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思い出の一作

作者: 東雲有咲

小説についてや、作品についての思い出話を長々と語ってるだけです。

pixivからの転載となっております。

感想やレビュー、いいねなど、もらえたら光栄です。

では、最後までお付き合いお願いいたします。

 小説を書き始めたきっかけは、正直に言うと特にない。

 何を思ったかパソコンの画面に向き合いふとドキュメントを開いた。そしてただ思っていることを書き始めた。

 ある女の子の話だ。元ヤンで、お嬢様で、妹のほうが優秀だというのに、妹のほうがちやほやとされているのに、そんなのはまったく気にせずに自分の世界を持っている。そんなかっこいい女の子。

 その子の母親は彼女が小さい頃に他界。父親は悲しみに明け暮れていたが、その後すぐに再婚。継母となった人は自分の子供である彼女の妹ばかり可愛がり、彼女のことはまったく可愛がらなかった。

 そして彼女を本邸の隣にある小さな別館に追いやった。そこには父親が解雇した使用人たちが住んでいた。なぜ解雇されたにも関わらずまだそこにいるのかというと他界した母親の情けで別館に住まわせてくれている(今よくよく考えたらよくわからない設定である)のだ。

 彼女は使用人たちとまるで家族同然のような関係を築いていた。そこにはしっかりと「あたたかみ」があった。どちらが賢いだとか主だとかはまったく気にせず皆平等に接していた。

 一方、妹に使える使用人たちは主従関係が目に見えるようであった。厳しく言われ、できないと言えば「箱」と呼ばれる物置きのようなところに閉じ込められる。そんな関係だった。

 そしてここでもう一人、重要な人物がいる。彼女の幼馴染みだ。彼もまた元ヤンである。彼女がお嬢様だとか、そんなものは気にせずにただ彼女を支え、守った。彼は彼女のことが好きだった。

 さて、ここまでかなり長くなってしまったが、ざっと話を進めると、彼女の使用人の一人(彼は別館の一番の古株で、料理人だった)が亡くなってしまう。彼女はまた一人大切な人を失ってしまったと悲しむが、その使用人の息子が店を営んでおり、それを知った彼女はそこに行きもう食べることのできないと思っていた思い出の味を懐かしむ……。そういった話である。……今度はざっくりと行き過ぎただろうか。

 しかしこの話は、デジタル(パソコンやスマホ)で書いた初めての作品であり、アナログ(紙とペンさえあればできるやり方)ではいくつか書いていたのだが、なかなか続かず一度は小説を書くことから離れた。

 アナログで続かなかった理由としては、書きたい話や部分的に書きたいところがどんどん湧いてくるにも関わらず、そこにたどり着くには前置きやキャラ設定などを決めなければならない。前置きばかり書いて肝心の書きたいところがなかなか書けないじゃないかと思い挫折することが多くなった。

 何度も、何度も書いた。続かないのは自分の根気がないからだと叱咤しとにかく書いた。今でも未完成の作品は山のようにある。

 ところがデジタルに変えた途端、状況ががらりと変わった。なんだこれは。すぐに消せる、修正ができる、前置きだって、キャラ設定だって、なんのその。

 なんて便利なんだろう。なんて楽しいんだろう。初めて小説を書くことが楽しいと思えた。想いを吐き出せる場所ができたと思った。

 パソコンで打ったものをスマホに手で入力し直し(自分のパソコンではなかったからつなげることや共有などができなかった)、スマホのドキュメントに書き溜めていった。

 一つのファイル(?)に十個ずつ書いていた。同じシリーズだからとか、同じ世界線だとかいうのでわけていたのもあったし、ただ単に数えやすかったというのもある。それが気づけば十二個ぐらい出来上がっていた。

 さて、書いたはいいがこれをどうこうする気はさらさらなかった。書いただけで満足だった。

 そんなときに友達が小説を投稿しているという話を聞いた。そうか、その方法があったのか。自分が書いた小説を投稿することに抵抗はなかった。ただ周りに知られたりするのが面倒だなと思ったくらいだ。

 pixivの存在は元から知っていたし、作品を閲覧するだけ(いわゆる見る専である)だったから、アカウントも持っていなかった。

 だが、投稿するにあたってアカウントは必須だ。友達に聞いたその日にpixivでアカウントを作った。ユーザー名はずっと前から考えていた。

 東雲有咲。

 その時推していた二人の推しの名前を(勝手に)貰い、くっつけたものだ。

 それからはもうどこにいってもこの名前を使うようになった。それほど気に入っていた。

 このアカウントを作り、初めて投稿したのが二年前の十月四日。

 見てもらえるということが嬉しくて一気に三本も投稿した。いくらなんでも突っ走り過ぎだろうと自分でも思うが、そのときは本当に嬉しかったのだ。

 思い出の一作、とは言ったものの、未完成の作品なども含めどれもが特別で思い出の一作である。

 時々、自分の作品を読み返すときがある。ああ、ここはこうすれば良かっただとか今ならもっとよく書けるだとか思いながら書いたときのことを振り返る。

 もちろん、今から手を加えようと思えばいくらでも加えることができる。しかし、あえて手を加えずにそのままの状態でおいておく。なぜならそれは一種の「思い出」だからだ。

 だから、投稿した作品は一度も消したことはない。どれだけひどくても、伸びなくても。それは何か違うと思うからだ。

 残しておきたい。納得がいかなくても。駄文でも。

 作品というのはここまで歩いてきた証のようなものだ。それを消してしまうのは、違う……気がする。

 そしてそのキャラたちは「うちの子」であって、私の中でしっかりと生きている。

 少ししか出番がないモブも、幸せになったあの主人公も、一度しか出番がなかったあの子も、皆大事な「うちの子」だ。

 しかしその大事な子たちの中にもお気に入りの子はいるわけで。応援したいなとかもっとこの子たちの絡みが見たいなと感じることは多々ある。

 もちろん、この話が書きたいと思っているときにそれを書かなければ続かない。これが未完成の作品を生み出す要因になるのだ。書きたいと思っている時間(これを勝手に賞味期限とよんでいる)に書かなければ後々書きたい欲がなくなったとき、他にもっと書きたい話ができたときにその話は放置されてしまうことになる。

 説明が下手で申し訳ない。例をあげてわかりやすく説明しよう。

 まず、書きたいなと思った話(これを仮に「作品A」としよう)があるとする。これを書き進めていると、次にまた書きたい話(これを「作品B」とする)がでてきた。

 作品Aが少し行き詰まってしまったので執筆を一旦中断し、作品Bを書くことにした。これが思いの外着々と進み、ついに完成した。めでたいことである。

 しかし、一旦中断された作品Aはどうなるのだろうか。そんなの、また続きから書けばいいじゃないかと思うであろう。だが、もう作品Aの続きから話を広げようと思ってもなかなかアイディアが出てこない。焦りと不安に見舞われているうちにまた新しい書きたい話が出てくる……。

 とまぁ、こういった具合なのだ。やはり、少々わかりづらいかもしれない。

 この作品Aのようなものが未完成作品になりやすい。時たま、ああそんなのもあったなと思い途中から書くのだがやはり続かない。

 もちろん、未完成作品も多いがそれと同じくらい完成作品もある。

 きっとこれは自分がその話やアイディア、作品にときめくか(・・・・・)ときめかないか(・・・・・・・)なのである。

 テレビで見たのだが、断捨離をするときに大切なのはこの服や物にときめくかときめかないかで捨てるか残すかを決めるとやりやすい、と言っていたのを聞いたことがある。

 これもきっとそうなのではないかと勝手に思っている。

 ここで、「誰」がときめくかどうかを決めるのだという話になるのだが、これは作者 (つまり自分)がときめくかどうかであると思う。

 読者に楽しんでもらうのもちろんのことだが、私はまず自分が楽しんでわくわくして書かないと読者にもそのわくわくは伝わらないと思うのだ。

 ああこの言い回しはなんていうんだっけ、漢字は?ここにこの言い回しを入れたら変になってしまうだろうか、とか考えることはたくさんある。わからないことがもどかしくてむしゃくしゃするときもある。

 けれど、楽しい。それすらも楽しいのだ。楽しんで書けないものは書かない。万人受けなどよりも自分がどう思うかだ。

 一度万人受けがするものを書いたほうが良いのか、それともこのまま自分が好きなものを好きなように書いたほうが良いのかと悩んだことがある。

 悩んだ結果、このまま書きたいものを書き続けることにした。万人受けなど気にしていたらきりがない。それよりも自分が楽しもう。そう思ったのだ。

 えー、そろそろ書くことがなくなってきたから、(きっと誰も興味がないだろうが)本にまつわる思い出でも話そうか。

 小さい頃から母の影響で本が好きだった。母いわく、本を読んで読んでと何度もせがまれ、次第に読むのが面倒くさくなり、自分で読めるようにとひらがなを覚えさせた、と言っていた。要は本を読むためにひらがなを覚えたのである。まだ幼稚園生くらいだったように思う。

 それからどんどん本を読むことにのめり込んでいった。想像するのが楽しかった。文から広がる世界が何よりも面白かった。

 小学校中学年(三年生くらいだったと思う)には「東野圭吾」作品を熟読していた。これもまた、母の影響である。

 その後も「宮部みゆき」「東川篤哉」「湊かなえ」「道尾秀介」「夏目漱石」「太宰治」「江戸川乱歩」「芥川龍之介」「司馬遼太郎」などその他諸々の著者の本を読んだ。

 最近はしばらく小説というものに触れていないが、今でもふと文字の世界に飛び込みたくなる。

 周りの声も何もかも聞こえなくなって、ただ目の前に広がっている光景に、耳を傾ける。

 そこはがやがやとうるさくて、でもそれでいて心地良い。

 人によってはうるさくないのかもしれない。

 ……少し語弊があるな。順序立てて説明しよう。

 文字を目で追うときに無意識のうちに脳内で人の声が聞こえる、という現象(現象と呼んでいいのだろうか)を感じる人と感じない人がいる。

 私は脳内で声が再生される方だ。また、それは必ずしも一人ではなくて男の人の声だったり、女の人の声だったりする。それはその話や人物像による。

 しかしその声を探ろうとするとふとなくなってしまう。

 例えば、「わたし、もう嫌なの!」というセリフがあったとする。

 このセリフが脳内で若い女がヒステリックに叫んでいるような声で再生されたとする。

 彼女はどんな声なんだろうか、高い?低い?裏返っている?と考えれば考えるほどわからなくなっていく。次第に最初に聞こえていた女性の声もわからなくなる。

 その声の性質がぼんやりとしかないから、しっかりと考えると考えればわからなくなるのだ。

 さて、話は少し変わるが、皆さんは「速読」という言葉を耳にしたことはあるだろうか。

 速読とはページをパラパラとめくっただけで話の内容がわかる……ということを指すのだが、声が聞こえてこない人はこれができる可能性を秘めているらしい。

 本を速く読むにはこの聞こえている声が邪魔になってくる。

 私はその世界観により浸れるようで結構気に入っているのだが。まぁそれは一旦おいておこう。

 音読の速度は速すぎると少し違和感を感じる。まるで倍速で聞いているような感覚に陥るのではないだろうか。

 つまり、声の再生速度をあげて頑張って速く読んでも声が聞こえてこない人には確実に劣るのだ。

 反対に声が聞こえてこない人はその面倒がないためパラパラと読んでしまう。

 皆さんはどちらだっただろうか。

 普段本を読まないという人も、漫画や記事などを見たときに少し気にかけてみてほしい。

 さて、そろそろお開きとしようか。

 まぁただ単に話すことがなくなったというか、満足したというか、それだけなのだが。

 では、長々とお付き合いいただきありがとうございました。

 これにて、私の長い思い出話は終わりにしたいと思います。

 お付き合いいただき、本当にありがとうございました。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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