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8-1どうしてあなたが傷つくの



 ―――私は確かに聞いた。

「君も愛人をつくればどうか。」と。


 それなのになぜ、あの男はあんなにも不機嫌な形相で扉の前で待ち構えているのか…。


「メル、やっぱり俺も一緒に行くよ。なんか不穏な空気が…。」

「ううん…こんな面倒ごとに巻き込んだ上に更に夫の不機嫌を浴びせてしまうなんてできないわ。私一人で帰るから大丈夫よ。」


 無事に馬車が家の前に着いたまでは良かった。

 しかし。門に着いたとき、正面入り口の扉から夫が出てきて、あろうことか仁王立ちで待ち構えているのだ。

 ご丁寧に私が逃げられないように、馬車が止まってから玄関を出てきた。


 しかしなんであんな鬼の形相をしているのか。


 まだ日は沈んでいないし、家の仕事だって済ませてから出かけた。

 ラルフと出かけるのだって、自分から「愛人をつくれば」と勧めてきたことだ(やましいことはない、し…??私が、変な意識をしてしまうくらい…)。

 咎められる筋合いはない。


 の、だが…。


「はあ…。じゃあ、ラルフ。色々あったけれど楽しい1日をありがとう。」

「うん、メル、しばらく気を付けてね。俺も騎士団で調べておくから。」

「ありがとう。それじゃあ、おやすみ。」


 腹をくくって馬車を降りようと御者の手を取ったとき。

 解けた長い髪が、くんっと後ろに柔らかく引かれた。


 振り返れば、ラルフの長い指が胡桃色の毛先を絡めとっている。


「さっき、髪乱してごめんね。…おやすみ。」


 そのまま、胡桃色はするすると彼の指からこぼれ落ちる。

 ラルフの笑顔が、感情を隠すような貼り付けた笑顔だったので、それ以上は何も言えず微笑みだけ返して扉を閉めてもらった。


 背後では馬車が出発した音が聞こえる。


 待ち構える男は随分先。この距離でも私を睨んでいるのが分かる。

 私とマリアが歩く間、ずっと視線を外してこない。


 段々と近づく距離。近づけば近づくほど、空気も冷えてきた気がしてお腹の底が絞られる感覚に陥る。


「・・・・・。」


 なぜ目の前に来ても何も言わないのか…。話があるから出てきたのではないのか。

 頭の先からつま先まで厳しい眼差しでじとーっと睨まれる。

 お帰りの一言も言ってくれない夫にはただいまも言わないと決めているので、無言が続く。


「…おい。」

「はい…?」

「暴漢に襲われたと報告が入った。」

「ああ…」


 もう知らせが入っていたのか。さすが侯爵家、仕事が早い。また騒ぎを起こして、とそれで怒って出てきていたのか。


「リッチモンドの紋章は隠していましたし、格好もご覧の通りなので大丈」

「そんなことはどうでもいい。」



 はあ、と大きなため息。



「…怪我は。」


「…は…。」



 少しでも風が吹いていたら聞こえていなかったかもしれない。

 それくらいの、小さな問いかけ。



「だから、怪我はないのかと聞いている。」



 眉を潜めて、冷たい瞳で見下ろし、ものすごい威圧感で尋問…尋ねてくる。



「…ありません…けど。」

「ではなぜそんなに乱れた髪をしている。」

「走ったり、隠れたりしたもので…。」



 そうか、と短く一言いい、扉に背を預ける夫。


(え…もしかして、心配してくれた、とか…)


 意外な問いかけに驚いて、じっと見つめると、私の視線に気が付いたのか、伏せられていた白金のまつ毛が持ち上がる。

 こうして真正面から目が合うのは久しぶりだ。


 蒼い瞳に映るのは、髪も乱れ平民の服を着る気の強そうな女。

 どうしたってこの高貴な男の妻には見えやしない。

 私を見る目も"妻を見る目"ではないが、私の方も"夫を見る目"ではなかったのね…。夫婦は鏡ともいうが、こういうことなのかもしれない。


 長いこと"夫の瞳に映る"なんてことがなかったので、気が付かなかった。


「…ラルフレート卿は犯人について何か言っていたか。」

「いえ、騎士団でも調べてみると。」

「ちっ、使えんな。」


 舌打ちする夫は苦虫を嚙み潰したような顔をしている。


「…シルヴェスター様は何かお心当たりがおありで?」


 特に会話したいわけでもないが、夫が扉を塞いでいる。仕方がないので、ラリーを続けよう。



「…君には関係のない話だ。」

「なっ…!関係ないことはないでしょう。彼らは私の容貌を見て追ってきたようでした。」

「どちらにせよ君が首を突っ込む話ではない。私が済ませておくから、君はせいぜい大人しくしておくことだ。」

「あなたは…!どうしていつもいつもそうやって一人で事を進めるのです…!」



 蒼い目に映る私は怒りを滲ませた感情的な顔をしている。嫌だな、こんなヒステリックな顔。正面の夫は至極冷めた顔をしているのに。

 私たちはいつもこうだ。私が感情的になっても、いつもこんな冷たい顔で返される。



「お義父様方が王都を離れられる際も、聞けばあなたが主導で進めていたというじゃないですか。私は何も知らず、荷造りを始められて初めて気が付きました。いつもそうです。」

「何か問題があるか。君だって義父母と同居するのは息苦しかっただろう。いずれ爵位は継ぐ。何も問題はないはずだ。それに今日の話と何の関係がある。」

「問題があるとか、そういうことではないんです…!」



 私にも相談してほしかった、なんて、月並みな不満を口にできるほどもう少女ではない。

 それでも。

 家のことを何も分からないまま淡々と進められ、ただ家政を担う女主人としてその役割を与えられ駒として動く、子どもを設けるという私にしかできないはずの役割は与えてもらえないまま。そんな冷たい毎日に耐えられるほど大人でもなくて。


 傷が醜いというなら、受け付けられないのなら、仕方がない。


 でもそれならせめて、家族の一人として尊重してくれてもいいじゃない。服を着ている間くらい、私を一人の妻として扱ってくれてもいいじゃない。愛してほしいなんて、過ぎたことは言わないから。



「ご自分の行動が正しいと信じて邁進するのはあなたの素晴らしいところです。でも、もう少し人の気持ちも考えてほしいのです。」



 先ほどまで飄々としていた夫の眉が微かに動いた。

 俯き気味で私の話を聞いていた夫が視線だけ上げる。

 その鋭さで周りの空気がピンと凍ってしまったのではないかと思う程張り詰める。



「私が、君の気持ちを考えていないと。」



 私は以前に一度、こうなった夫を目の当たりにしている。

 確か去年の私の誕生会のときだ。あの時も、私はこの男の眼差しを“恐ろしい”と感じた。


 胃が痛い。

 言葉選びを間違ってしまったかもしれない。

 でも、今更もう引き返せない。


 夫の怒気はどんどん強まり、扉にもたれかけていた背を起こし、私の方へ一歩近づく。


 私よりもかなり背の高い夫に見下ろされ、震える手に気づかれないように固く拳を握った。

 しかも今日はヒールのない靴を履いているため、自分が小さな存在になったかのような錯覚を覚える。



「君はいつも曖昧な物言いで誤魔化す。本当は何が望みだ…!」



 ―――夫が私に感情を見せるのは、怒りだけだ。


 声を荒げられ、一瞬怯む。

 以前にもこんなことがあった。あの時は怒鳴り声が怖くて萎縮してしまって何も言い返せなかった。

 だけど、今は違う。

 私の居場所はこの寂しい家だけではない。

 話を聞いてくれる人がいる。味方になってくれる人がいる。


 心臓は絞られるように痛いけど、まだ立ち向かえる。



「…勝手に、物事を進めないでいただきたいのです。」

「私が勝手だと?君の方こそ勝手だろう。離縁を申し出てきたり、食事を一人でとると決めたり、用事は侍女を通して伝えろと言ったり。」

「それはあなたが…!」



 あなたが愛人をつくるから―――…そんなことはとても口にはできなかった。

 惨めだから。


 言えない想いが胸を締め上げ、浅い息だけが唇から漏れ出る。何度も、何度も。


 いつの間にか夕日は沈み、空はピンクがかってくる。


 静かに流れる沈黙が夫の怒気を鎮ませたのか、代わりに虚しい時間だけが過ぎる。

 近づくことも、離れることもない虚しさ。夫婦と言う枠組みにただ収まっている私たちのようだ。



「…一度、聞いたことがありましたね。お役に立ちたいと。私にできることは、足らぬところはないかと。あなたは、そのままで十分だと言いました。そんなに私が不出来でしたか。相談もできぬほどの人間ですか。」

「…そうは言っていない。…家政が滞りなく進むよう万事整えているはずだ。資金繰りも悪くはない。この家が息苦しいというから外での慰めも許可した。勝手に事を進めるなと言うが、君に不便がないように取り計らっているではないか。これ以上何を望む。」



 “強欲な女”とでも言いたいのか。侯爵夫人という地位も、お金も、愛人も手にできてそれで充分だろうと?ああ、私が望むものは望んではいけないものだったのか。


 身を焦がすほどの熱情や、我を忘れるほどの情欲でなくてもいい。

 ただ一人の人間として真っすぐ見て、尊重して。“妻として”見てほしかった。


 政略結婚だもの。優しい口づけや、愛の言葉を甘く囁かれることを期待して嫁いできたわけではない。


 貴族の妻として、普通に、ごく普通に扱ってほしかっただけなのに。


 それは我儘だったのだろうか。欲張りなのだろうか…。



「…何も、望まないと決めていたはずでしたのにね。」



 ポツリと呟いた言葉。諦めていた望み。

 でも、なぜだろう。絶望したいのは私の方なのに、なぜ目の前のあなたがそんな顔をしているの。


(…わけがわからない…。)


 横暴な男なのに。自分勝手なのに。冷たくて怒りっぽくて優しさなんて微塵もない男なのに。私をこんなに惨めにさせるのに。

 ―――なぜ、あなたがそんな顔を。


 先ほどまでとは確かに違う、胸の痛み。ざわざわと、かき乱される。耐えられない。


 見ていられなくて、慌てて視線を地面に落とす。乱れる鼓動が、ここに居てはいけないと警告を鳴らす。

 


「…出過ぎたことを言いました。お許しください。しばらくは身の安全のため家からは出ません。あなたにはご迷惑をおかけしますが、調査の方をお願いします。」

「メルヴィーナ。」

「夜風が強まってきました。先に入らせていただきます。」



 シルヴェスター様の顔を見るのが怖くて、口早にそう告げて家の中に逃げ込む。

 背後で、彼も家の中に入ってきた気配を感じたけれど、振り返らずにかつかつと進む。

 マリアに10分後に湯浴みをすると告げ、寝室に逃げ込んだ。ここなら一人になれる。そう思うと途端に気が抜けて床にへたり込んでしまった。



(…なんで、あんな傷ついた顔を…)


 初めて見る夫の表情が頭から離れない。いつもは無感動か、もしくは険を含んだ眼差ししかしない蒼い瞳が揺れていた。厳しい言葉を紡ぐ薄い唇が、僅かにわなないていた。


(あんなシルヴェスター様、知らない…)


 初めて見る夫に、逃げてしまった。心の内に触れてしまいそうで。これ以上傷つくのが怖くて。

 臆病な私は、そのまま寝室に逃げてしまった。

 今日ほどこの一人きりの寝室に救われた日はない。



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