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8-2どうしてあなたが傷つくの

 あれからしばらく経ったある夜、執事が私の部屋を訪ねてきた。

 部屋の外が騒がしいなと思ってはいたが、聞けば夫が珍しく酔って帰宅したという。


「あ、あの、若奥様…。旦那様が、お呼びなのですが…?」


 老齢の執事もこの通り。滅多にない主人の泥酔と妻の呼び出しというダブルハプニングに完全に狼狽えている。

 一人で夕食を終え、さあ着替えて一人きりの寝室で読書でもしようと思っていたところに、結婚後最大の珍騒動である。


「え…でも酔ってらっしゃるのでしょう?ゆっくり休まれた方がいいのではない?」

「それが…かなり不機嫌に酔ってらっしゃいまして…。私共では…。」

「厄介な酔い方ね。」

「どうか若奥様のお力添えを…。」

「仕方ないわね。私も人のこと言えないし。」


 いつも家のために働いてくれている執事のためだと思おう。誰が勧んで怒り上戸の相手をしにいくものか。通常時でさえああなのに、酔うとさらに怒りっぽいだなんて救いようがない。


(嫌だな…)


 夫が見ていないことをいいことに思いっきりため息を吐いて、嫌々ながらも夫の私室の扉をたたく。入れ、と短く言われたその言葉にも横暴さを感じて、更に嫌になるが…仕方がない。


 部屋に入ると、もう一人でワインを仰いでいた。いつも通り長い足を組んで優美に座ってはいるが、目尻が赤い。

 瞼が少し重そうで、いつもの眼差しの鋭さは影を潜めている。執事は不機嫌な酔い方で…と言っていたが、そこまでではなさそうで安心した。なんならもう少ししたら寝てくれそうだ。


「大分飲まれたと聞きましたが、珍しいですね。どういった席だったのですか。」

「君には話したくない。」

「はあ…。」


 聞いた私が馬鹿だった。

 まあでも普段が俺様だとしたら、“話したくない”だなんて可愛い不機嫌な少年みたいなものだ。聞き流してあげよう。


「お水、飲んだらいかがです。」


 メイドが注いだ水を彼の方へ寄せる。虚ろな目でグラスを眺めていた夫は緩慢に首を横に振った。要らないらしい。絶対に飲んだ方がいいのに。

 なぜ酔っ払いというのは他人が“絶対こうした方がいい”という行動を頑なに拒否するのか。そして翌日後悔するのに。心当たりがありすぎる。


「不味い酒だった。口直しがしたい。君も付き合え。」

「禁酒中です。」

「ここは家だ。いいだろ?」


 そしてメイドにブランデーを持ってくるよう伝えていたが、私がワインに訂正したところ、舌打ちをしていた。本当に厄介な酔っ払いだ。


「…あの夜。」


 おもむろに、目の前の酔っ払…夫が口を開く。視線はぼんやり宙を見つめたまま。

 “あの夜”と言われて、何か話題に上がるような夜とはどのことか、と記憶を辿るが、当該の夜が多すぎる。あの夜もあの夜も私はやらかしてしまった気がするし、あの夜については知られていないはずだけど一番隠しておきたい。


 まるで断罪を待つ囚人かのように、ドキドキしながら続く言葉を待つ。


「君はどのくらい飲んだ。」

「えっと…あの夜というのは。」

「おかしな仮面を着けていた日だ。」

「ああ…。」


 少し安堵する。あの夜の話題ではなくて良かった。とは言ってもそちらの夜のことも、できれば葬り去りたい。


「ブランデー5,6杯と、ワインは…正直あまり覚えていません。」

「君のその小さな体はどうなってるんだ。」


 目の前の夫は軽く苦笑するように笑い、注がれたワインを仰ぐ。

 酔いつぶれるのが嫌な夫は、いつも付き合いで2,3杯飲むだけで自分からは進んで飲まない。今日はどうしてここまで飲んだのか。気になる、どうにかして吐かせられないものか。


「どなたです、高潔なあなたをそこまで酔わせられたのは。」

「君には話したくないと言った。」

「紳士クラブの方…は普段からそういった飲み方はされませんね。」

「おい、聞いているのか。」

「ああ、リージア様とか。」


 どうせ酔っているのだ、少し意地悪をしてみよう。こんな夜更けにお酒に付き合うのだ、少しくらい許されるだろう。口元に笑みを浮かべてじっと反応を見る。

 すると以外にも、眉を寄せ、口を尖らせ、拗ねたような表情をする。こんな顔も初めて見た。最近は初めて見る表情ばかりだ。

 …いや、今まであまり顔を見てこなかったのかもしれない。そういえば。



「あの女の話はいい。」



(…ん?)



 ムッと不服そうな顔で吐き捨てる。もしや、これは…


(リージア様と喧嘩した、とか…?)


 ははーん、珍しく酔っていると思いきや、そういうことか。なんだ氷のようだと思っていた夫も、人間らしいところがあるじゃないかと少し可愛く見えてくる。不思議だ。

 つまりはあれだ、恋仲の女と喧嘩してやけ酒か。



「何か変な思い違いをしていないか。」

「いえいえシルヴェスター様、言わずとも分かっておりますよ。」


 にっこり微笑むと、一瞬怪訝な表情をされたが、フッと鼻で笑われた。


「君が笑ったところを久しぶりに見た気がする。」

「そうですかね。まあ、そうかもしれませんね。」


 シルヴェスター様のグラスが空いた。ワインの瓶を持ちゆっくり傾ける。彼があまり飲みすぎないように、通常の半分ほどの量。残りは私が全部飲んでカラにしてしまおう。

 そう思って瓶をシルヴェスター様のグラスから離そうとしたとき。


「…足りないな。」


 瓶を持っていた手ごと掴まれ、強引に傾けられる。グラスになみなみと赤紫が注がれ、瓶はカラになった。


 ―――全く、手のかかる酔っ払いだ。いや、人のことは言えない。


 仕方がないので、彼がグラスを持つ前に奪い、なみなみとつがれたそれを唇に運ぶ。

 これ以上夫が飲まないよう、代わりに一気に喉へ流す。

 その様子を、まじまじと観察されながら。



「…君と唇を交わすのは式ぶりだな。」



 いきなり情熱めいた言葉を言われ、何のことか窺い見る。唇…?ああ、グラスのことか。と理解した瞬間、いつも余裕しかない夫にあどけなさを感じる。



「…まあ、そうですね。」

「…メルヴィーナ、君は愛する人と結婚したかったか。」



 なんだ、今日の夫はいつもの500倍色恋めいたことを言う。多分、一人連想ゲームをしたに違いない。式、といえば結婚、といった具合だろう。粗方予想はつく。それ関係の話でリージア様とこじれたのか。

 酔っているせいなのか、恋人と喧嘩をしたから感傷的になっているのか。どちらにせよ、もう蒼い瞳は半分閉じている。額に手を当てて、頭も痛そうだ。眠ってしまう前に、一言、嫌味でも浴びせてあげようか。


「…考えたことがありませんね。結婚は義務だと育てられましたので。シルヴェスター様もそうでしょう。」

「…ああ。」


 気だるげに答える夫の隣に座り直し、上質な紺色のコートのボタンに手を掛けていく。私が衣服を脱がしていくのを拒否するでもなく、ボタンを外していく手をただじっと見ている。鋭さを納めた、蒼い目で。

 一度手を止め、焦点が合っていない蒼い眼をじっと見つめ返し、はっきりと告げた。



「なので私は逆だと思っております。()()()()()()()()()のです。それが(すじ)でしょう?」



 『(すじ)(たが)えたのは貴方』。酔った彼には響かなかったかもしれないが。

 そこからはするするとコートとベストを脱がし、シャツのボタンを二つ外して楽にしてあげた。



「シルヴェスター様、もうお酒もなくなりました。お休みになりましょう。」



 立ち上がり、にっこりと手を差し出すと、水分を帯びた蒼い瞳が見上げてくる。

 変な感じだ。いつもは厳しい眼差しで見下ろされるのに。お酒は怖い。



「…メルヴィーナ、私は、リージアと、」

「シルヴェスター様、お酒が入った状態で、こういった話はしない方がいいものです。」



 強引に大きな手を掴み、立ち上がらせる。シルヴェスター様もそれ以上は何も言わずに、大人しくついてきてくれる。誰が酔った夫から愛人との話を聞きたいものか。


 寝台に横になるよう促すと、素直に応じてくる。

 ―――手は離さないまま。

 仕方がないので、そのまま寝台の端に腰をかける。

 しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。


 そういえば夫の寝顔を見るのも初めてだ。案外幼いその寝顔を眺めると、胸が苦しくなる。


『結婚した人を愛する』


 自分で言った言葉が頭の中でこだまする。

 では私はこの目の前の人を愛しているのか。自信が持てなくて、緩められた手を引き抜く。


(久しぶりに飲むのに一気に流したから、酔っているのかも…)


 答えの出ない無意味な疑問を振り払うように、夫の私室を後にした。


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