08 直向佑珂の頑張る理由【2】
今にして思えば、いきなり三十二人で歩こうとしたのは完全に無謀だった。最も初歩的な二人三脚すら満足にできない自分たちの現状を、一時間半ほどの練習で佑珂たちは嫌というほど思い知らされることになった。
単純な競技に見えても二人三脚は難しい。隣の子と身長や歩幅が合っていないだけで歩調が乱れるし、歩くテンポを揃えることだって難しい。自分ひとりで歩く分には何の障害にもならなかったような要素が、足を結んだだけで牙をむき始める。
佑珂とペアを組んだ子は最初からビビり通しだった。いつもお絵描きばかりしている物静かな彼女──野口雪歩は、五十メートルの個人タイムなら佑珂よりも速いというのに、佑珂のペースに合わせてよたよたと不安げに走るばかり。彼女に足を取られて佑珂が転ぶたび、彼女は泣きそうな顔で「ごめんね」「次は頑張るから……」などと頭を下げようとする。そのたびに佑珂は負けじと笑顔で首を振ってやった。
「大丈夫! 私も頑張るよ」
許されることは難しいのに、許すことってこんなに簡単だ。なんだかちょっぴり自分が偉くなったみたい。だけど、そんなことで偉くなったってちっとも嬉しくはない。うぬぼれるなと慎重に自分を戒めつつ、ちぎれ飛んだ足紐を拾い上げて雪歩の隣へ並び、また結んであげる。すると雪歩もおっかなびっくり姿勢を直して、また佑珂の肩に腕を回す。そうして二人でゴールラインを見据え、声を合わせるのだ。
「せーの、一」
「二」
「三」
「四!」
どうにか歩けるようになったところで日が暮れた。本番では十六倍もの人数で足を結び、倍以上の速度でコースを走らなければならない。途方のない道のりの長さを実感したのは、きっと佑珂だけではなかったと思う。それでも、汗を拭って理紗先生や朱美を取り囲む一組のみんなの瞳には、まばゆい夕陽がチラチラと映って小さな夢色の輝きを宿していた。
慣れというのは恐ろしいもので、数日も経つ頃には、放課後を練習に献上する習慣は一組全体に行き渡っていた。毎日の練習にあれほど難色を示していた子たちも、存外、それほど不満を口にすることなく塾や習い事を休み、練習のために残ってくれている。それが本人の希望によるものなのか、それとも同調圧力というやつの賜物なのか、佑珂はあまり深く考えないようにしていた。
「──ぜってー膝当て使った方がいいと思う」
すりむいた膝の絆創膏をさすりながら、康介が顔をしかめている。間髪を入れずに「それな」と叶子が同調する。佑珂は両腕に顔の下半分を埋めて、ぼやくみんなをぼんやり眺めていた。時計の針は八時を過ぎている。誰に言われたわけでもないが、日々の練習が習慣化するにつれて、こんな具合に実行委員も朝早くに集合して作戦会議を開くようになった。もっとも実態は作戦会議というより、雑談や愚痴のぶつけ合いに等しい。
「この数日間で軽く五十回は転んだよ、おれ。ぜったいクラス最多記録だろ」
「なんの根拠があって最多なんて言ってんだ。俺の方がたくさん転んでる」
「そんなもんどっちでもいいでしょ。あーあ、まさかあんだけ転ぶ羽目になるなんてな……。うちの傷、今も正直けっこう痛むんですけど」
「理紗先生に相談してみようよ。もしかしたら大会の人が送ってくれるかもよ、膝当て」
「そこまで大盤振る舞いしてくれんのかなー」
「足紐だって送ってくれたんだから、案外ほんとにもらえるかもな。テレビ局なんて予算いっぱい持ってるだろうし」
「でもさ、全国で何千人って数の小学生がやってんでしょ。そんなことしてたらお金いくらあっても足りなくね」
「百億円くらいあったら足りるだろ!」
「絶対そんなに要らない」
適当きわまる計算に稜也が嘆息する。なぜかちょっぴり頬を膨らませた康介は、鉛筆を放り出しながら「てかさー」と身を乗り出した。
「やっぱ放課後だけじゃ練習時間が足りないと思うんだよ。二人三脚であんなに苦戦すると思わなかったもん。これから昼休みにも練習しねぇ?」
「反対意見が多いだろうな」
「ね……。みんな良い顔しなさそう」
「私、武井くんと同感。このままじゃ三十人で走るなんて絶対ムリだと思った」
「とりあえず先生に提案するだけしてみようぜ」
「みんなの反応が怖いけど、まぁ……」
ちら、と叶子が教室を横目で見回した。朝の会が始まるまで残り五分。一組の教室にはほとんどの子が登校していて、三々五々、好きなことにせっせと励んでいる。みんなのために頑張っている実行委員のことなど目に入れてもいないみたいだ。
「決まりだな」
ふぁ、と康介が大あくびをした。稜也は眠そうな目で理科のノートを追い始めた。叶子は早くも机に突っ伏している。全身を埋め尽くすようなだるさを払拭したくて、思いっきり伸びを試みたら、代わりに溜め息が口からあふれ出して、佑珂はくたびれた肩を少し丸めた。
四人で実行委員をやるとなれば、練習の方針を決めたり進捗を話し合うための場が必要になる。毎朝、少し早めに登校して教室の隅に陣取り、作戦会議を開くことにしたのも、もとはといえばそのためだった。放課後の練習終わりに理紗先生とミーティングの場を設けてはいるのだけれど、他の三人に言わせれば、なんとなく先生のいる前では自由な発言をしづらいらしい。思いきった提案も口にできないし、正直な意見で場の空気を悪くするのも怖い。そんなわけで、朝早くの教室の片隅は前向きな相談会というより、愚痴の溜まり場に成り果てているのだった。
「そういやさ」
頬杖をついた康介が上目遣いに佑珂たちを見た。
「みんな聞いたかよ。二組もエントリーする気らしいってさ、30人31脚」
「マジで?」
初耳、とばかりに叶子が目をむいた。もちろん初耳なのは佑珂も同じだった。
「俺ら、月曜日から毎日放課後に練習してたろ。それ見てた二組のやつらが、きたじーに『やりたい!』って訴えたんだってよ。そんで、きたじーもそういうの好きだからやる気になって、みんなで盛り上がって参加を決めたみたい」
「へぇ……。誰情報?」
「おれの友達。秀仁とか壮太とか」
「そもそもあいつらが提案したんじゃないの、それって」
秀仁とか壮太とかいう名前に覚えのない佑珂の脳裏には、とっさに名前を告げられても顔が浮かんでこなかった。隣のクラスにそういう子たちがいるのだろう。いかにも康介と気の合いそうな、やんちゃで元気な感じの男子たちが。
この四人で実行委員を務めることになるまで、佑珂はクラスの男子とほとんど交流を持ったことがなかった。もちろん同じクラスで暮らしている以上、事務的な会話の機会はそれなりにある。けれどもそこから先の関係に踏み込めたことはない。よそ者の佑珂を初めのうちは誰もが警戒していて、頑張って話しかけに行っても取り合ってもらえないばかりだった。そのうち佑珂自身が仲良しの子とばかり話すようになってしまって、いよいよ親しくなるきっかけは失われていった。ましてや康介など、佑珂と仲のいい女子たちが何かと目の敵にしている男子たちの一群の中心を占める子だ。こんな機会がなければ、きっと仲を深めることもなく岩戸小を卒業していたことと思う。
無論、そういう意味では稜也も変わらない。
クラス男子でも指折りの秀才である彼の横顔を、丸めた肩越しに佑珂はうかがった。理科のノートから上げた目を、稜也はじっと細めたところだった。
「なんていうかさ、ライバルって必要じゃん。一緒に頑張る仲間がいるほど頑張れるっていうか。だから二組が一緒の大会目指してくれんのは嬉しいけどなー」
気楽な口ぶりで康介が笑う。すかさず稜也は「バカバカしい」と冷たい声で切り捨てた。
「え?」
「頑張るって決めたならライバルなんていらないだろ。自分のやるべきことをちゃんとやってればいいんだよ。努力したら結果がついてくるのは当たり前だろ」
「……そりゃそうかもしれねーけど」
「二組もバカだよな。どうせ勢いで参加を決めたんだろうけど、絶対そのうち後悔する日が来るよ。こんなに大変だと思わなかった、もうやめたいって」
ふん、と稜也はつまらなそうに鼻を鳴らした。たいそう気分を害されたように「なんだよ」と康介がふたたび身を乗り出した。
「先に参加を決めたおれたちのこともバカだって言いてーの?」
「俺は最初から参加には反対してた」
「お前、実行委員を引き受けておいて何を今さら!」
「多数決で賛成派が多かったからって、誰でも彼でも自分の味方だなんて思うなよ。だいたい参加に反対してたのは俺だけじゃないんだからな」
まなじりに憤りを込めたまま、康介が叶子を振り向く。あまり深く首を突っ込みたくなかったのか、叶子はそっぽを向いて視線を受け流した。さりげなく返答を濁したが、確かに叶子は参加に前向きじゃなかった子の一人だ。
「有森はどう思ってんだよ。二組のこと」
「別に。誰がエントリーしようがどうでもいい。うちは佑珂が楽しそうにやっててくれればそれでいいって思ってるし」
「じゃあ福島は?」
「私っ……?」
最悪のタイミングで話を振られた佑珂は声を裏返らせかけた。跳ねた心臓をなだめながら椅子に腰を下ろして、みんなの顔色をうかがって、求められている言葉を必死に考えた。
正直な心境をいえば、確かに二組のことなんてどうでもいい。今は自分たちのことでせいいっぱいだ。秀仁やら壮太やら、よそのクラスの子たちにそれほど面識があるわけでもない。佑珂にとって何よりも大事なのは、一組と理紗先生がともに手を取り合うこと。
それでもあえて佑珂は笑顔を作った。
「私は……嬉しいなって思うよ。二組の人たちも参加してくれたら心強いから」
「ほら聞いたかよ有森。福島は俺の味方だってよ」
「誰が味方かって話をしてたわけじゃないでしょ」
がぜん勢いを得た康介の言葉に、叶子が大袈裟な溜め息をこぼす。
よかった。機嫌、直してくれた。佑珂の笑顔は安堵でたちまち崩れた。稜也は相変わらず不服そうに窓の外へ視線をやっていたが、取り急ぎ、場の空気が致命的に悪くなる事態だけは避けられたので、佑珂のミッションは成功したといってよかった。
走るスピード。身長。性格。ものの考え方。
どれ一つとっても、実行委員はバラバラだ。
放っておけばいつか決定的な決裂が生じて、実行委員の役割を維持できなくなる可能性もある。そうなれば30人31脚どころではない。ただでさえ結束力の弱い一組は、クラス丸ごと崩壊してしまうかもしれない。それは決して悲観的な予測ではないと、よそものの佑珂には思えてならないのだ。
佑珂は弱い。クラスみんなをまとめるようなリーダーシップも存在感も、言うことを聞かせる説得力も、身体の小さな佑珂は持ち合わせていない。だからこそ、せめてこの四人の結束を守る存在でありたい。乱れた輪を修復する存在でありたい。そうやって少しずつみんなに受け入れてもらえたらどんなにいいだろうと、気づけばいつも願っている。
「ほら、もう席に戻ろう。朝の会始まっちゃうし」
急かしたてると「そうだな」と康介もすんなり席を立った。叶子も稜也も無言で追従した。それぞれの歩幅で自分の席を目指して、腰かけて、理紗先生の到着を待った。またひとつ小さな危機を乗り越えた達成感と、簡単には拭い去れない不安感の残り香が、めくったノートのページから舞い上がって教室の空気に馴染んだ。
「たとえ転んで足をくじいたって、子供のうちは何度でも立ち上がれる。未来はいくらでも変えられるもんだ」
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