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60 直向佑珂と弱虫の決別【5】

 



 すとんと腑に落ちる感覚が響いて、佑珂は鳥肌の立った腕をさすった。このところ桜子の態度が軟化を見せていたのは、つまるところ、彼女のなかでみんなへの感情が嫌悪から好感へと転じたからだったのだ。志穂に謝ってチームへの復帰を促したのも、率先して夏海との練習に臨んでいるのも、そうした変化の表れだったわけだ。

 やっぱり一組のポテンシャルは侮れない。桜子のような反発分子さえも取り込んで、仲間にして、どんどん力をつけようとしている。


「……みんな、すごいよね」


 真似をするつもりで膝を抱えたら、「なにが?」と桜子が両膝の間から尋ね返してきた。


「だってそれって、土井さんに信頼されたってことでしょ。自分のことを裏切らないでくれる、味方でいてくれる存在だって感じられたから、土井さんはみんなのことを見直したんだよね。それってすごいことだなって思ったの」


 私ではなれないから。

 違う。()()()()()()から。

 声に出したら切なさに耐え切れなくなる気がして、佑珂は無理やり口をつぐんだ。桜子のことも見ていられなかった。だから、桜子が視界の外でどんな表情を浮かべていたのかは知らない。聞こえてきたのは、ガリガリと無節操に髪を掻きむしる音だけだった。


「いや、まぁ、それはそうなんだけどさ……」


 桜子は苦しげにうなった。


「それが言いたいわけじゃないんだよね」

「え、それはその、ごめんなさい……」

「みんなのことは別にどうでもいいんだよ。覚えてない? ……あの日、うちを大事な仲間って呼んでくれたの、福島(あんた)だったじゃん」


 狼狽した佑珂は「え」と問い直しの声を発するのがやっとだった。問い直したことで鎮まりを取り戻した脳が、懐かしい日の記憶をゆっくりと逆再生し始めた。──そうだ、思い出した。二度目の合同練習中、立ちすくんで弱音を吐いていた桜子を見つけた佑珂は、諦めてほしくない一心で励ましの言葉を叫んだのだった。たとえ桜子の足が(くじ)けても、みんなで力を合わせて引っ張ってみせる。そのために足を結んで走るのだ──と。


「正直、最初は何言ってんだコイツって思った。信じる気にならなかった。だけど福島は約束を反故にしなかった。足の遅いうちをリードして、ちゃんとゴールにまで連れて行ってくれた。有言実行してくれる子なんだってことを行動で示してくれた。そうだったでしょ?」


 膝から顔を上げた桜子は、うつむいた。膨らんだ頬に桜色が差してゆくのとは対照的に、大きな二つの瞳は静かな潤みを帯びて、悲しげに揺れていた。


「あんたがうちを救ってくれたんだよ。ついでにみんなを信頼する気になっただけで、恩義を忘れたことなんて一度もなかった。大事なおばあちゃんをなくして潰れかけてたうちを、あんたの言葉が支えてくれた。うちのことを仲間って呼んでくれて本当に嬉しかった。あのクラスがうちの居場所なんだってこと、あんたが教えてくれたんだよ」


 衝撃のあまり開いた口が、パクパク鳴るばかりで声を発しない。あんまり驚いたものだから、佑珂の意識はほとんど飛びかけていた。真っ白な頭の中へ桜子の畳み掛けが機械的に飛び込んでくる。「考えてみればさ」と桜子はためらいがちに続けた。


「お祖母ちゃんがもうすぐ死ぬってときも、あんたはうちのこと気遣ってくれたんだったよね。つらいこととか、苦しいこととか、誰にも話せないようなことがあるなら私が聞く──って言ってさ」

「覚えてて……くれたんだ」

「福島は前からそういう子だったよね。他人の言葉を真正面からバカ正直に受け取って、苦しんで、でも必死に食らいついてくる不器用な子。あのとき変な猜疑心に駆られて突っぱねたりしないで、素直に福島の前で苦しみを打ち明けてたら、うちも少しは楽になれたのかなって思う。葬式の夜、一晩中ひとりで泣き続けることもなかったのかな……って思う」


 桜子の目尻に光が宿ったのを佑珂は認めた。

 つうと伝い落ちる光をすくって、彼女は情けない笑みを浮かべた。


「口下手で上手く伝わんないけどさ。本当に救われたんだよ、うち」

「うん……」

「ありがとう、福島。そんで、いままでごめん。キツい言葉で傷つけたり、突き飛ばしたりしてきたこと、ぜんぶまとめて謝らせてよ。もっと早くに謝らなくちゃいけなかったんだけど、タイミングも見つけられなくて、勇気も出なくて……」


 沈鬱に歪んだ桜子の目に留まりたくて、佑珂は「ううん」と首を振り回した。謝ってほしいなんて思わなかった。過ぎたことだからと免罪したわけでもなかった。それよりも今は、少しでも多くの言葉で、桜子の心境を聞きたかった。桜子の目に映る佑珂のありようを聞き出したかった。


「私、ほんとに土井さんのことを支えられてたの。私でよかったの。励ます言葉なら他の子だってたくさんかけてたのに……」

「何度も言わせないでよ。いちばん支えてくれたのが福島だって思ってたから、こうやってわざわざ家まで伝えに来たんじゃん」

「どうしてそんなに私のこと……」

「元気、出してほしかったから。真面目な福島のことだから風邪で寝込んで塞いでるだろうと思ってたし、今度はうちが少しでも力になれたらいいなって思ったから……。そんな理由じゃダメだった?」

「ダメじゃないよ。すっごく、すっごく嬉しいよ。だけど実感が湧かないの。私、狛江(こっち)に来てからそんな風に大事にされたこと、一度もなかったから。いつも私だけ置いてけぼりで、心をかけてくれる人なんてほんとに少なくて……ずっと……さびしくてっ……」


 静かに叫びながら、あふれ出した涙を佑珂は拭った。意地悪な質問を重ねれば重ねるほど、桜子からの返答が真摯になってゆくのが、言葉選びからも鮮明に感じ取れていた。すすり泣く佑珂を桜子は「バカだな」と笑った。「バカじゃないもん」と佑珂は反論した。


「バカに決まってんじゃん。言っとくけど、有森も高橋先生も福島のこと死ぬほど心配してたからね。うちが使いに名乗りを挙げたら真っ青になってたくらい。うちも、福島も、きっと同じくらいのバカだよ。大事に想ってくれる人の存在に気づけないくらいのバカ」

「うんっ……」

「うちも少しは福島の力になりたい。一方的に助けられる関係なんて好きじゃない。福島に支えてもらった分だけ、今度は福島のことを支えたいって思ってる。わがままに思うだろうけど付き合ってよ。福島にはもっと気楽に、もっと楽しそうに笑っててほしいんだよ。何をしたら楽しいのか、嬉しいのか、もっと知りたいんだよ」


 答えるかわりに佑珂はしゃくり上げた。彼女の望み通りに笑っていたいのに、まるで表情の制御がきかなかった。

 生まれ育った島を離れ、都会の一員になって一年半。足のつかないプールを溺れながら泳ぎ渡るような日々のなかで、気づけば佑珂はいつもひとりだった。誰かに頼られたいとは願っても、頼りたいとは願わなかった。それは佑珂が自立心の強い子だからではない。頼り方が分からなくて、心を預ける勇気もなくて、これでもかというほど他人を警戒していたから。

 ものを知らない自分が関われば、みんなの迷惑になると思った。嫌な顔をされるのが恐ろしかった。一生懸命に「知る」努力を積み、みずから受け入れる姿勢を見せなければ、仲間として受け入れてもらえないと確信していた。それが臆病な佑珂の処世術であり、ありのままの生き方でもあった。そんなみすぼらしい佑珂のありのままを受け入れてくれる子など、どこにもいないはずだった。

 桜子が佑珂の煩悶をどこまで理解しているか、いまの時点では分からない。もしかすると桜子自身も分かっていないかもしれない。いずれにせよ、桜子は佑珂に向かって一歩を踏み出した。佑珂が他者を知ろうと励んだように、桜子もまた、佑珂という少女の為人(ひととなり)を知ろうと歩み寄ってくれたのだ。


「……あのさ」


 ようやく泣き止んだ佑珂に、おずおずと桜子は申し出た。


「お祖母ちゃんの話、他の子には秘密にしておいて。さっきも話したけど、うちの家庭、ちょっと複雑だから。クラスのみんなが理解してくれるとも思ってないし」

「なんで私には話してくれたの」

「さあね。そういう気分になっただけ」


 遠い目をした桜子は、抱え込んでいた膝をようやく解き放った。まだ乾ききらない膝の上から、涙の残り粒が転がり落ちてカーペットに消えた。


「誰にも話せなかったけど、誰かに聞いてほしかったんだと思う。そんで相手を選ぶときに、福島なら笑わないで聞いてくれるって考えたのかも。だから福島もうちの信頼、頼むから裏切らないでよ」

「裏切らないよ。ぜったい話さない。約束する」


 佑珂も膝を解いて正座した。いつだったか、桜子の前で同じように誓いを立てたことを、そのとき薄らに思い出した。桜子は「そんな改まらないでいいから」と苦笑して、立ち上がって、放り出されていたランドセルを拾った。


「うち、今は母親と一緒に住んでるんだ。これからは近所で会うことも増えるだろうから、仲良くしてよね。気が向いたらうちにも遊びに来てよ」

「受験勉強で忙しくなっちゃうんじゃない?」

「かもね。じゃ、勉強会でもいいや」


 風邪を治して万全の身体に戻れば、いまならどんな世界にも飛び込んでゆける気がする。目元に指を宛がい、邪魔な水滴を取り払った佑珂は、渾身の本心を込めて微笑んでみせた。それが何よりも桜子の望んでいる返答だと思った。

 多摩川のせせらぐ歌が聴こえる。

 山並みの向こうへ夕陽が沈んでゆく。

 ランドセルを背負って立つ桜子の影に、不意に、いつか佑珂の好きだった小原先生のまぼろしを見た。──ね、先生は佑珂ちゃんが自分らしくいてくれた方が好きって言ったでしょう? ──優しい日暮れ色の世界のどこかで、懐かしい声が笑いかけてきた気がした。






「私、頑張ってるよ」


▶▶▶次回 『61 直向佑珂と弱虫の決別【6】』

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