07 直向佑珂の頑張る理由【1】
窓を開ければ、広い多摩川を流れ下ってきた風が頬を撫でる。
潮の匂いはしない。河川敷の緑と、排ガスと、鳥の声の入り混じった不思議な香りのする空気だ。むかし住んでいた島では馴染みのなかった騒々しい街の風情に、福島佑珂は鼻を研ぎ澄ませた。朝の冷たい空気が佑珂は好きだ。夕暮れ時の生温かな空気は、寂しくなるから好きじゃない。
いよいよ今日から練習だ。
三十二人の足を束ねて五十メートルを走り抜ける、壮大な挑戦への第一歩。
「……頑張ろうね、私」
自分のためにも、大好きな理紗先生のためにも。
頬を軽く叩いて気合を入れ、それから服を着替えにベッドのところへ戻った。ドアの向こうから母が名前を呼んでいる。しまった、もう朝食の時間だ。急いで着替えなきゃ──。あたふたと羽織ったパーカーのフードを整え、佑珂は大声で応答した。
「いま行くー!」
福島佑珂、十二歳。小柄で臆病な六年生に、学校生活を頑張る理由ができた。
六年一組には実行委員の稜也を含め、中学受験をこころざす子が八人もいる。ほかにもピアノやら柔道やら、習い事をしている子が何人もいる。そういう家庭の事情を加味して自由参加としていたにもかかわらず、その日の放課後練には全員が顔を揃えた。こっそり稜也に塾の有無を尋ねると、稜也は苦い顔で「仕方ないから休んだ」と答えた。
「最初くらいちゃんと参加するよ。これからのことはまた考える」
「偉いなぁ。こっちを大事にしてくれたんだ」
「別に、優先順位をつけただけだし」
稜也は素っ気なく横を向いてしまう。宙ぶらりんの心境にされた佑珂は、とりあえず「そっか」と笑うことにした。理由がどうであれ、頼りになる人の増えるのはいいことだ。心細い思いもしなくて済む。
理紗先生はいつもの上下ウインドブレーカーだ。体育着に着替えた三十二人と先生、そしてコーチに就任した二人の母親は、改めて校庭の片隅で顔合わせをすることになった。岩戸小に通い始めて一年と少ししか経っていない佑珂は、巷では有名人だという健児や文李の母親の顔をあまり知らない。今のうちに覚えてしまおうと、二人の顔や声をしっかり脳に焼き付けた。
「というわけで、いちおう経験者の大迫さんと、この経験者でも何でもないおばちゃんが、今日からみんなの練習を見させてもらおうと思います」
文李の母──室伏春菜が穏やかにあいさつすると、隣の日焼けした女性が元気に一礼した。かつて小学生時代に30人31脚を経験しているという健児の母、大迫朱美だ。
「まぁ知ってる子ばかりとは思うけど、これからお世話になります。ビシバシ鍛えるつもりなのでよろしくね!」
「母ちゃんが本気でビシバシやったらみんな辞めちゃうよ」
健児のツッコミでみんなが笑った。佑珂もこっそり笑ってみた。朱美の目に見知らぬ少女の姿は留まっていないかもしれない。あの人に存在を覚えてもらえたとき、私はようやくみんなの仲間入りを果たすのかな。体育座りの下で指先を絡ませつつ、指先よりも小さな闘志を燃やしてみる。
体操を終えて早々、理紗先生と朱美は実行委員の四人を呼びつけた。
「とりあえず全員の五十メートル走のタイムを計ってみたいんだよね。スターターとストップウォッチと記録の係に、それぞれ一人ずつ就いてほしいんだ」
手のひらサイズのストップウォッチを掲げてみせながら、朱美は佑珂たちを見回した。
「佑珂ちゃんには記録をお願いしていい?」
真っ先に白羽の矢が立ったのは、隅っこに立っていたはずの佑珂だった。──いや、驚くべきはそこではなかった。すっとんきょうな声で佑珂は尋ね返した。
「私の名前、分かるんですか」
朱美は歯を見せて「当たり前じゃない」と笑った。せっかくの小さな闘志は、かくして跡形もなく鎮火してしまった。
「私は学校行事にはぜんぶ参加してるからね。去年の運動会でチアリーダーやった時のことも見てたよ。すっごく可愛かったじゃん」
「あ、あれは……」
佑珂は口ごもった。これといってダンスや演技が得意なわけでもないのに、一年前の運動会で佑珂は応援団員に抜擢され、みんなの前でチアダンスを披露したのだ。あとになってそれが当時の担任、小原先生の指名によるものだったことを知った。転校して日も浅く、クラスにも学校にも上手く馴染めずにいた佑珂の背中を、小原はこっそり陰から押してくれようとしたのだった。
あの日、一緒にチアダンスを披露した叶子とは、今でも親交が続いている。わけを知っている叶子が隣で小さく笑った。朱美はまっさらな一冊のノートを取り出して、まだ赤らんだままの佑珂に手渡した。
「よろしくね、記録担当さん」
うわずった声で佑珂は「はい」と応じた。役目を背負った安心感と、名前を呼ばれた高揚感で、まだ走ってもいないのに心が浮つき始めた。
ストップウォッチ担当には稜也、スターター担当には叶子が任じられた。すぐさま、校庭の隅にライン引きで白線を描き、五十メートルの直線コースを用意する。準備のできた順に康介が声をかけて回り、実行委員以外の二十八名がスタートの手前に並ぶ。
「位置について、用意」
叶子の声が凛と響く。先頭の男子が腰を落とし、スタンディングスタートの姿勢を取った。クラス一の俊足、山懸駿だ。「ドン!」の声とともに叶子の手が振り下ろされるや、彼は猛然と駆け出した。土煙と白線のかけらが宙を舞う。テンポのいい足音が甲高く響いて、一陣の風に紛れながら佑珂たちの傍らをかすめ去った。
「七秒二八」
稜也が淡々と告げる。
とんでもない速さだ。目を見張りながら佑珂は記録を書きつける。続けざまに青木万莉がゴールを通過した。一組の女子で一番の健脚を誇る万莉のタイムは、八秒一七だ。
「すごい……」
「そりゃそうよ。あの二人が速いのは折り紙付きだからね。水道中の陸上部からも声がかかってるってよ」
なんてことはない、とでも言わんばかりに朱美が付言する。狛江市立水道中学校は、岩戸小と同じ学区を持つ近隣の公立中学校だ。中学受験を選ばない限り、岩戸小の卒業生は基本的に全員が水道中へ進学することになる。
水道中か──。聞き慣れた学校の名前を佑珂は口の中で反芻した。佑珂の父、福島真は中学校の教員で、今は水道中で先生をしている。中学での話も身近に聞いているだけに、朱美の言葉はいやに生々しく響いた。中学生の身分を背負い、中学の制服を着て水道中の門をくぐる自分の姿は、今の佑珂には上手く想像できない。けれどもその未来は、思った以上に近くへ迫ってきている。
私はどんな大人になるんだろう。
広い世界へ歩み出す逞しい足を、私はちゃんと持てるだろうか。
ぼんやりと物思いにふけりながら、稜也の読み上げるタイムを記録していった。全体的には男子が八秒台、女子が九秒台といったところ。男子で一番の鈍足は十秒五一を出した設楽敏仁で、女子では十秒八九を出した市川志穂が最遅だった。志穂など走り終えた途端に息を切らして座り込む有様で、まるで健脚の万莉とは身体の作りそのものが違っているみたいだった。この二人が同じチームの一員として足を結び、同じ速度で五十メートルを駆け抜けるなどとは、今の佑珂にはとうてい信じがたい。
「実行委員の四人も走ろうか」
促され、記録を他の子に託して佑珂たちもスタートラインについた。真っ先に走った康介が七秒台を叩き出した。稜也と叶子は八秒台だった。稜也は平均より少し速い程度だが、康介と叶子に関しては十分、俊足と呼んで差し支えないタイムだ。負けてはいられない。
「用意、ドン!」
スターターを務める健児の号令で、佑珂は地面を蹴った。
踏みしめた足が地面の砂利を跳ね飛ばす。砂利のせいで摩擦力の下がった靴裏が、駆けるたびにわずかに滑って佑珂の足元をおぼつかなくさせる。無我夢中で空気に食らいつき、前だけを見て足を振り上げた。「頑張れ!」と叫んでいるのは叶子か、それとも同じく親友の新谷祥子か。冷静に声の主を判別する暇も余力もないまま、気づけばゴールラインを突破していた。
「十秒〇二」
ストップウォッチを持った駿が記録を読み上げる。
なんてことだ。実行委員の四人の中では断トツに遅い。肩を落としてみんなのもとへ戻ると、「お疲れ」と叶子がハイタッチしてきた。クラス女子四位の記録を出した子とハイタッチするのは気が引けたが、仕方なく佑珂は応じた。
「ごめんね。私、あんまり速くないや。ていうか遅いよね……」
「前から佑珂はあんなもんだったでしょ」
「そうだったっけ……。なんかもう、自信なくなっちゃいそう」
「個々人のスピードはそこまで重要じゃないから気にしないでいいよ」
朱美がとりなしの言葉をかけてくれた。「そうなんですか」と問うと、彼女は記録担当から受け取ったノートを開いた。
「30人31脚のためにクラスメートを選抜したわけじゃないし、速い子と遅い子がいるのは当たり前。それをみんなで補い合って走るのが30人31脚の醍醐味でもあるんだから。練習を続けていけばそのうち記録も勝手に伸びるよ」
経験者の言葉には嫌でも説得力がついて回る。少し勇気をもらった足で、佑珂は叶子の隣に立った。集まってきたクラスのみんなに、理紗先生が次の動きを指示している。まずは校庭をランニングで五周、続いて各自で五分間の縄跳び。全員がそこまで終えたのを待って、ふだん勉強机を並べている子とペアを組んで二人三脚だ。
まだ練習は始まったばかり。
こんな序盤でめげてはいられない。
「やるぞ」
細い足を佑珂は叱咤した。汚れのない体育着のTシャツに傾いた陽の光が差して、胸元の【6-1 福島】の文字を黒々と際立たせた。
「私は……嬉しいなって思うよ。二組の人たちも参加してくれたら心強いから」
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