12ー1氷が解けて、いくように
最初は夢かと思った。
見慣れた寝室に、いるはずのない夫。私の手を握ったまま眠っている。
ぼんやり思い出したのは、夫の泣き顔。
そしてまた瞼が重くなって頭がぼんやりしてきて、夢の世界。
初夜の日、済まないと言って背を向けた夫。あの日の夢は、もう何度みただろう。
次に目を開けたのは、抱き起された気配がしてから。
夫に背を支えられている。鈍く痛む肩が、切りつけられたことを思い出させた。
「メルヴィーナ、飲めるか。」
ゆっくり瞬くと、夫がスプーンを口に運んでくれて、人肌に温められた水が注ぎこまれる。
そしてまた、瞼が落ちてくる。
その繰り返しだった。
次第に、思考を鈍らせる熱がひいていって、起きていられる時間が長くなっていった。
気が付けば、シルヴェスター様はこの広い寝室に机を持ち込んで、日中はここで執務をしているようだった。
ぼんやり、横になりながら、書類を作成する彼の姿を眺めていた。
ふと、私の視線に気が付いたのか、彼が振り向く。困ったような、安心したかのような、揺れる蒼い瞳。
彼は立ち上がって、寝台に腰かけ私の手を握る。
「…その、傷は、塞がってきているとのことだ。感染症もなく済んでよかった。マリアたちが丁寧にケアしてくれていたから。ああ、そうだ、特別給金を出さなければな。」
珍しく饒舌だ。恐らく何を話せばいいか戸惑っているのだろう。その証拠に、私の手を握っている彼の親指が、落ち着きなく行ったり来たりしている。手元に落としていた視線も、定めるところを探すように揺れている。
「…あー…君が、回復してきて、その…本当に…。」
そこまで言うと、彼は握っていない方の手で自身の顔を覆ってしまった。
少しの、静寂。
「…君が、目を覚ましたら…何から話そうかずっと考えていた。怪我をさせてしまった謝罪から告げるべきか、見舞いの言葉から入るべきか、それとも感謝か。…笑ってくれ、決めきれなかった。」
なぜだろう、弱いところをさらけ出してくれると、途端に許したくなってくるのだ。
プライドを1枚1枚剥がしていけば、そこにいるのは生身の人間。
「願うなら…一生をかけて償わせてほしい。君に傷を残させてしまった。」
悲痛そうに眉を歪める夫。
ラルフにもシルヴェスター様にも、引け目を感じてほしかったわけじゃないのに。
こんなことよりも、あなたには他に謝ってほしいこと、話してほしいことがたくさんある。
リージア様とどういった関係なのか、私に愛人をつくればと言った真意とは…聞きたいことは山ほど。
でも、私ばかり彼を責められるわけではない。
意地を張っていたのは私だって同じだった。どうせ私なんかと卑屈になって、本当に望んでいたのは貴方からの愛だと、素直な気持ちを伝えられなかった。
だから。
「…本当に、一生傍にいてもらいますからね…。」
繋がれた手。冷たい夫の手と私の体温とが混ざり合っていく。
そのまま、繋がれた手は彼の額までもっていかれ、強く握られる。
祈りか、誓いか。
白銀の前髪の隙間から見える固く瞑られた瞳からは、何か強い意思のようなものを感じた。
例えそれが今は愛ではなくても。
一生傍にいるし、いてもらう。私たちなりの夫婦のかたちが出来上がる日がくるのを信じて。
◇
「結構です、自分で食べられますから…。」
「まだ右腕が不自由だろう。零して着替えるのだって体に負担がかかるんだから大人しくしていろ。」
「またそうやって横暴な物言い…。どうにかならないんですか。」
気分が悪くなり、ぷいと顔を反らす。シルヴェスター様が差し出す匙を口に入れないという意思表示だ。
もう熱も落ち着いたし食事くらい自分でできる。
それに食事の介助なんて一家の主人がやるべきものではない。
口を開けない私に、夫はムッと一瞬顔を強張らせたが、それも束の間、ふう、と一息ため息をついた。
そして、ベッドで枕を支えに体を起こす私に近づくように、匙を持ったまま座り直した。
「…頼む、食べてくれ。私が、君の世話を焼きたいんだ。」
「・・・・・。」
「ほら、メルヴィーナ。」
覗き込んできた夫は今までと変わらない無表情なはずなのに、なぜか優しげに見える。
私の目がおかしいのだろうか。
仕方がなく口を開けると、僅かに細められた嬉しそうな蒼い目。他の人なら見逃してしまうくらい、分かりにくい感情表現。
それに気づいてしまったものだから、少しぬるくなったスープの味なんか感じられない程動揺してしまった。
「旦那様、奥様。その調子だとスープが冷えてしまいますので私がお食事の介助をいたしましょうか。」
「マ、マママリア…!いたのね…!」
「私はずっとお傍におりましたが、旦那様が仕事をさせてくれなくて…。さ、旦那様、お食事は私が。」
「いや、私がやる。」
なんやかんやで全てシルヴェスター様に食べさせてもらって、なんなら食後に口も拭いてもらった。
照れっぱなしの私を気にせず世話を焼いてくるのだから、やっぱりこの男は横暴だ。
でも、全然嫌じゃなかった。だからそのまま受け入れた。
そんな私を見て、彼も僅かに頬を綻ばせる。あんなに嫌だったこの寝室の空気が少しだけほどけたような、そんな感覚。
すっかり当然のように、夜、寝間着姿のシルヴェスター様がこの部屋で寝起きをするようになったことも起因するのかもしれない。
明かりを落とすと、ほんの少しぎこちなさそうに私の横に来て、肩を並べる。
「メルヴィーナ、肩の痛みはどうだ。」
「そこそこ、ですかね。もう血は固まりましたし、化膿もしていないので、そこまででは。」
ガーゼを当てられ包帯を巻かれた肩に手をやる。
鋭利な刃物で切られた傷は、思ったより深くなく治り始めている。10歳の頃の怪我の方がよっぽど痛かったし、治りも遅かった。
「見せてもらっても、構わないか。」
「…こんなもの見て、また嫌になりませんか。」
「私のためにつくらせてしまった傷だ。嫌になどなるものか。」
譲らない夫に、仕方なく寝間着をずらして包帯を解く。
月明かりだけのうす暗い今なら、そこまで鮮明に見えないだろう。
さらされた肩を、夜の冷気が冷やす。見られていることが気恥ずかしくて、目を伏せた。
「痕に…なってしまうな。」
「でもほら、ものは考えようです。夫の命を救った名誉の傷だとも思えば。ね?」
薄く微笑んでみれば、月明かりに照らされた、泣きそうな顔。感情が溢れてこないように、必死に我慢しているのが、震える唇から見てとれる。
「なら、私はこの傷を見るたびに、救ってくれた君の勇気に感謝することにするよ。」
「…私が勝手に動いたことです。そこまで気になさらないでください。」
夫は首を横に振って、外されたガーゼと包帯を手に取る。
まさか貴方が巻きなおすつもりでは…と肩が強張ったが、こんな時間にマリアを呼ぶのも悪いので、そのまま身を任せる。
肩にあてられたガーゼを固定するために包帯をわきに通されていく。黙々と作業する夫を前に赤面してしまうのだから、薄暗闇で本当に良かった。
こんなことなら意地でも傷口を見せなければよかった。
「…できた。」
「あ、ありがとうございます…?」
巻かれた包帯は案外綺麗で、意外と器用なことを初めて知った。結婚3年目でようやく。
寝間着を整えて、さあ布団に入って寝ようとすると、手首を柔らかく掴まれた。隣の男によって。
どうしたのかと目を向けると、思ったよりも近くに迫る瞳に射捉えられた。
私の体のすぐ横に手をついて迫りくる夫を見て、改めてこの寝室で二人きりという状況を意識してしまった。
あんなに一人でこの広い部屋をあてがわれる寂しさに嘆いたというのに、いざ夫がいるとなると緊張でどうにかなってしまいそうだ。
見つめられたまま、一向に離されない手首をどうすればいいものか分かりかねて、窺い見る。
「あ、の…?」
すると、夫はお腹の底から息を全て絞り出すような長いため息を吐いた。
「…以前、君に話したいことがあると言った。」
「はい…。」
「どう伝えればいいか、考えていた。…が、話したいことはすぐに話さなければ、手遅れになってしまうことを知ったから、今、君に話したい。」
「そんな…私、もうなんともないですよ?」
「怪我だけじゃない。その…ラルフレート卿と、別れたのだろう…?」
「…ん…?」
目を伏せながら話す夫の眉は、険し気に寄せられている。
予想外の話の方向に若干戸惑うが、まあ、ラルフには気持ちに応えられないと告げ、愛人として別れたといえば間違ってはいないので、とりあえず話の腰は折らないことにした。
「愛した男と別れたばかりの君に付け入るような真似をして済まない。だが、今伝えたいんだ。聞いてくれるだろうか?」
「…ええ、もちろんです。」
そうして夫は安心したかのように一つ息を吐くと、寝台の傍にあったガウンを私の肩にかけてくれた。