12―2氷が解けて、いくように
「…まず、リージアとは何もない。自分はただの友人だと思っていたし、男女の関係になったことは一度もない。誓って。」
「…はい?」
ベッドの上で向かい合って座り、真っすぐ目を見て言われた言葉に、思わず疑問符を浮かべてしまった。
「それはちょっと…無理がありませんか?リージア様は私にかなり牽制してきていましたし。」
「彼女からは好意を向けられていた。それに気づかず矛先を君に向かわせてしまって申し訳なかった。」
「家に何度も迎え入れていたじゃないですか。」
「それは、仕事の関係で…。」
「私が領地に行っている間、この家で逢瀬をしていましたよね?」
「それは、君が帰ってきたときに喜んでもらおうと…。」
「私への誕生日プレゼントも当てつけかのようにリージア様が選んだとか言って。」
「女性が何を貰えば喜ぶか分からなかったんだ。以前君に毛皮を贈ってもあまり喜んでくれなかった。」
「あれは…っ、寝室に来てもくれない貴方から、形式的にものをもらっても虚しかっただけです…!」
「あの男の香りが満ちる寝室で君と眠れるものか。」
彼を責めていたつもりが、若干責められ始めたとき。そこで私は、はたと口を噤んだ。
ふと鼻に感じるのは、今まではこの寝室になかった夫の香りと、ほのかに香る、これまで私を癒してくれたラベンダーの香り。
この香りをラルフの香りと言うその言葉が胸に引っかかって。その違和感は、私の心を淡く揺らした。
「…まさか、気にしてらしたのですか…?ラルフのこと…。」
気のせいかもしれない。思い上がりかもしれない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
おずおずと盗み見るように見上げた夫の顔は、拗ねたような表情に見える。
「…当たり前だろう。」
返ってきた言葉に、胸が震える。
僅かに喜びさえ感じてしまって、にじみ出る期待を抑えるために胸を押さえてみるが、どうしたって私のお花畑脳は良いようにしかとらえられない。
(だって、それじゃあ、そんな言い方をされたら…)
「…いつから、ですか?その…香りを気にしてらしたのは。」
「初夜の日の、次の日、いたたまれなくなってその日は別室で寝ると伝えた。その次の朝には君はあの男の香りを纏っていた。」
「そんなに詳しく覚えているんですね…?」
「…っ、仕方がないだろう…。あんな男のための傷と言われたら、誰だって…!」
怒ったように、もしくはムキになったかのように吐露する夫は、ハッとして口を噤んでしまった。
斜め下を向いて片手で口元を押さえていて、どんな表情をしているか、薄暗闇では見て取れない。
隠された顔が見たくて、言葉の続きが聞きたくて、少しだけ距離を縮めて覗き込む。
「誰だって、なんです?」
「よせ、もういいだろう。」
「いいえ、聞かせてください。話してくれると言ったじゃないですか。ね?」
首を傾げ、さらに顔を近づけると、不満げに睨まれる。その目元は近づかないと分からない程、僅かに目尻が赤くなっていて。
「大体、君だってなぜ私との縁談を断らなかった。彼だって出世に邁進していたのは君に結婚を申し込むためだっただろう。」
「え…」
赤面する夫を揶揄おうとしたものの、予想外の質問にたじろいでしまう。
シルヴェスター様との縁談を断るなんて考え、当時の私には毛頭なかったのだから。
「君だってそんなにあの男のことを好いていたなら、君の両親ならうちとの縁談を断っても、」
「ちょ、ちょっと待ってください…!あの、一つ弁明をしておきますが、私、私は、ラルフのことを男性として好きになったことはありません…。」
「…なんだって?」
今度は夫の方が疑問符を浮かべる。
人間とは愚かなもので、自分が同じ立場になって初めて気がつく。自分はなんとも思っていなくとも、他者から見たらそう見えることは往々としてあるのだ。
「あんなに笑い合っていたではないか。」
「それは幼い頃からの友人ですし…」
「愛人にと彼を選んでいた。」
「それは…!あなたが私に愛人をつくればなんて言うから…!あなたを見返してやろうと!ぎゃふんと言わせたかっただけなんです!」
「…ぎゃふん?」
「だって、シルヴェスター様は私にまるで興味もないように振る舞って!だ、抱いてもくださらないし寝室も別だし怒ってばかりだし!だから、私…!」
一気に吐き出したせいか、それともここ数日伏せっていて体力が落ちたせいか、私の息は切れ切れで肩が揺れてしまっていた。
まるで拗ねた子どものような言い分に、自分で恥ずかしくなる。
しかも、何か言ってくれればいいものの、夫は何も言葉を発しない。結構なことを言った気がするのだけれども。
何か話してほしい、でも、なんて言われるか怖い。
相反する気持ちが胸をざわめかせる。彼がどんな顔をしているかなんて見れるわけもない。
静かで広い寝室に、自分の鼓動だけが聞こえる。
「…切りつけられる前、思ったことがあったんです。」
"抱いてほしかった"だなんて、とんでもないことを言ってしまった手前どうしようもなくなり、わざと明るい口調で話題を変えることにした。
彼が僅かに覗き込んできて、続きを、と言うかのように見つめられる。良かった、先ほどの発言は流してくれているらしい。
「夫婦の愛は…自分の想いは、胸にしまっておくだけではだめなのだと。意地やプライドで、自分の気持ちがどんどん分からなくなっていってしまうから。だからあの時、貴方に好きだと、伝えておこうと思ったんです。」
照れくさくて、誤魔化すように、軽い調子で笑って見せる。
それなのに、真剣な目で見つめられるから、困ってしまった。
「そういえば、一度も伝えたことがなかったなと気が付きました。それは勘違いもされますよね…。でも、私はあなたと結婚できて、本当に嬉しか、った…」
言葉が詰まってしまったのは。
私を見つめる瞳があまりにも、きれいで―――…。
静まり返った寝室。
ギシ…とベッドが軋んだのは、彼が手をついて距離を縮めてきたから。
蒼い瞳から、目が離せない。
引きつけられるかのように、彼の鼻先が私の頬をかすめる。
白金のまつ毛が伏せられるのと、私が瞳を閉じたのは、ほぼ同時だった思う。
どちらが先に求めたのかは自分たちでも分からない。
焦れるほどゆっくりと、ふれる唇。ふれただけの唇は、そのまま、また離れていく。
閉じていた瞳をそっと開けると、至近距離にある彼の薄い瞼がゆっくりと動く。白金のまつ毛が徐々に持ち上がり、静かな蒼い瞳と視線が絡み合った。
一瞬のような、永遠のような。
向けられた視線が徐々に熱を帯び始め、彼が身体を寄せてきて、彼の足の間に閉じ込められるように包まれる。左頬を大きな手で包まれたかと思うと、上を向くように促され、彼の薄い唇が落ちてくる。
先ほどの触れるだけのものではなく、食むような、ついばむような、そんなキス。
ゆっくりと、何度も何度も角度を変えて降り注いでくるそれに応えるために、右手を彼の首にまわす。
彼の髪に、初めてふれた気がする。絹糸のような、繊細な細い髪。
額と額をつけたまま、まつ毛が触れ合いそうな距離で見つめ合う視線は、恐らく同じ温度をしていると思う。
“足りない”
言葉にするよりも先に、腰を引き寄せられ、彼の太ももの上に座る形になり、そのまま上半身の隙間がなくなった。重なる唇は深く、内側まで探っていく。
ずっと、こうされたかった。
冷えた身体を、貴方の大きな身体で包んでほしかった。仰々しいドレスの上からでは感じられない貴方の手の存在を、肌で感じたかった。ほどいた髪を、すいて撫でられるのが、こんなに心地いいと初めて知った。
求められることが嬉しい。貴方の体の中まで入り込むことを許されるのが嬉しい。喜びが、身体を満たしていく。満たされていくはずなのに、もっと、もっとと足りなくなっていく感覚が初めてで。このもどかしさをどうすればいいか分からなくて、彼の首にまわした手に力を入れて引き寄せ、より深く口づける。
もう、どちらのものか分からなくなるほど混ざり合った銀糸だけが唇と唇とを結ぶ頃には、瞳も吐息も指先も、全てが熱くなっていた。
「…メルヴィーナ…。」
かすれるほどの小さな囁き声。熱い手で後頭部を包まれそのまま背がベッドに落ちていく。優しく押し倒され、彼が私の身体に覆いかぶさったとき―――…
「…っ…!」
包帯を巻いた肩に夫の体重がかかって、一瞬感じた鈍い痛みで吐息が漏れた。
慌てたように、勢いよく体が退けられた。上体を起こした彼は申し訳なさそうに眉を寄せている。
「す、すまない…!怪我をしている君に…!」
「ちちち違うんです!私もつい、夢中になって…え、夢中…!?いや、違くて、えっと…。」
(夢中だなんて痴女か…!)
恥ずかしさのあまり、熱くなった顔を両手で覆って恥辱に耐えていると、鼻で笑う音がした。
両手がはがされ、半ば涙目になった瞳を持ち上げると、目だけで淡く笑う夫に優しく見下ろされた。
「…私も、君に好きだと言ってもらえたことが、嬉しくて…。」
私の両手を包み込み、横たわる私の隣で座り見下ろす顔は、確かに綻んでいて。いつもの厳しい凛々しさはすっかり影を潜めている。
私の手をとり、手慰みをするように爪を撫でたり、指の間を絡めとる夫が、おもむろに口を開いた。
「君の傍にいたくて、君の望むことはなんだとばかり考えて随分遠回りをした。その間、君を傷つけてしまった。」
「いえ…私も、意地を張っていました。」
「それは私も同じだ。でもこれからは自分の想いも、望みも、君に真っすぐ伝えたい。君に、笑っていてもらいたいから。」
夫の言葉は、そのまま、すとんと胸に落ちてくる。それはきっと、彼の本心だから。
私たちがすれ違って傷つけあってきた3年間は、きっとすぐには埋まらない。これからも腹が立つこともあるだろうし、意見が食い違うこともたくさんあるだろう。
それでも、貴方と生きていきたいから。夫を愛する妻でありたいから。
「それなら、直してもらわなきゃいけないところが山ほどありますね。」
彼の腕をひき、自分の横に寝ころぶように促す。大きな一つの枕に、私と彼の、二つの頭。
悪戯に笑うと、少し戸惑った表情の端正な顔立ち。
「…君に愛してもらえるなら。」
広い寝室が、なぜか今日は暖かい。
言い合いではない話ができる喜びを胸に、貴方の隣、いつの間にか瞼が重くなってくる。
氷が解けていくように、自然に、貴方の指先に触れながら。




