7-1健全な密会
途中からラルフ視点になります…!乙女です。
「かわいい。すごくかわいいよ。普段のメルは綺麗だけど、今日はすごいかわいい。」
「あ、ありがとう…?」
この愛人(?)はすごく褒め上手だ。褒め殺しに来ている。気が強く美しい兄と姉の元で、彼は末っ子として優しく気配り上手に育った。しかし今日は何か…振り切っている。
あの日”愛人ごっこ”が約束された後、なぜかワクワクした様子の公爵夫人から「愛人の極意」なるものをご教授いただいた。嫌な予感しかしなかったが、なぜか夫人のことは無視できない。
あの夫人のことだ、何かいかがわしいことを提案されるのでは…と構えたが、有難いことに予感は外れた。
夫人からは「その壱!お忍びデートをするべし!」とお達しを受けたのだ。
聞くと、世の愛人たちは平民の服を着てお忍びデートなるものに出かけるらしい。
貴族の世界ではなかなか陽の元で会えない関係の男女が使う手ということだ。
シルヴェスター様とは街散策なんて勿論したことがない。
普通に楽しそうだったので、喜んで賛成した。
しかしである。
待ち合わせして、いつもと違う装いで顔を合わせるのは、何とも気恥ずかしい。
しかもラルフお得意の天然人たらしがいかんなく発揮されている。
「こういった簡素な服を着ると、少し幼く見えるね。」
「そうかしら…。あ、でもラルフも昔の面影が少し。」
そう言って笑いあうと、なんだか昔に戻ったような錯覚に陥る。
(髪の毛、下ろしてる。いつものかき上げてるのも素敵だけど、下ろしてると少年みたいだわ。)
「小さい頃もさ、兄さんたちとみんなでこうやって街で遊んだことあったね。」
「帰りが遅くなって家政婦長に怒られたわね。」
お互いの家の領地が隣接していたこともあり、バカンスの季節はお互いの領地で家族交えて過ごすことが多かった。なんだかあの頃みたいだ。
「色々考えずにさ、今日は楽しもう。誰も俺たちのこと見てないから。」
「ふふ、そうね。」
差し出されたラルフの左腕に右手を添える。何度も受けたことのあるラルフのエスコートも、今日は少しだけ照れてしまった。いつも着ている正装用のコートではなく、薄手のシャツだからかもしれない。
初夏の王都、新緑の木々の隙間から零れ落ちる光の粒がラルフの頬を照らす。
(ラルフって、こんな顔だったかしら…)
ふとそんな不思議な感覚になったが、打ち消すように頭を振る。
マリアも護衛も後ろからさりげなくついてきてくれている。これはただの街散策だ。彼も言った通り今日は何も考えずに普通に楽しもう。
◇
「えっ手で…!?手で持ってどうするの?」
揚げたパンをぎこちなさそうに持つ小さな手。
「このまま…!?かぶりつくなんて。口についてしまいそうだわ。」
薔薇のようなロゼ色の大きな目を更に見開いて、「信じられない!」という目で語る。それでも口角は上がっているからカルチャーショックを楽しんでいるようだ。
美味しそうなもの楽しそうなものは試してみたい性格は昔から変わっていいない。
「ね、あっち向いてて。絶対見ちゃだめよ。分かった?」
少し勝ち気げな話し方。俺は知っている。彼女が勝ち気な話し方をするときは恥ずかしいときだと。「はいはい」と笑って背を向けると、彼女自身も周囲から見えないように体をずらす。
戸惑うようにおずおずと口を開いている。普段は淑女らしく大きな口をあけることはないが、思い切り笑ったときに見せる、メルの大きな口が実は好きだ。今もほら。美味しそうな香りと揚げたての熱気に我慢ができなかったんだろう。顔いっぱいに口を開いて、大きな一口。
髪を下ろしてきて良かった。前髪の隙間から横目で覗き見ることができる。メルに視線を気取られることなく鑑賞することができる。
かわいい。美味しかったんだろうな。目まで閉じちゃって。眉毛も下がってる。本当にかわいい。猫みたいだ。
「あっ!見ないでって言ったのに…!っも~なんでこっち見てるの!?」
「ごめんごめん、あんまり美味しそうで、いいなと思って、つい。」
「あ、そうよね、ごめん、半分にすれば良かった。はい、どうぞ。」
「ありがとう。」
俺が恥ずかしげなく手で持ったパンを大口で食べるときょとんとした顔で見てくる。
「ラルフって美味しそうに食べるのね。」
目尻を下げて笑う君に、「君ほどじゃないよ」と告げる代わりに微笑み返す。なんて優しい時間なんだろう。メルヴィーナと過ごす時間はいつもそうだ。
去年、馬でイチョウを見に行ったときも思ったけど、彼女は時間を巻き戻す魔法が使えるのかもしれない。普段は侯爵夫人として高貴な佇まいに徹している彼女だが、不思議なことにあっという間に12,3歳の頃の少女に戻ってしまう。つられて自分も少年に戻った気分になる。
そうなるとあっという間に時間が過ぎる。時を操る魔法も使えるのかもしれない。
「…ついてる。」
メルヴィーナの頬についているパンを取ると、恥ずかしそうに頬を赤らめて視線を泳がす。
「…ありがと。」
ぶっきらぼうに聞こえるのは、彼女の羞恥の表れだ。そのまま手に取ったパンを自分の口に運ぶと、メルヴィーナの頬はその瞳と同じくらい赤く染まっていく。
「なっ何するのよ~…!!」
それでも「ごめんごめん」と謝れば、「もう…」と口を尖らせつつも許してくれる。
『色々考えずに今日は楽しもう』と言ったのは本心だった。17歳のあの日、メルヴィーナとこうやって過ごす未来は諦めた。侯爵家との婚姻が決まったとメルの父から聞いた、あの日。20歳の自分がこんな風にもう一度楽しい時間を過ごすことができるなんて、17歳の俺は知らない。
騎士として身を立てて、自立した人間になったら迎えに行こうと思っていた。自分には相続される爵位も領地もないから。
メルヴィーナを侮っていたわけではない。彼女自身は自分を傷物だと言って卑下していたが、初恋の贔屓目を差し引いても彼女は魅力的だと分かっていた。でも、本人が結婚には消極的だったし、何より他人に本心をさらけ出せない性格なのだ。あの公爵夫人くらいずけずけした人でないと、メルは心を開かない。だから王都で過ごすようになった彼女には、その美しさと勝ち気でとっつきにくい様子から”薔薇”という二つ名をつけられていた。
だから少し慢心していた。彼女が大口を開けて笑うのは自分の前だけだし、時間はまだあると。
―――愚かだったと気が付くのは、いつも手遅れになってからだ。
それでも、仕方がないと諦めることは容易だった。侯爵家だなんてこれ以上ない後ろ盾を得て、彼女が幸せになれるなら。
式でのメルヴィーナは本当に眩しかった。ヴァージンロードを歩く純白のドレスを着た花嫁の、レースで隠された背中。見えないそこを、人には言えない感情で見つめていたことなんて誰にも言わなければいい。
それなのに。
どうして俺の大切なメルヴィーナをそんな顔にさせるんだ。瑞々しい満開の薔薇のようだった彼女があそこまで痩せて、虚ろな目をして、噂話から心を守るかのようにその瞳を固く閉じる。
仄かにシダーウッドの香りを纏う、リッチモンド侯爵家に嫁いだ彼女は全く幸せそうではない。…耐えられなかった。
なぜ?地位も潤沢な資金も、彼女に触れられる権利も、何もかも持っているはずなのに。17歳の美しい薔薇を手折ったのはあの男なのに。なぜ萎らせる?
初めてだった。怒りという感情を自覚するのは。
あの時痩せたメルヴィーナを思い出すと、今でも胸が痛む。
「…ラルフ?どうしたの?疲れちゃった?」
パンのことなんて微塵も興味ないのに、君のこと見ていたかったから、なんて言えるわけないラルフ(尊)




