06 驀進康介の頑張る理由【3】
電話口の向こうで健児は力強く『いいよ』と言い切った。
──『オレからも話をしとけばいいってことでしょ? 楽勝だよ。母ちゃん絶対そういうの好きだと思うもん』
「ほんと? マジ助かる!」
──『いいってことよ。オレと康介の仲だし』
康介にしてみても、いちばん仲のいい健児の母が経験者であってくれてよかったと思う。おかげでこういうときには話を通しやすい。受話器を置いて一息つき、やりかけの携帯ゲーム機を手に取りながら、あさってから動き出す本格的な練習のことを康介は思い浮かべた。今日は土曜日だ。健児の母が監督就任の依頼を請けてくれれば、いよいよ来週の月曜日からは放課後練が始まる。現状では三十二人だと歩行すらままならないので、まずは二人三脚で満足に走れるようになるべく、短距離走向けの練習メニューを実施するつもりだった。
あさってからは練習が日常になる。放課後練は自主参加の予定だが、だからといって実行委員の康介が気軽に休めるはずもない。なんたって康介はリーダーなのだ。こうして好き勝手にゲームを嗜みつつ、ぼんやり放課後の余暇を過ごしていられるのも、今のうちだけ。
楽しみだな、練習。
うずく心を抑えきれない。
校長たちは安全がどうのこうのとうるさいらしいが、そんなことをいったら運動会で実施する競技だってどれも危ない。徒競走にしろ綱引きにしろ騎馬戦にしろ、一歩間違えれば大怪我をすることに変わりはないのだから、30人31脚だけが危険視される謂れはない。きっとみんな、新しいことに挑戦するのが恐ろしいだけなのだと思う。そんなものを康介は恐れない。きっと走れるようになって、全国大会に出て、テレビカメラや有名タレントの前で五十メートルを堂々と駆け抜けてみせる。突き進む大波のような威容を、日本中の「普通の」連中に見せつけてやるのだ。
心が昂っているせいか、さっきからゲームがちっとも楽しくなかった。少し攻略を進めて、すぐに飽きて、それでも義務感でゴール地点を目指して敵を倒していると、背後でチャイムが鳴った。これ幸いと康介はゲーム機を投げ出して、インターホンに向かった。
「ただいまー」
帰ってきたのは姉のすみれだった。
「はー疲れた。康介、これ居間まで持ってって」
手渡された楽器ケースの重さに康介は顔をしかめた。高校二年生のすみれは、吹奏楽部でクラリネットとかいう真っ黒な楽器を吹いている。帰宅が遅くなるのもそのためだ。
「いっつもおれを荷物運びに使うなよ」
「あんたなんてその程度の役にしか立たないでしょ。はいこれ、通学カバンも」
「ふん。おれ、今度の月曜から夕方遅くにしか帰らなくなるもんね。姉ちゃんのカバン持ちなんて誰もやらなくなるよ」
「は? あんた塾にでも通うんだっけ」
玄関に座り込んで靴を脱ぎながら、すみれはカバンの山に埋もれそうな弟を見上げた。康介は不敵に笑ってみせた。重みのせいで型の崩れた笑みになった。
「クラスで30人31脚やることになったから、その練習」
「そういやそんなこと言ってたね」
ようやく靴を脱いで立ち上がったすみれに背中を押され、康介はカバンと楽器ケースを抱えて居間に出た。ソファにカバンを投げたらすみれがとんでもなく怖い顔をしたので、楽器ケースの方は投げずに傍らへ置いた。怖い顔のまま「それでよし」と言いながら、すみれは冷蔵庫の麦茶をコップに注いだ。
「毎日あんの? 練習」
「学校ある日は毎日やるよ。放課後練は自由参加だけど、実行委員やってるからできるだけ参加するつもり」
「へぇ。実行委員引き受けるなんてずいぶんやる気あんね」
「だろ」
やる気だけは遜色ない自負があったから、康介は胸を張った。誇り高き弟を眺めるすみれの目は、お世辞にも晴れやかとは言い難かった。
「ま、せいぜい頑張りなよ。組織運営って大変だぞ」
「組織運営って?」
「みんなをまとめるってこと。実行委員ってことはリーダーみたいなもんでしょ。あんたのクラスって何人だっけ」
「三十二人だけど」
「三十二人の足並みを揃えるのって多分、すごく難しいよ。あんたがどう思ってるかは分からないけどさ」
退屈げな目をしたまま、すみれはスマートフォンに指を走らせ始める。
せっかくやる気に満ち溢れているというのに、この姉には弟の挑戦を励ましてやろうという気概はないのか。雑にあしらわれたのが気に食わず、康介は食卓に置かれたすみれのコップを取って中身を飲み干した。すみれはふたたび「あ?」と怖い顔をした。
こんな姉のようにはなるまい。斜に構えたりしないでみんなと正面から向き合って、きっと30人31脚を成功させてみせる。稜也や佑珂や叶子と一緒に、実行委員としての務めを立派に果たしてやるのだ。テレビに映った弟を見て姉は何を思うだろう。さんざんバカにして使役してきた弟がいつの間にか大人になっていたことを知って、さぞ驚くことだろう。
「勝手に飲みやがって……」
すみれはまだ文句を垂れていた。麦茶のポットを収めて冷蔵庫の扉を閉めながら、彼女は手持ち無沙汰の弟を振り仰いだ。
「だいたいなんでまた実行委員なんか引き受けることにしたわけ。いままでそんなこと一度もなかったじゃん。学芸会だって端役ばっかりだったくせに」
「それはおれがジャンケン弱いだけだし……。だいたい学芸会と実行委員は関係ないだろ」
嫌なところを突かれた康介はうなった。「まぁ関係ないけどさ」と、涼しい顔ですみれは続けた。罵倒できれば何でもよかったらしい。
「康介らしくもないなって思っただけ。リーダーとか面倒くさいなって思ってそうだったから」
なんとなく返答に困って、康介は口をつぐんだ。「そんなことねーよ」と啖呵を切ろうと思えば切れたのだが、かといって姉の批判が的を射ていないわけでもなかった。
実際問題、実行委員なんて確かに面倒だ。圧倒的な賛成多数で30人31脚をやると決めたというのに、実際には実行委員の四人ですら足並みが揃っていない。叶子も、稜也も、佑珂も、みんな康介と違う考え方をしている。それを取りまとめるのなんか、はっきり言って面倒以外の何物でもない。それでも誰かがまとめ役をやらなければ、チームは前には進めないのだ。
去年、康介たちが五年生だった頃、まとめ役を買って出ていたのは担任の先生だった。小原咲子という高齢の先生で、みんな彼女のことが好きだった。それまでサラダボウルみたいに無秩序で、気の合わない子同士でケンカばかりしていた五年一組は、小原先生のもとで一つになった。どんな学校行事も平和に乗り越えたし、クラスの絆みたいなものも薄らに生まれていた。そして、それが小原先生というカリスマの見せてくれた幻影に過ぎなかったことを、先生がいなくなってから康介たちは思い知ったのだ。
去年の冬、風邪を引いたといって休み始めた小原先生は、そのまま唐突に退任した。ふたたびクラスはバラバラになった。卒業式の練習でも絶望的に息が合わなくて、その都度、よそのクラスの先生たちに叱られた。それでもみんなは互いに歩み寄ろうとしなかった。六年生になり、高橋理紗という新たな担任を迎えた今も、クラスの結束は失われたまま戻ってくる気配がない。誰もが自分のことばかり考えて、自分だけ楽しければいいと思っている。その閉塞的な、諦めにも似た風潮が、絶対悪であるわけじゃない。ただ、30人31脚への挑戦を成し遂げるうえで、その風潮がどうしようもなく邪魔であることは康介にも分かる。
「……きっと、おれだけじゃないんだよ。みんな面倒だって思ってる」
ソファの隅に転がっていたゲーム機を手に取りながら、ぽつり、康介は吐露した。ゴール地点まであと一歩の場所に踏みとどまったまま、ゲーム内のキャラクターはポーズ画面で静止していた。
「でも、このままじゃ楽しくねーから。楽しいことをやるために面倒くさい役目を誰かが引き受けなきゃいけないなら、おれが頑張ってやろうかなって思っただけだよ」
「…………」
「つってもまぁ、おれだってくじで選ばれただけなんだけど……」
すみれは激しく脱力した。「くじかよ」と苦笑した姉の眼差しは、心なしか、ちょっぴり優しくなっていた。
「その心意気は立派だと思うけどさ。実際問題、たくさんいる仲間の息を合わせるのって本当に大変だから」
「分かってるよ。けど、なんとかなるだろ」
「なんとかするのが実行委員の役目だからね」
でも、とすみれは一呼吸を置いた。
「きっと大変な目に遭うよ。嫌な思いだってたくさんすることになる。その覚悟だけは決めておいたらいいんじゃない」
アドバイスなんて姉ちゃんらしくもない、などと茶化す気分にはなれなかった。肩の力を抜いて「頑張るよ」と笑うと、すみれは康介の持つゲーム機に視線を移した。
「何やってんの、それ」
「ニュースーパーギャラクシーⅢ」
「私のセーブデータ消してないだろうな」
「こないだ友達とやったとき、邪魔だったから上書きしたけど」
「殺すぞ」
すっ飛んできたすみれがゲーム機を奪い取った。
「速い子と遅い子がいるのは当たり前。それをみんなで補い合って走るのが30人31脚の醍醐味でもあるんだから」
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