3-1愛人をつくれば
約半年ぶりに帰って来た侯爵邸は、以前より少し明るく感じられた。
「お帰りなさいませ、若奥様。予定より1日早いご帰宅ですね。」
「ええ。長距離移動にも慣れたから休憩をあまり入れずに来たの。領地に行っていたとはいえ、こちらの家のことも気になっていたし。」
使用人たちに声をかけながら、家の中をきょろきょろと見渡す。ああ、明るいと感じたのは花が活けられていたからか。花器も新調したのか、見たことのないものがある。白磁の流線が美しく、なかなかのものだ。
「なんだか屋敷の中が華やかになっているわね。春だからかしら。」
「あー、ええ…左様でございますね…。あ、若奥様、長旅でお疲れでしょうから湯浴みの準備ができております。」
執事の返答は歯切れが悪いし、何か急かされているような気がする。何かしただろうか。いや、領地で義父母と過ごしていただけだ、むしろ褒められるべきだろう。
様子のおかしい執事を訝しがりつつ、勧められるままに階段を上っていくと、1階にある中庭へと続く扉が開く音がした。
執事はばつの悪そうに眼を瞑り額を抑える。私は肺が萎むほど深いため息をつく。
入ってきたのは、シャツ姿で両手いっぱいに花を抱える我が夫と、春らしい黄色いドレスを纏ったリージア様だ。
「「「・・・・・・。」」」
2時間くらいは時が止まっていた気がする。…盛った。実際は10秒ほど。
事実だけを記す。妻は半年家をあけていて予定より1日早く帰宅した(←問題ない)。夫はラフな格好で(←ん?)よその女と(←問題あり)中庭をうろついて、本来ならば妻が帰ってきていないはずの家に女と戻ってきたところ妻と鉢合わせた(←問題大あり)。
ここからは事実に基づいた私の推測だ。
半年間妻のいない家で愛人とさぞ楽しい時間を過ごして、最後の1日、”明日からも私と過ごした日々を忘れないでね”というかのように女好みの花を家中に飾って妻へ牽制しようと思っていたところに、予想外に妻(邪魔者)が帰宅したってところだろうか。
「私は止めたのですが…。」
執事が申し訳なさそうに静かに呟く。
こういうときは先手必勝だ。こんなところで負けていたら”社交界の薔薇”の名が泣く。
「シルヴェスター様。ただいま戻りました。長らく家を空けておりましたが、領民たちと充実した時間を過ごせました。お客様がいらっしゃってるとは思いませんでしたので、手土産も無くごめんなさい。ねえ?」
「ああメルヴィーナ様お帰りなさいませ!ちょうどメルヴィーナ様にお見せしようとお花を用意していたんですのよ!ねえ?シルヴェスター。」
リージア様がわざとらしいほど明るく振る舞う。まるでやましいことは何もないと言い訳するかのように。私のため?なんて白々しい!
腹が立つのは隣の男だ。愛人が必死に取り繕っているというのに、面倒そうにため息をはいて、抱えていた花を使用人に預けている。もう話をするのも嫌なのか。
まあでもそうか。もうそろそろ結婚して3年目だ。その日を迎えれば、協会に白い結婚を理由に婚姻関係の取り消しを申し立てられる。
半年ぶりに会ったというのに本当に最悪だ。愛人のことを言い訳しろなんて言わないから、せめてお帰りくらい言ったらどうだ。それすらもない。ここに私の居場所はないということ?…本当に惨め。
鼻の奥がツンと痛むのを堪え、何とか階下にいる夫を見下ろす。きちんと顔を作れているだろうか。情けない顔は隠せているだろうか。
「シルヴェスター様、お客様をお招きするのはもちろん構いませんが、程々にしてくださいませ。」
「・・・・・。」
「…何も仰らないのですね。もういいです。」
何か言えばいいのに。あまりにもいたたまれなくて、踵を返す。さっさと部屋へ閉じこもってしまいたい。
「メルヴィーナ。」
彼の呼びかけは聞こえなかったことにしよう。振り返らずにつかつかと歩みを進める。もうこれ以上惨めな思いはさせないで。嫁いできた家に居場所がないなんて。
だからこそ弱い姿は使用人に見せることはできない。
「家に飾ってあるあの花は全部捨てて。半年前の状態に戻して。」
メイドに頼み、その日は自室に閉じこもった。シルヴェスター様とリージア様が何をしているかはもう知らない。
◇
王都に戻ってからは、高位貴族夫人の集まりや、昨年参加させてもらったお酒好きのサロン、茶会や夜会、ありとあらゆる社交の場に参加した。
リッチモンドとはあまり縁がないところを選んだ。婚姻を無効にした後、私は後ろ盾が無くなる。その時のためになるべく人脈をつくっておきたかったから。
そうこうしているうちに4月。
3回目の結婚記念日がやってきた。
この日のために私も準備をしてきた。ああ、やっと解放される…と思うと、3年間一人で使ったこの寝室にも愛着が…全くわかないな。
それでもその日の目覚めはすこぶる良かったし、朝食もなんだか美味しく感じられた。
そして夜。
「メ、メルヴィーナ様…シルヴェスター様が…執務室へとお呼びです…」
予想通り、白い結婚が3年経った今日、夫から呼び出しがあった。結婚してからこういったものは無かったので、侍女も戸惑っている。
「ふふ、すぐ行くわ。」
結婚して初めてだ。『あなたも私と同じ気持ちだったのね!』と心躍るのは。
それはそれはもう軽い足取りでシルヴェスター様の執務室へと向かう。侍女が扉を叩き、取次をしてくれている間、ふと気がつく。
そういえば3年間、彼の元を訪れるなんてしたことがなかったわね。最初の1年は自分の傷を恥じて俯いてばかりだったし、2年目はどんどん仲が悪くなっていたから、彼のところに来るなんて考えもしなかった。
まあ呼ばれたのも初めてだけど。
通された部屋は案外落ち着いていて、意外だった。侯爵邸全体はお客様が来ることも多いからかなり煌びやかに飾ってあるし、私の部屋も華やかな内装で用意されていた。
侍女たちを下がらせて、部屋には二人きり。向かい合って座る。
そういえば二人きりになったのは3年前のあの夜以来だ。でももう私はあの日とは違う。自分を知られること、嫌われることを恐れていた弱い女ではない。
「…父たちは健在だったか。」
「ええ。」
「領民たちは。」
「変わりなく。」
「・・・・。」
終了である。
悲しいかな、これが仮面夫婦の成れの果て。2ラリーしか会話が続かない。
会話を続ける気がない私にも問題はあるが、そんな関係になり果てたのは彼の責任が大きいだろう。どう見ても。
無言でお茶をすする。
冷えている。私たちのようだ。
まあ、でも。
今日で解放される。
「3年前の今日ですね。」
もう別れてしまうと思えばなんと気楽なことか。
気がついたのだ。3年前、なぜあんなに怯えていたのか。好かれたかったから怖かったのだ。傷を見られて嫌われたくないと怖かったのは、夫との良好な夫婦生活を浅ましくも夢見てしまったから。
だからもう、好かれようと思わなければ何も怖いものはない。失うものなんてないのだから。
だから、明るい声で話せた。
そんな私の様子が意外だったのか、夫は切れ長の目を僅かに見開いて私の顔を見つめている。
「…ああ。」
「それで、話というのは婚姻関係を解消するということですよね?それについてはもう書類を」
笑顔で夫の顔を見ようとした瞬間、心臓が絞り上げられた。
ーーー妻を見る目ではない。もっと何か、憎むべき相手を見るかのような、そんな瞳。
すくみ上がるとはまさにこのこと。
私は心底後悔した。「これで自由が手に入る!」と軽い足取りでこの部屋へ来たことを。
「…君は、何か勘違いをしているな。」