけど、今はそれも無理な気がする」
「えっ、平凡?そうかな…それに、どうして無理だなんて思うの?」
「だって、ほら、勉強も運動もそれほど得意じゃないし、語学が堪能とかでもないし…」
努力はしてきたけれど、前世ですごい能力が高かったわけではないから特技もないし、この世界でもアンヌは平凡だから地味に生活している。
「えっ?本気で言ってる?」
「何が?」
「君、社会学の時間になると教室で1人だけ先生と渡り合ってるよね?特に経済や政治の分野では」
「そ、そう?」
「気付いてなかったの?」
「あんまり…」
確かに前世は公務員か金融系を希望して就職活動をしていたから、今の同級生よりはいろいろなことを知っているかもしれないけど。目立っていたなんて恥ずかしい。
「もしかして、私、物知り顔で嫌な感じだったり…?」
「そんなことないよ!嫡男組はみんな賢いアンヌが自分のところに来てくれないかなって…あっ」
「えっ?」
「…いや、折角隠してたのに、自分でバラしちゃったのが…」
「…」
なんだろう、何だかクライドが甘酸っぱい感じを醸し出しているような。
「それに、あのレイチェルと仲良くできるなんて、すごいって」
「『あの』って?」
「ああ、アンヌは中等部からだから知らないか。レイチェルはあの通りだから、初等部の時はやっかみが酷くてなかなかツラいめに遭ってきたんだ」
「ああ、そういう」
なんとなく想像がつくのは、前世で理沙もそういうところがあったから。彼女は女子からのやっかみを受けると、いつも「そんなつもりないのに…」と悲しげで、「気にするな」と男子に慰められていたっけ。でもまさか「レイチェルも…?でもそういう感じでもないような…」と思ったところで
「嫌味を言われるとものすごい勢いで言い返して、酷い時や相手が馬鹿な男子の時は掴み合ってやっつけてた」
とクライドが言ったので、想像して大笑いしてしまった。そして一瞬でもレイチェルを理沙と重ねたことに心の中で謝った。ごめん、レイチェル、変なこと考えて。やっぱりあなたはあなただわ。
「そのレイチェルと平気で楽しそうに付き合えるアンヌは女子からも人気だよ」
「へっ?な、なんでそんな」
「本当に自分のことがわかっていないんだなぁ、君は。まあいいや、そのうちで。今日はもう帰ろう」
「う、うん…」
『そのうちで』『今日は』ってなんだろうと思ったけど考えるのはちょっと…な気がして、ズンズン歩いた。と、門の外にエヴァンがいた。
「エ、エヴァン?どうして…」
「アンヌを待ってたんだ」
「そんなの…」
「そんなの、何?僕が嘘をついているとでも?」
「そうじゃないけど…」
不機嫌そうなエヴァンを見るのが悲しくて俯いてしまった。だって、さっきヴィヴィアンとショートブレッドの悪口を言ってたじゃない、という反論が心のなかでぐるぐるしていたけど、言葉にすることはできなかった。
「ラッセル先輩、そんな言い方は」
「うるさい!クライド・エイデン、お前には関係ない。第一、なんなんだ、人の婚約者とこんな夕方まで過ごすなんて。いくら学園でも許されないことがあるだろう!」
そこで私とクライドは「「え?」」となった。
「「婚約者?」」
「そうだ!アンヌが学園を卒業したら結婚だ。なのにこんな」
「ちょ、ちょっと待ってください!アンヌ、君、『婚約者候補』って言ってたよね?」
「え?ええ、そう…」
「何を言っているんだ!僕達はもうずっと婚約しているじゃないか!」
「「ええ〜っっ??」」
怒っているエヴァンを宥めるために、とにかく二人で帰ることにして、クライドには
「ごめんなさい、こんなことになってしまって。明日、説明するわね」
と謝った。クライドは
「あー…うん…いいんだ、気にしないで。多分ラッセル先輩は…」
と言ってくれたけど、その言葉も聞き終わらないうちに私はエヴァンに手を取られ、迎えの馬車に乗せられたのだった。
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屋敷に着いて、お父様、お母様、そしてエヴァンと私でリビングで話をした。驚いたことに、私とエヴァンは本当に婚約していた。「お友達」ではなかったのか、返事をしたつもりはなかったのだがと言うと、エヴァンは泣きそうな顔で言った。
「だって、あの時、『幸福な愛』『信じあう心』のブルースターと『私を拒否しないで』の芝桜をハンカチに刺して贈ってくれただろう?」
「あ…」
バッと控えていたエルサを振り向くと、うんうんと大きく頷いている。そうか、そういう教育は受けてなかったからなぁ…あれが返事になっていたなんて。想定外すぎて言葉が出てこない。
え、ホントに?私とエヴァンって婚約者同士だったの?嬉しいとか何とかじゃなくて、ただその驚きだけだ。
「ねぇ、アンヌ?あなたはエヴァンのことをどう思っているの?一緒になりたいとは、思っていないの?」
固まっている私に、お母様が優しく訊いてくださる。それはもちろん、
「…私も、エヴァンのことが…好きです」
すると突然エヴァンが立ち上がって、いわゆるガッツポーズを取ると、お父様とお母様に「やった!ほら、好きだって言ってくれましたよね?」と恥ずかしげもなく訊いている。
「でも!」
私は今日までのことを思い出して、エヴァンに訊いた。
「最初に婚約のお話をいただいたのは、私を水に落としたお詫びでしょう?それに、お友達からと言った時にホッとしていたじゃないですか」
エヴァンはびっくりした顔で、
「え?水に落ちた君が僕を責めずに『自分一人ではそんなことをしようとも思わないので、水に落ちたのもちょっと楽しかった』って言ってくれたのが嬉しくて、なんてステキな子なんだって、僕が父上に婚約を頼んだんだよ?」
「え?」
「それに友達からっていうのは、僕のことを嫌いではないってことだって思って、よし頑張るぞって嬉しかったんだけど」
「え?」
「どこに行っても何を見ても楽しそうにしているアンヌを見るのは、幸せだった。野菜を見てあんなに嬉しそうに大人と詳しく話せる令嬢なんてどこにもいないよ」
「ああ…あの庭園の…」
「それにアンヌは自分の将来のことだけじゃなくて、この社会の先のことまで考えていて、年下なのにすごく立派で、だから僕は君に尊敬されるようにどんなことも努力しようと決心した。実際に力をつけて、結果も出してきたつもりだけど、どうだい?」
「あ、ええ、本当にエヴァンはすごいと思うわよ?」
私の言葉に顔を輝かせたエヴァンを見るお父様とお母様の表情から「ちょっとぉ…」という気持ちが感じられる。あれ?おかしいな…
「ええと…それに学園ではヴィヴィアン様が…」
「ああ、ヴィヴィアンは生徒会で全く仕事ができなくて、みんな困っているんだ。人との距離も近くて面倒なところもあって…でも高位の人からだと指導になってしまって、流石に彼女の立場が悪くなるから、僕が一手に面倒を引き受けて、助言しているんだよ。彼女の家は子爵だけど資産はすごいから。寄付をしてもらっている学園としても彼女の機嫌は損ねたくないんだ」
そうだったの…あ、でも。
「先ほど、ヴィヴィアン様とショートブレッドのことを…」
「あ、あれを聞いていたのか」
サッと顔を赤らめたエヴァンに厳しく言う。
「そうですよ!ヴィヴィアン様が『手作りのお菓子なんて』と言ったら、同意するように『笑わせるな』って…もちろん高級ではないですし、仕方がないかもしれませんけど…」
悲しくなってきた私の震え声にお父様の顔がギリッとなったが、エヴァンが
「い、いや、違う!あれはヴィヴィアンが手作りを下に見るようなことを言ったから、自分では何もできないくせに『笑わせるな』とヴィヴィアンに向かって言ったんだ」
「えっ?そうなのですか?」
「そっ、そうだ!しかもそのくせ、1本くらい分けてくれてもいいだろうなんてふざけたことを言うから、最初は素朴だって馬鹿にしたくせに食べさせるわけないだろうって…これを食べることができるのは俺だけだ!」
「ええ〜?そんなこともないと思いますケド…」
そんなことを考えてくれていたなんて、気づかなかった。わかりにくい言い方しないでほしいわ…貴族って難しい。いや、でもエヴァンはまだ16歳だものね。
「いいや、だからあのレイチェル・ブレンドン嬢に分けているのは許すが…正直クライド・エイデンが食べたことは許し難かった。それもあって帰りに待っていたんだ。『エイデンと距離が近すぎるからもう少し離れてほしい』と…その恥を忍んで頼もうと…」
「エヴァン…」
私がいろいろと誤解していたことがわかった今、もう言うことはなかった。それが伝わったのか、エヴァンは立ち上がり、私の側に来ると跪き、言った。
「アンヌ、僕はあの日からずっと君が好きだ。優しく、賢く、公正で、美しい、僕のアンヌ。もう一度ここでお願いする。僕と結婚してくれ。絶対に君に相応しい男になると誓う。君を幸せにすると誓う」
「…はい。私もエヴァンに相応しくあるよう、そしてあなたを幸せにできるよう努力いたします。…エヴァン、私もエヴァンのことが、だ、大好きです」
エヴァンの笑顔が素直に嬉しかった。お父様とお母様も仕方がないなぁという笑顔を浮かべていた。エルサとスティーブも、控えていた他の者たちも皆微笑んでいた。
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次の日から、昼食時にエヴァンが必ず私とレイチェルのところに来て挨拶をし、私の指先に口付けるようになった。13歳の私も大人の私も恥ずかしかったけれど、エヴァンの気持ちは嬉しかった。
「変だと思ったのよね〜」
今日も指先へのキスの後に王太子の元へ向かったエヴァンを見送りながらレイチェルが言った。
「あんなに毎日アンヌのことを見つめているのに『婚約者候補』だなんて」
「それは…でも私は本当にそう思っていたのよ?」
「しかも、何だかあなたって、自分のことがよくわかっていないっていうか」
「…それは、家でも言われたけど…」
実はあの後、お兄様たちから、私の素晴らしさを力説された。
「12歳ながら父上と俺達の領地経営の話に普通に参加できるなんて、あり得ないし」
(それは、中身が大人だからで…)
「ちょっとやそっとじゃ怒らない寛容さ」
(それも、中身が大人だから、子ども相手には怒らないっていうか…)
「こっそり鍛えているからかスラッとしてるし体力もあるし」
(っっ!)…エルサを見るとサッと視線を逸らした。秘密のストレッチのこと言ったわね?
「料理に挑戦したりするのも、ユニークでいいよな」
(まあ、この世界では、それはそうかも…?)
「刺繍の腕前もなかなかだ」
「…ありがとうございます」
(これは素直に喜べるわ)
「それに、俺達にそっくりで可愛い!」
「…」
そう、これに関しては運動したり食事に気を遣ったりしているうちにすっかりスッキリしていたようだが、自分では気付いていなかった。だって、12、3歳の子はそれほど自分の見た目を気にしないものでしょう?特に自分が平凡だと思っていたら…違うかな。違うかも…でも子どもから大人へと成長する中での緩やかな変化だったし。
だからエルサにも聞いてみたら、『お嬢様の可愛らしさは他の追随を許しません』と言われて、ようやく私はお兄様たちと同じくらい容姿に恵まれていたことに気付いた。
自分の努力だけでは得られない部分でもあるので、ちょっと居心地は悪いが、エヴァンが好きだと言ってくれる自分の一部だから受け入れて大切にしていこうと思う。エルサが言うには、この先もっと髪の色は濃いブラウンになり艶も出てくるし、顔立ちも洗練されていくらしい。
そうやって自覚してからの今日のレイチェルの追求である。
「とにかく、同級生の男子達がアンヌとお近付きになろうとしているのを、私がどれだけ防いでいたと思っているの?」
「そ、そうだったの…ありがとう?」
「あーあ、それにしても、クライドは可哀想に」
「え?」
「何でもないわ〜でもまあ彼は常識人だし、大丈夫でしょ」
今となっては、本当はどういう意味かの見当はついている。でも言わない。言ってはいけないと思う、無自覚だった私。あれからクライドはあまり私たちに近付きすぎないように気を付けているようだった。あの時エヴァンにビシッと言われたものね。
自分を振り返ってちょっと反省していると、レイチェルが言った。
「あら、もうこんな時間!午後の授業が始まってしまうわ!」
「わ、本当だ!急ぎましょう!」
二人してテーブルの上をササッと片付けて教室へ向かう。カフェテリアの向こうを見ると、エヴァンもこちらを見ていて大きく手を振ってくれたので私も振り返す。
『いつか、エヴァンは大人だった前世の私を追い越すのね。そして私も、今よりも、前世よりも、もっとずっと大人になる』
それはきっと思っているよりもずっと近い将来で、これまで以上に本気を出して頑張らなくてはと思う。前世のリードがなくなるのだから。エヴァンにがっかりされないように、自分に自信を持っていられるように。
その頃にも大好きなエヴァンといられることが楽しみだ。ジェットコースターで急降下したあの日は、こんな気持ちになれる日が来るなんて想像もしていなかったな。
「午後も頑張るぞ〜」
「なあに、アンヌったら張り切っちゃって。あ、エヴァンのキスのおかげかしら?」
「もうっ!」
「あら、真っ赤!」
「からかわないで!」
レイチェルと廊下を急ぐ私の心は晴れやかだった。
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