11-2馬鹿な男だと シルヴェスターside
自分と結婚したことで、妻がどんどん痩せていく。日に日に顔が曇っていく。
自分が縛り付けているせいだ。
そんなことは分かり切っていた。なぜならあの男といる時の妻は安心したように笑っているから。
それでも唯一私が彼女に与えられるもの。
あの男が用意できないもの。
安定した地位と豊かな暮らしを彼女に提供できるのは自分だけだと言い聞かせた。彼女を幸せにできるのは夫である自分だと。
なのに、なぜ。
元気を取り戻してくれない。笑ってくれない。自分を、見てくれない―――。
今思えば空回りだった。
だから言ってしまった。
「君は何が不満なんだ。」
◇
君と顔を合わせる時間が嫌いだ。
キッと睨み上げる険を含んだ朱色の眼が。
話せば話すほどに遠ざかっていく距離が。
だから冬の間領地に行くと聞いたときは安心してしまった。
「拗らせてるわね。」
「…今日の来客予定は君の夫だったはずだが。」
「うちの人、忙しいみたいでね、私が代わりに届けに来たのよ。はい、これ。大切な書類なんでしょ。」
「ああ、手間を取らせたな、リージア。」
「奥様は?この前お会いした時きちんとご挨拶できなかったからお話できればと思ったんだけど。」
「…冬の間、領地で過ごすと。」
「まあ!どうして関係悪化してるの?まさか、あの噂…」
リージアは口元に手を当てて、思い当たる節があるというように、視線を足元に落とす。
「噂とは?」
「メルヴィーナ様、お元気になられてから、公爵夫人のお茶会やネロー伯爵のサロンによく出入りしているでしょう。」
「…ああ、それが何か。」
「公爵夫人の周りの奥方はみんな愛人を囲っているし、ネロー伯爵のサロンなんて、もう…ああ、私の口からはとても言えないわ。」
「なんだ、歯切れの悪い。」
「お酒をたくさん飲むのよ。男女が集まるサロンで泥酔したらどうなるか、分かるでしょ。でも、メルヴィーナ様に限って…そんな、まさかね?」
眉尻を下げて、困ったように言葉を選ぶリージア。
しばしの沈黙に、暖炉の薪がパチパチと燃える音だけが聞こえる。
思い出したのは、先々月のメルヴィーナの誕生会。
怒鳴ってしまって、あの男が仲裁に来た。その後来客が全て帰った後、泥酔しているメルヴィーナがいた。
仕方がないので抱き上げて、妻付きの侍女と一緒に寝室へ運ぶ最中、酩酊状態の彼女は私の首に手を回し頬を摺り寄せてきたのだ。
その時はあまりに突然のことでどうしようもできずに、とりあえず何とか寝室までたどり着いて、寝台に下ろした後は侍女に任せて足早に部屋をすり抜けた。が、あれが酔った彼女の姿だと思うと…。
静かな部屋に、自分の腹の底からのため息が響いた。
「ま、まあまあ、シルヴェスター、奥様本人にも確認してみたら?ていうか、噂っていうのも、元はといえばあなたたち夫婦が一度も寝室を一緒に使っていないっていうのから始まったのよ?」
「…一度は…ある…。」
「えええ?一度…!?っていうことは本当に別で寝ているの?どういうこと?」
「…他の男の代わりなんて、できるわけないだろう…。」
「えっ、ちょっと待って、貴方そこまで執心してたの?変よ、貴方らしくない…!」
自分でもそう思う。でも、どうしようもできなかった。
だから知り合いに声をかけてあの男の結婚が進むように動いた。そうすれば少しはメルヴィーナと自分の関係が変わるかも知れないと期待して。
「…愛しているの?奥様のこと。」
「…最初に、言葉にして伝えるのは妻に対してだと決めている。」
「何それ…本気じゃない…。」
その時、リージアがどんな顔をしていたか私は知らない。
彼女が持ってきた書類を確認する片手間で話していただけだから、気にしていなかった。
目の前の友人よりも、頭の中を占領する“妻が愛人を欲しているかもしれない”という疑惑を整理する方が重要だった。
“人の気持ちを蔑ろにする”ということがどれだけ残酷なことか、気が付いていなかったのだ。
本当に愚かだったと思う。
“他に想い人がいる妻を娶って、愛されない惨めな自分”しか見えていなかった。
「婚姻関係を解消する」だなんて、どんな意図があっても言わないでくれ。
紙切れ1枚だけで繋がった“夫婦”という関係しか、自分にはないのだから。
君の笑顔を見れるように、そんな小さな目標がなくなったら、私の人生に何の意味が残るのだろうか。ただの部品の一つである私に。
自分でも嫌になるんだ。
つまらないプライドでがんじがらめになって強がってしまう自分が。
◇
「あら、シルヴェスター、来てたの。どうせあの件でしょ、あの美丈夫な商人。」
「…リージア、君も知っていたのか。」
「だってうちの夫に最初に教えたの、私だもの。私の友人が怪しい素敵な男性に誘惑されちゃって、って。ねえ、せっかくうちに来てるんだもの。少し飲んでいったら?夫にも声を掛けてくるわ。」
リージアの夫は既に爵位を継承していて、年齢も私より少し上なので懇意にしていた。今回のマンスール商会の摘発も、彼の協力によるところが大きかったのだ。
断る理由もないので、応接間に案内され、使用人が酒と料理を用意していく。
あまり強い方でないのは自覚しているので、スカーバラ侯爵が来るまで適当に抑えながら飲んでいたが、彼は一向にやってこない。
すると、メイドが一人やってきた。
「失礼いたします。奥様、旦那様なのですが、丁度お声がけする前に、至急確認することがあると出かけてしまわれまして…。」
「あら、もう夜なのに、珍しいわね。」
「そうか、なら…。」
と立ち上がろうとすると、リージアの言葉が遮った。
「ねえ、あの商人、あなたの奥様にも手を出していたでしょ?大丈夫だった?」
その時一番気にしていたことだったので、立ち上がりかけた腰を戻し、座り直す。
「なぜ知っている。」
「私、いたのよ、あの仮面舞踏会。付き合いでね、ああいうのも行かなきゃいけないのよね。大方あの公爵夫人に連れてこられたんでしょ。でも奥様、楽しそうだったわね。」
「…あの男のこと、知っていたんだろう?なぜ止めなかった?」
「私に関係ないもの。私、メルヴィーナ様に嫌われてそうだし。」
リージアはグラスの中のブランデーを回しながら、片頬だけ上げて嫌味に笑う。
友人だと思っていた。幼い頃から気心も知っていて、少なくとも自分の敵ではないと思っていたから、メルヴィーナとの関係も話していた。
それを知っていながら、「他の男と楽しそうだった」と平然と言ってのける彼女が、自分の知っている友人ではないようで。
「やあね!そんな怖い顔!ほら、もっと飲んでよ。メルヴィーナ様とあの商人はもっと楽しそうに飲んでたわよ?貴方、そんなんだから他の男に奥様とられるんじゃない?」
一番言われたくないことをえぐられて、カッとなった。その通りだったからだ。
あの幼馴染と出かけて帰ってきたメルヴィーナは今まで見たことがないほど楽しそうだった。何年か同じ屋根の下で暮らしても、あんな顔は見たことがない。
苛立ちをかき消すように、グラスの中身を飲み干した。
「ふふ。あなたも不憫よね。強がって見栄を張って。そんな男、愛想つかされて当たり前じゃない。」
「リージア、なんなんだ、さっきから。」
「ずっと思っていたことよ。ボロボロになっていく貴方が可哀そうで可哀そうで…。ああ、救われた気がするわ。」
リージアは恍惚の表情で天井を仰ぎ見ながら立ち上がった。
彼女はずけずけと言ってくるタイプではあったが、こんなに攻撃的な言動は初めてだった。
馬鹿にしたような笑顔を貼り付ける彼女に見下ろされる。
こんな表情、長い付き合いだが初めて見る。
コツ、コツとヒールの音をたててゆっくり近づいてきたかと思えば、私の横に腰かけた。
「思いが伝わらない苦しみ、貴方も分かった?」
言葉と一緒に近づいてくる亜麻色の髪。
間近に迫る伏せられた長いまつ毛。
襟ぐりをぐいっと引き寄せられ、彼女が何をしようとしているか察して、袖口で彼女の唇を押さえて払いのけた。
「…貴方は女を惨めにするのが上手ね。一度くらいいいじゃない、メルヴィーナ様だってあの彼と何度もしてるわ、きっと。」
「黙れ。…帰る。」
私の袖を掴んでうなだれるリージアを振り払い、立ち上がる。
憎々し気に見上げられた彼女の瞳は潤んでいた。
「何年も私の気持ちに気づかなかった貴方が今更愛を手にできるわけないわ!メルヴィーナ様には同情する、愛する人と結婚できない辛さは分かるもの。でもね、だから皆不幸になればいい!上手くいくわけないのよ!」
悲痛に叫ぶ声はいつもなら不快なはずなのに。
“傷つけてしまった”という罪悪感は、メルヴィーナに教えられた。
「何よ、その顔…。私、謝らないわよ…。」
リージアは顔を赤くして涙を頬に伝わせながら睨み上げてくる。
彼女の涙は初めて見る。…いや、今まできちんと見ていなかっただけかもしれない。
知らなかった、見ていなかった、がどれだけ残酷か、今の自分なら痛いほど分かる。
「シルが、シルが悪いのよ!いいだけ人の気持ちには鈍感だったくせに…!ぽっと出の女のためにこんなに必死になって…っ…。」
「…すまない…。」
「…っ…!謝らないでよ…!私の知ってるシルヴェスターは人に謝りなんかしないわ!どうして、どうして…」
彼女の肩は震えている。だが、それを支えるのは、慰めるのは自分ではない。
「失礼する。」
部屋にはリージアのすすり泣く声だけが響く。メイドから外套をもらい、扉を閉めようとしたとき、この屋敷の女主人がポツリと呟いた。
「…言葉にするって、大切よ。うちは愛は無くても、夫は感謝を言葉にして伝えてくれる。救われるのよ、案外。貴方に足りないところね。」
自分の僅かな変化にも気づいていた友人の助言は、恐らく的を射ていた。多分、よく見ていてくれていたんだと思う、昔から。
その意味に気が付かないほどに、自分は詰まらなく冷淡な人間だったということだ。
変わりたい。そんな自分を、変えていきたい。
想い合う男と笑い合う君が、もう一度戻ってきてくれるように。謝るチャンスを、もらうために。
揺れる馬車で酔いがまわる頭で考えていたのは妻のことだった。
どんな言葉を用意したら自分の思いが伝わるのか。どんなタイミングでどんな顔で。
頭の中では言える言葉が、いざメルヴィーナを前にするとどうしても出てこない。
伝わらないもどかしさだけが胸を焦がす。
そうして彼女はこの手をすり抜けていく。
手遅れになるほどに。
彼女から滴ってくる生温かく赤黒い血が、残酷なほどに現実を突きつけるのだ。




