第5話『Fatal magic』
牧歌的な平和を謳歌できる、素朴な田舎。それがラットンという町の数少ない魅力であった。
多額の税を納める義務もなく、住民たちを苦しめて自身の腹を肥やすような悪辣な領主もいない。
誰もが笑顔でスローライフを送れる、良い意味で退屈なこの揺り籠が──今、瓦解する。
「うああああああ!!」
「逃げろおおおおお!!」
青ざめ、恐怖し、逃げ惑う住民たち。
ラットンで生まれ、穏やかに暮らし続けてきた人々は、この世界の理不尽な環境に耐性が無く、いざこのような緊急事態が発生したときに現場で冷静になれる人間がいない。
すると混乱は瞬く間に膨れ上がり、甚大な被害が出ることになるのだ。
「な……なん、だ……。あの、バケモノは……!」
一人の男が、遠目からソレを見る。
一見すると、巨大な嘔吐物のようなヘドロの塊だ。
見上げる程の大きさで、常に流動しているそれは、あたかも生物のように蠢いている。
──否。それは正真正銘の生き物だった。
全身から噴き出したヘドロが垂れて地面に落ちると、ジュゥゥゥゥゥという音を立てて、その地面を溶かしていく。
溶解液だ。本来は獲物を溶かして、捕食しやすくする為の体液を、それは全身から際限なく吐き出し続けているのだ。
『────』
落ちる溶解液の隙間から、赤い皮膚の軟体生物が顔を出す。
そのぬめった体躯からはなにかが腐ったような悪臭が漂い、身体に刻まれたタトゥーのような渦の模様は、相対する者への危険信号を示している。
溶解液の鎧を纏う、超巨大な赤いナメクジの容姿は、この場にいる全員に生理的な嫌悪感を抱かせるには充分すぎる出来だった。
「み、皆さん、すぐにここから離れてください! この魔物の処理は……我々が行います!」
住民たちが憔悴する中、勇気を振り絞りながらそう言って前に出たのは、鉄製の兜と鎧を身につけた男性たちだ。
彼らはこの町の治安を守る衛兵であるのだが、この平和な町では彼らの普段の仕事は、暴動の鎮静や町のパトロールといったものばかりで、このような魔物との実戦は彼らも初めてだ。
『キィィィィィ────』
ナメクジは大勢の人間が逃げていくことを感じ取り、得体の知れない金切り声を上げる。その本能が避けたいと望むような奇声を耳にして、衛兵たちの背筋が凍りつく。
「ブ、ブルータス隊長ぉ……。俺たち、こんなところで死ぬんでしょうか……?」
「馬鹿な想像をするな! 確かに、我々に魔物と剣を交えた経験はない。だがこの町の人々の安全は、我々が守らなければならないのだ!」
怖気付いて戦意を喪失する兵士に、隊長のブルータスが喝を入れる。
衛兵が平和を投げ出して、敵前逃亡などあってはならないと。
身を捧げて守るべきものを守る。それこそが、本来の衛兵の姿だと。
──本当は、彼だって逃げ出したいのだ。
妻が居て、娘が居て、その二人が家で帰りを待ってくれている。
父親が化け物に溶かされて死んだ、などという悲報を娘の耳に入れることを、世界の誰が許容できようか。
「下手に奴に近づくな!! 必ず全員生き残って、役目を果たすのだ!!」
「「「うおおおおおおおおお!!!」」」
剣を空に翳して、仲間たちを奮い立たせるブルータス。
兵たちもそれに鼓舞されて、戦意を取り戻す。
そうだ。誰も死なせない。
名ばかりの称号でしかないが、それでもブルータスは隊長なのだ。
不足の事態で部下を失うなど、この矜恃が許しはしない。
右手に片手剣を、左手に盾を構えながら、眼前で蠢く異形をギッと睨みつけた。
「討伐対象はメルスラッグ!! 奴の動きは遅いが、吐きかけてくる溶解液には注意しろ!」
赤ナメクジ──メルスラッグは、密林地帯や沼地に生息する水生種の魔物だ。
全身の腺から常に溶解液を放出し続けているのが特徴だが、動きが亀の歩みのように遅いため、囲まれていない限り逃げることは容易である。
が、近づかなければ安全というわけでもない。
溶解液はメルスラッグの口からも発射されるのだが、その溶解ブレスは鉄砲水のような勢いとリーチがあり、離れていても命中しやすい。
したがって、メルスラッグの正面に立つのは自殺行為だ。
「私が奴の気を引く! その隙に全員、側面と背面から斬りかかれ!!」
「「「了解!!」」」
部下たちが命令を承諾したのを聞き届け、ブルータスは覚悟を決めて剣を投擲した。
『ギィィィ────!!?』
矢のように射出された剣が、メルスラッグの腹部に突き刺さる。
メルスラッグは苦しげな声を上げた後、その口から溶解液のブレスを吐き出した。
「ぬおおおおおお!!!」
手元に残っていた盾で、溶解液が身に掛かるのを防ぐ。
しかし鉄製の盾は腐食し、今にもドロドロに溶けきってしまいそうだ。
「チッ」
盾を捨て、横に走り出すブルータス。メルスラッグも逃げる彼に照準を合わせるように、首を傾けた。
──ここが、攻め時だ。
「今だ!! 掛かれえええええ!!!」
「「「はあああああああッ!!!」」」
ブルータスの掛け声と共に、メルスラッグの元へ兵たちが殺到する。
全方位から振り上げられた鉄の剣が、真紅の皮膚を切り裂く──そのつもりだったが、攻撃にかかった部下の一人の報告によって勝算は潰える。
「た、隊長! 溶解液の鎧に阻まれて、刃が本体に届きません!」
「何だと!?」
まさか、それ程までに強力な溶解性を有していたとは。
以前閲覧した文献では、メルスラッグの溶解液は木を腐らせる程度のものだと記述されていた筈だ。
その程度の溶解性なら、鉄の剣が一瞬で溶かされるなどありえない。
「──いや、そもそも……」
この個体は、その文献に記されていたメルスラッグの特徴と大きく異なっている。
まず、サイズが巨大すぎる。
通常のメルスラッグは、寝台一個分程度のサイズしかないらしい。
その大きさでも十分脅威だが、目の前のものはその十倍以上の体躯を誇っている。
次に、奴の皮膚の模様が通常種のそれと一致しないこと。
通常種は虎のような縞模様が刻まれているが、奴の渦のような模様は見たことがない。
そして──。
(最も不可解なのは、ラットンの周囲にメルスラッグの主な生息地である密林地帯と沼地が存在しないことだ……。近場の洞窟から這い出てきたのか? いや、あそこの入口はこんな巨体が通れるほどの広さじゃないぞ。だとしたら、コイツは一体どこから……)
「隊長、奴の様子が……!!」
「────っ!? まずい──」
兵の言葉に気づいて顔を上げると、メルスラッグの口元が膨らんでいた。
考えごとをしていたのが災いし、溶解ブレスを放つ予備動作を見逃してしまったのだ。
ブルータスが回避の動作をするより先に、メルスラッグのブレスが放たれる。
──もう、間に合わない。
(すまない──。セレン、フローラ。お前たちを、お前たちの町を守れないまま死ぬ愚かな男を──どうか、許してくれ)
──直撃。
水の冷たい感触の後、全身が炎に炙られるような熱と激痛に襲われる。
ブルータスを鎧ごと腐らせて侵入した酸は、彼の骨を、内臓を深く深く侵していく。
「うグッああああああああああああ──ッ!!!」
「隊長!! しっかりして下さい!! 隊長!!」
「あああ!! あああ!! あああああああああアア!!!」
悲鳴が、苦鳴が、断末魔が響く。
何も聞こえない、何も見えない、痛みと熱しか感じない。
人間が耐えられる苦痛じゃない。これを知った今は、自分が昨日までどれほど温い湯に浸かっていたのかが痛感できる。
死ぬまでが長い。長く長く苦しむ。いつ死ねる。いつ終わる。
先刻、「誰も死なせない」と楽観的な啖呵を切ったのに、今は死を渇望し続ける自分がひどく虚しい。
虚しくて、悲しくて、悔しくて、情けなくて──。
──唐突に痛みが消えたのは、遂に自分が死んだからだと思っていた。
† † † † † † † † †
「隊長!! しっかりして下さい!! 隊長!!」
兵の一人が、ブルータスの腐敗した肉体を揺する。
苦しみながら溶かされていくブルータスの前で、涙を流しながら悲痛に呻く彼は、ブルータスから最も信頼された部下だった。
微力ながらも皆を守ろうとするブルータスの生き様に憧れ、いつかはラットンを出て王国の兵士になることを、彼と約束した。
「ちく、しょう……! どうしてこんな……」
「イヴェン、逃げろ!! このままじゃお前まで……!」
別の兵が、ブルータスの上で呻く彼──イヴェンに呼びかける。
しかし時すでに遅し。
メルスラッグは再び口元を膨らませ、ブレスの準備に入っていた。
──これ以上、この人の意志を侮辱させるか。
その思いが激発し、イヴェンは覆い被さるようにして、既に悲鳴すら上げられなくなったブルータスの身体を守る。
咄嗟の行動で、馬鹿なことだとは分かっている。もうブルータスは助からない。だからこんなのは、無意味な心中のようなものだ。
それでも、心の底から守りたかった。
町よりも、夢よりも、何よりも──、ブルータスを守りたかった。
「すみません、ブルータスさん──」
王国の兵士になるという約束を破ってしまったことに謝罪し、イヴェンはゆっくりと目を閉じて諦観に至る。
「ウォーラあああああああああ!!!」
──誰かの詠唱が聞こえてきたのは、その時だった。
白髪の少年が水球を作り出し、メルスラッグに放つ。
水を浴びたメルスラッグは怯み、ブレスとして放つつもりだった溶解液を盛大に口から零した。
『ギ、イイイイイィィィィィ……』
「──うわ、近くで見ると本格的に気持ち悪いな。人生で遭遇したくない魔物ランキングトップ5に入ってそう」
そんな益体もない感慨をこぼしてから、少年はこちらを振り返った。
白髪青瞳の、十二歳くらいの子供だ。
「き、君はいったい……。いや違う! どうして子供がこんなところに来たんだ!」
いま自分が生きているのは、紛れもなく彼のおかげだ。
それでも、子供が魔物の前に現れるのは危険すぎる。
衛兵として、ブルータスの部下として、少年の行動はイヴェンに許容できなかった。
「……アンタが庇ってる、そのオッサン」
「なに?」
「酷いケガだ。その人の傷治すから、そこどいてくれ」
──この子供はいったい何を言っている?
こんな重症、回復魔法を用いても治療は困難だ。
ましてや、こんな子供に回復魔法を扱えるほどの技術など──。
「頼むからどいてくれ。その人、助けたくないのか?」
「────。助けられる訳ないだろう!! 奴の溶解液を食らって、内臓まで焼かれているんだぞ! お前のような世間知らずのガキが、都合のいいことを宣うんじゃない!!」
ショックと焦燥感で平静を失い、子供に向けるべきではない悪意をぶつけて噴火する。
そうじゃない。もっと他に言うべきことがあるはずだ。
理性では分かってるのに、それを実行することが──。
「……確かに、オレもその人を100パー助けられるって確証はねえよ。──でも」
そんなイヴェンの葛藤には気づかず、少年は首を振る。
そして、言った。
「オレは、誰かの役に立ちたい。今までずっと、姉さんの足を引っ張ってきたから……。だからそれを全部イーブンにするぐらいに役立って、自分の価値を証明したいんだ」
「────」
「頼む。オレのワガママを聞いてくれ」
神妙な顔持ちで、そう少年は懇願してきた。
「…………っ。分かったよ、やってみろ」
遂には断りきれず、イヴェンは不承不承、承諾する。
もしも本当に、この子に隊長が助けられるならと、糸のように細い希望をかけて。
「──ありがとよ」
感謝の言葉を口にして微笑み、少年はブルータスの前に屈んだ。
変なヤツだ、とそう思った。
本来、感謝するべきなのはこちらの方なのに、なぜ助ける側がその言葉を口にするのか。
(──ああ。この子は本当に、誰かを助けたいだけなんだ)
なんとなく、イヴェンはそう結論を出すことにした。
突然、ブルータスの痛々しい傷が青白く光りだしたのは、それと同時のことだった。
「────ッ!?」
「こいつは……花壇の時の……ッ!」
イヴェンには、なにが起きているのか分からない。
光はますます勢いを増していき、視界を青く塗りつぶすほどに強くなってゆく。
その輝きの美しさに内心で驚嘆している内に、やがて光は収まった。するとそこには──。
「──間に合ったみたいだな、生きてるよ」
さっきまでの惨状が嘘のように、綺麗な姿で眠るブルータスの姿があった。
「隊長────ッ!!」
それを目にした途端、感情が込み上げ、必死にブルータスにしがみつく。
意識はまだ無いようだが、温かさを感じるだけで胸が張り裂けそうになった。
「うぅ……、ううっ……!」
涙が溢れる。奇跡だ。奇跡が起こったのだ。
この少年が奇跡を起こした。否、この少年そのものが奇跡だったのだ。
「さて、と」
少年は安堵した様子で立ち上がり、メルスラッグの方に歩き出す。
「ま、待ってくれ!!」
咄嗟に少年を呼び止める。さっきまでは彼が戦うのを認められなかったが、今は違う。
この奇跡の少年なら、きっとあの怪物も倒せるだろう。
でも、せめて──。
「君はいったい、何者なんだ? よければ名前を、聞かせてくれ」
今はそんなやり取りをするほど、悠長な時間ではないことを分かっている。
ただ、どうしても聞きたい。イヴェンとブルータスを救った、小さな英雄の名を。
「──ここで、『名乗るほどの者じゃない』ってカッコイイ奴は言うんだろうな……」
瞑目しながら、少年は何かを呟いている。
それは聞こえなかったが、次に紡がれた言葉ははっきり届いた。
「オレはグレイル。『聖水売りのグレイル』だ!」
「聖水売りの……、グレイル……」
その名を反芻するように吟味し、噛み締める。
奇跡の少年──グレイルは、イヴェンに背を向けて再びメルスラッグと向かい合う。
「見てろ。オレがこの化け物を浄化して、全員助けてやる! 誰も犠牲なんか出させやしねえ!!」
──全員、助ける。
まるで隊長のようなことを言うのだな、とイヴェンが感慨深く思った瞬間だった。
「さあ、かかってきやがれド畜しょ……う?」
その光景には、グレイルも思わず言葉を失った。
──メルスラッグから、先程ブルータスを癒したものと同じ、青白い光が漏れ出ている。
「な!?」
『ギギギギギギギギギギギギギギギギ』
苦しみにのたうち回るメルスラッグ。
同時に溶解液が飛び散り、周囲を溶かしていく。
「や、奴から離れろぉ!!」
衛兵たちは明らかに様子がおかしいメルスラッグに戦慄しながら、距離をとる。
そして──。
『────ギ』
──白光と共に、メルスラッグの肉体が爆散した。
「うおああああああああああ!!!」
グレイルの絶叫と光が止む頃には、この場所には何も残っていなかった。
怪物の肉片も、おぞましい溶解液も、何も。
「────」
「────」
「──え、即死?」
爛れた地面を前にして、グレイルは呆気にとられながらそう零すのだった。