3-2愛人をつくれば
二人だけの空間。
この部屋の空気さえも、彼の威圧的な声に平服したかのように私に重くのしかかる。
「この結婚がなぜ成されたのか、君は全く分かっていない。」
夫の声には険しか含まれていない。
貴族同士の政略的な結婚の重みを軽んじているとでも言いたいのか。でもだからこそ早く婚姻関係を終わらせた方がいいのではないか。3年経っても後継者がいない侯爵家は他家からの信用が薄らぐし、彼だって今年24を迎える。次のために急いだ方がいいに決まっている。
仮面夫婦を続けながら世継ぎだけはと義務のように心を殺して営んでいる夫婦はたくさんいる。それすらもしない私たちに、関係を続ける意味があるのだろうか。
背中に嫌な汗が伝う。
何をどう言えば攻撃の材料にされないか、唇を閉ざして考え込む私に夫は続けざまに畳みかける。
「君は最近、公爵夫人主催の茶会やネロー伯爵のサロンと懇意らしいな。」
「…何か問題でも。リッチモンドには不利益にならないと判断した上での参加ですが。」
嘘ではない。高位貴族夫人の集まりも酒好き伯爵のサロンもリッチモンドと敵対する王族派の重要人物は出入りしていないのは確認済みだ。中立派出身の私の後ろ盾となり得そうな人物とのみ親しくなれるよう気を付けているし、何が問題なのか。
唯一の懸案点があるとすれば、ネロー伯爵が石炭事業を考えているというところか。そうなれば競合相手はウィストン伯爵家…リージア様のご実家だ。しかしまだこの情報は公にはなっていないはずだが…まさか…それ…?
「…シルヴェスター様。何を聞いたのかは分かりませんが、私にも私の事情があるのです。あなたの私情で私の交友関係に口を出すのはお辞めください。リッチモンドには不利益はないはずです。」
「…そこまで執心しているとはな。」
ハッと吐き捨てるように嘲笑われる。
…嫁いできた女が家に居場所がないということがどれほど心細いか分かっていないのだろうか。分かっていないんだろうな。というか考えにも及ばないのだろう。
生まれ育った家でそのまま暮らして、将来は約束されていて、気ままに愛人と遊んで。そんな人には分からないだろう。必死で自分の居場所をつくる私の気持ちなんて。
バカにされ、沸々と頭に血が上っているのが自分でも分かる。
「あなたに私の気持ちは分からないでしょうね。」
(…頭が痛い。)
なるべく穏やかに言えるように血が上っている頭を無理やり鎮める。
ああ、だめだ、怒りを抑え込んだら今度は泣きそうだ。
目も熱くなってきた。でもだめだ。この男の前で泣くもんか、と心を強く持つ。
「…あなたはいいですね、望むものを手に入れられて。でもあなたの幸せには私の心が犠牲になっていることをお忘れではありませんか…?私ならばいくら傷つけても構わないとお思いですか…!!」
奥歯が震えたせいで上手く喋れなかったかもしれない。それでも夫を責める言葉はするすると零れてくる。3年間我慢してきたものが決壊したかのように溢れた。
「…はやく…私を解放してください…。」
ぽつりとつぶやいた言葉は、もはや考えて発したものではなく、心の底から零れた願望だった。
…それでも。
夫は私の方を見てくれないけれど。
「…婚姻を白紙にすることは認められない。」
返って来たのは絶望的な一言。
(―――ああ、続くのか。この地獄が。)
そう思うと、久しぶりに胃に鉛が落ちてくる感覚に陥った。
誰にも必要とされない。子を成すという役割すら与えられない。部屋に来てくれなければお帰りすら言ってくれない顔も見てくれない。そんな名だけの妻という地獄に、まだ私を縛り付けるのか…。
「だが…そこまで言うなら…。わかった。」
何が分かったのだろう。
私がこんなに必死の想いを告げているのに平然と茶をすすることができる夫でも、何か分かることがあったらしい。
「確かに私たちではお互い心の支えにはなれないだろう。さすれば他の者を一時の慰めにするのも悪くはない。」
蒼い眼は伏し目がちに横に流される。まるでここには居ない者を見つめるかのように。
…一時の慰めになる他の者…リージア様か。
「…メルヴィーナ、君も、つくってみたらどうだ。」
時が、止まる。
そんな、「趣味のひとつでもつくってみればいいさ」と言うかの如く軽い口調で言われても、何が何だか。
いや、待て。いったん整理しよう。
『一時の慰めになる他の者を君もつくって気を紛らわせつつ婚姻関係を保て』ということか?
君も、君も…も???
「…愛人を、ということですか。」
「ああ。」
夫は大層面倒そうに短く一言答える。
どかっと背もたれに大きな体を預け、天井を仰ぎ、薄い唇からため息を一つ。私に見せつけるかのように。
まるで「これで解決。話は以上だ。」と言われているかのようだ。
…この男。
本当にどこまでも私を馬鹿にしてくる。
(ああ、でも仕方がないか。)
愛していない妻に対して思いやりを持てというのも無理な話だ。
離縁は双方の同意が無いと成立しない。
こうなった以上、私がすべきことは一つ。
夫を!ギャフンと言わせる!!!
「…分かりました。言いましたからね。聞きましたからね。」
「もちろんだ。」
もうここまで来たら意地である。こんな仕打ちを受けておめおめと泣いてなんていられない。
絶対に夫よりもいい男を捕まえてやる。
キッと目の前の男を睨むと、私の険に気が付いた夫はただでさえ切れ長の目を細めて睨み返してくる。
”夫よりも…いい男”…。
自分で決意しておいて、内心若干たじろいでしまった。
わが夫、中身はクソオブクソだが、悔しいことに外見だけで言えば本当に宝石級なのだ。
「…ああ、子だけはつくるな。」
思い出したように付け加える夫。
前言撤回、自信を持て、私。
いくら顔が良くても中身がこれだ。総合点で夫よりもいい男はゴロゴロいるはず。
妻の留守中に愛人を自宅に招き入れるくせに、自分のことを棚に上げて妻にこんな不躾な小言を言ってくるなんて。
「もちろんでございます。でもそれは貴方も同じです。見ていてください、愛人の一人や二人、すぐにつくってみせますわ!!」
すくっと勢いよく立ち上がった私を見上げる目は、やはり憎しみが込められていて。
耐えられなくてすぐに夫から視線を引きはがしアイボリーのドレスを翻した。
初めて入った執務室から出ると、私の荒ぶる感情が足に乗り移ったかのように自然と歩みが早く荒くなる。
纏わりつくアイボリーのドレスが鬱陶しい。
嫌味のつもりだった。
”私たちは未だ白いままですね”と”3年前の結婚式で着た純白より、だいぶくすんでしまいましたよ”と。
自己満足の域だが、言えない皮肉をのせた装いで気に入っていたのに、肩透かしを食らってしまった。
…やっと解放されると信じて期待して、最後のつもりで袖を通した。
勢いで「愛人をつくってやる!」と言ってみたはいいものの、ずんずん歩いていくうちに、その勢いはどんどん失速していって。…だって白いドレスが足に絡まって邪魔なんだもの。30分前、あんなに心躍らせていた自分が馬鹿みたいだ。
ドレスさえも浮かれていた私を笑っているみたい。
(ああ、だめだな。いつからだろう、こんな悲観的になったのは。)
こんな私、自分だって嫌いだ。
終わると思っていた。来るはずのない人を待ち続ける日々が。
(やっと、あなたから解放されると思ったのに…)
愛人という慰みで気を紛らわせながらでも、あなたの妻でいなければいけないのか…。いっそ、いっそ他人になれたらどれほど楽だったか…。
溢れる涙が、一層私を惨めにさせた。