2-1白い結婚
結婚して1年が経った。
救いだったのはこの春から領地に戻った侯爵夫妻の代わりに王都での仕事を任され忙しくなったことだ。私は家の管理の他に義母が取り仕切っていた王都の孤児院2か所の運営で家を空けることも多くなった。
去年1年間義母に教えてもらっていたこともあって、運営は滞りなく、忙しくも充実した日々を送ることができ、寂しさを誤魔化すことができた。
夫も相変わらず忙しいようで、王宮に参内したり他の貴族と会合をしたりとますます顔を合わせる機会が減った。正直、有難かった。辛い思いをせずに済むから。
それに家の外では楽しいことも増えた。
運営している孤児院の男児向けに王宮の騎士が武芸の稽古に週1回来てくれるのだが、そのうちの一人が幼馴染のラルフレートだったのだ。
「ラルフ!久しぶりね!」
「やあメルヴィーナ、君の挙式以来だ。結婚してますます綺麗になったんじゃない?」
「もう、あなたはいつもそうやって。」
「事実さ。」
紫の瞳を細めて柔らかく微笑むその顔は昔から変わっていない。体つきは騎士らしく逞しくなったが、柔和な雰囲気は健在だった。
気兼ねなく誰かと話すのは久しぶりだった。社交の場ではいつも夫と一緒だったし、次期侯爵夫人としての仮面を脱ぐことは叶わなかったから。
ラルフの子どもたちに対する稽古を見学するのは楽しかった。元々人当たりの良いラルフは子どもたちが分かりやすい言葉で説明し、上手くできた子は存分に褒め、膝を折り目線を合わせて話を聞く。
孤児院の男の子たちが楽しそうに稽古に励む姿を見て、女の子たちも参加したいと言うようになった。女子が武芸を身に着けるのは護身にもなる。特に後ろ盾のないこの子たちは自分の身は自分で守らなければいけない。
夏が来る頃には子どもたちは週1回の稽古を楽しみに、毎日活き活きと過ごすようになっていた。
「ラルフ、ありがとう。あなたのおかげよ。」
「俺の仕事をしただけさ。でも君のためになったのなら、頑張って騎士になった甲斐あったよ。」
ラルフの紫の瞳を見ると、心を安らげてくれるラベンダーの香りを思い出す。家で仮面夫婦を続ける冷えた心を支えてくれる唯一の味方。
「そろそろ今年のラベンダーが乾くから、また送っても構わない?」
「もちろん!毎年楽しみにしているの!去年式でもらったものも、毎日枕元に忍ばせているわ。おかげでよく眠れるの。」
「…枕元に…?その…小侯爵様は…嫌がらない…?」
ラルフの遠慮がちな問いにハッとした。まだ結婚して1年だというのに一緒に寝ていないと知られたら体裁が悪い。私たちにはまだ子どももいないのに。
「ああ…夫も、気に入っている香りなの。だから本当に感謝しているのよ。」
苦し紛れの嘘は私自身を突き刺した。本当は夫が寝室に来たことなんてないのに。
しかしその夏の社交シーズンでの格好の話題は”リッチモンド小侯爵夫妻の不仲説”についてだった。なるべく社交の場には夫婦揃って出席していたし、夫婦として親しい姿を見せてきたつもりだった。しかし結婚して1年経つのに懐妊の予兆はない。更に『夫婦の寝室にシルヴェスターが訪れていない』という噂まで出回ったのだ。大方洗濯係か誰かが何の気なしに漏らしたのだろう。
サロンや茶会では遠回しに探られることが増えた。
「メルヴィーナ様はあんな素敵な方と結婚出来て本当に羨ましい限りです。」
「本当ですわ。うちの主人ときたら最近はお腹が出てきて。」
「まあうちもです!シルヴェスター様はそんなことないのでしょうねえ。」
「ふふふ。夫は乗馬が趣味なのでいい運動になっているのかもしれません。」
「まあ!逞しい体に愛でられているからメルヴィーナ様もますます美しくなられているのかしら。」
ご婦人だけの茶会は案外明け透けだ。下衆な会話も繰り広げられる。私にはそれが大層苦痛だった。元々そういう話が好きではないし、既成事実がない私はどんどん惨めになっていくから。大方それが目的なのだろうけど。
男性も同伴の夜会では夫の前で揶揄われることも増えた。
「氷の宝石と謡われるシルヴェスター様と、社交界の薔薇といわれるメルヴィーナ様ですもの。お二人のお子様は大層美しくお生まれになるのでしょうね。今から楽しみです。」
私は淑女の笑顔を張り付けるだけで精一杯だった。
結婚前だったら「夫婦のことなのに、野暮よ!」くらいは言えたものだが、今は次期侯爵夫人の立場。気楽な伯爵令嬢ではない。愛想笑いでその場を乗り切る。
家に帰れば義父母は領地に帰っていないし、夫と使用人だけだ。家の中ではもう笑顔を張り付けることもできなくなっていた。
以前は頑張って取り留めのない会話を探し出して、食事の席ではなんとか会話を繋げていたが、もうそんな力も残っていなかった。家の中でも、外で囁かれる「つまらない人形のような妻」「愛想をつかされているのでは?」「仮面夫婦」という嘲笑が耳に残って離れない。
段々と使用人からも馬鹿にされているように感じて食事も喉を通らなくなってきた。鉛が喉をつかえて苦しい。
そんな私の姿を見ても彼は
「食事をとっていないようだが医者を呼ぶか。」
と他人任せだった。
その言葉に、その冷たさに、私はもう微笑みをもって返すこともできなくなっていた。
「…結構です。」
多分死んだ目をしていたと思う。あんなに綺麗だと思っていた彼の容貌も、今ではただの氷の彫刻のように思える。夫婦関係が冷え切るとはこういうことなんだろう。
家で夫と共にとる食事は喉が苦しくて上手く呑み込めなかったので、その分昼食はサンドイッチや揚げ物、果物をたくさん用意してもらって孤児院の子どもたちと一緒にとるようになった。
今思えば自分に子どもができない寂しさを孤児院の子どもたちに埋めてもらっていたのかもしれない。なんて愚かな。それでも。あの時の私には「美味しい」「メルヴィーナ様ありがとう」とニコニコ隣で頬張る無垢な子どもたちの笑顔が救いだった。この楽しい昼食の時間がなければ、私の体はやせ細っていたと思う。
それでもやはり頬はこけたか。
その変化にいち早く気づいたのは、毎日顔を合わせる夫ではなく週1回しか会わないラルフだった。
「メルヴィーナ…そんなに痩せて…」
紫の瞳が悲痛そうに揺れた。私のためにこんな眼をしてくれる人がいることに心底胸を打たれた。
「…平気よ。なんでもないわ。もうすぐ社交シーズンも終わる。嫌な噂雀からも解放されるわ。」
「平気そうじゃないよ…。君がそんな顔をするなんて…。」
その日をきっかけに、ラルフはあまり参加していなかった社交の場に伯爵家の次男として顔を出すようになった。私と同い年で19歳を迎えたラルフはその逞しい体つきと甘い容姿で瞬く間に年頃のご令嬢からご婦人まで、たくさんの女性に囲まれていた。
ラルフ曰く中流貴族の次男は遊び相手に丁度いいらしい。
ラルフはご令嬢たちを適当にあしらった後、夫の隣で少し緩くなったドレスを纏い笑顔を張り付ける私の元に来て恭しく胸に手を掲げる。
いつも孤児院で気安く話している姿とは大違いだ。
「リッチモンド小侯爵様、バラの如く美しいご夫人と一曲踊る許可を頂けませんか。」
その甘い微笑みに、周りで見ていたご令嬢たちは頬を赤らめた。ラルフの申し出に、夫は氷のような表情を崩さずに答える。
「ああ、もちろんだ。メルヴィーナ、久しぶりに舞踏会に参加してくれたご友人と踊って来てはどうか。」
「ええ、行ってまいりますわ。」
いかにも仮面夫婦らしい会話を適当にやり過ごし、ラルフの手をとると、その紫の瞳はシャンデリアの輝きを集め、きらきらとアメジストのように輝いた。
「こんな美しい君と踊れて光栄だよ。」
屈託のない笑顔の彼に引かれて広間へと出る。ラルフと踊るのはいつぶりだろう。鍛錬が忙しいからとあまり舞踏会や夜会に出てくることはなかったから、子どものときぶりかもしれない。
向かい合ってたれ目がちな笑顔を見せられると、私も自然と頬が緩んだ。あまり舞踏会に出てこないというのに運動神経がいいのかダンスも上手で、緊張もほぐれて本当に楽しい時間だった。
「君はずっと変わらず綺麗だ。自信をもっていい。」
「…そんなこと言ってくれるのはあなただけよ。」
「じゃあ俺が何度でも言う。メルヴィーナ、君は世界で一番美しい。君は幸せでなきゃいけないんだ。」
真っすぐに私の眼を見据えてはっきりと言う言葉は、私の身を案じてくれていて。医者に任せる誰かさんとは大違いだった。
…そう、ただただ私を真っすぐ見てほしかっただけなのに。…まあでも仕方がないか、醜い姿を知られてしまったのだから。