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59 直向佑珂と弱虫の決別【4】

 



 どうしよう。

 初めて学校の友達を家に上げてしまった。

 それも叶子や祥子ではなく、桜子。おそらく一組の誰よりも佑珂の存在を疎んじている少女だ。どうもてなしたらいいのか皆目見当がつかない。いや、そもそも歓待すること自体が間違っているのかもしれない──。

 ともかく適当に漁ったグラスを軽く洗い、麦茶を注いで、カーペットに座る桜子のもとへ持っていってみた。ぎこちない手つきの佑珂を見て「さんきゅ」と桜子は微笑んだ。


「別に余計な気なんか遣わなくてよかったのに」


 桜子のためではない。自分を守るために気を遣っているのだ。決して口にはできない本音を口の端へ追いやって、佑珂も不器用に苦笑した。なんでもいいから用件だけ済ませて穏便に帰ってほしかった。さっそく桜子はランドセルを開き、プリントの束を引っ張り出している。


「これ、宿題。あと十月分の学年だより。そんでこれは親に渡してって言われてる、30人31脚の東京大会の案内の紙」


 手渡された紙にはワープロソフトでびっしり説明が植えられている。開催期日、会場の位置、当日の集合時間と持ち物。半月後に迫った大会参加へ向けて、理紗先生が手作りで用意した資料なのだろう。よほど急いでいたみたいで、小学生でも分かるような誤植が二、三箇所ほど見当たる。

 灰色の吐息を佑珂は床へこぼした。持ち物の欄に【クラスTシャツ】の記載を見つけて、ただでさえ緊張でこわばる胸に一筋の痛みが走った。


「……クラスTシャツ、私も着られるんだっけ」


 あまり深く意味を考えないまま、つぶやいた。桜子は「なに言ってんの?」と尋ね返してきた。


「当たり前でしょ。全員で注文したじゃん」

「うん……そうだよね。なに言ってるんだろ、私」

「実行委員のやりすぎで疲れてんじゃないの」

「そ、そんなことないよ。ちっとも疲れてないし、無理だって……」

「見え透いた嘘つかないでいいってば。言っとくけどうちら全員、福島は無理のしすぎで疲れて倒れたんだって思ってるから」


 そうじゃない、と強気で抗弁することはできたかもしれないが、そうするだけの動機が佑珂にはなかった。実際問題、風邪を引いた理由なんて知らない。夜中にへそを出しながら寝ていたせいかもしれない。重要なのは理由じゃなくて、大事な時期に練習を休んでしまったという事実のほうだ。


「バカ真面目だもんね、うちの実行委員は全員。なんでもかんでも自分たちで解決しようとして抱え込んで、結果それで倒れたって誰も得しないのにさ。合同練習で走り切れなくてみんなに非難された時も、校長たちのせいで練習ができなくなりかけた時も……」


 ぐいとグラスを傾けた桜子が、喉を鳴らしながら麦茶を一気に飲み干す。ぷは、と弾けた息の爽やかさに気後れを覚えて、佑珂はちょっぴり苦しくなった。実行委員の気苦労も知らないくせして、桜子は今、どんな気分で風邪引きの佑珂を眺めているのだろう。底意地の悪い感慨が喉を上がってきて、ついうっかり、それを口走ってしまった。


「……ひとりで抱え込んで苦しい思いをしてたのは、土井さんも一緒じゃないの」


 桜子は呆気に取られたような面持ちで佑珂を見つめ返した。しまった、余計なことを──。青ざめた佑珂は誤魔化しのつもりで両手を振り回した。


「ま、待って、違うの、今のはそのっ……」

「いいよ、別に」


 伏し目がちに佑珂から視線をそらして、桜子は冷たい声で笑った。


「図星だし。福島も言う時は言うんじゃん、って思っただけ」

「う……」

福島(あんた)にだけは見られてるもんね。うちがひとりで何もかも抱え込もうとしてたところ」


 やはり自覚はあったのだ。申し訳ない気持ちがかさを増して、佑珂もうつむいた。受け取ったきり手元に放置していた学年だよりの片隅に、予定の書き込まれた十月分のカレンダーが載っているのを見つけた。

 明日は十月一日。夏海たちと連れ立って参加した駅前商店街の夏祭り『WAO』から、早くも一ヶ月半もの日々が過ぎ去ろうとしている。あのとき桜子は身近な人の死に直面し、ひとりで苦悶している最中だった。そうとは知らなかった佑珂は、二度も桜子の逆鱗に触れるような失態を犯し、突き飛ばされた。いまも当時のわだかまりが消えたとは思っていない。事の顛末さえ聞かされていない。だからこそ、桜子がこうして佑珂の家にまで上がり込み、気さくなふりをして話し込もうとしているのが理解できないのだ。


「今日、うち、30人31脚の練習サボった」


 桜子は悪事の戦果を誇るように口元を持ち上げた。


「ズル休みじゃないよ。理由はちゃんと話してるから無断でもないし」

「理由って、どんな?」

「四十九日の法要に参加してた。……そっか、四十九日ってなんだか分かんないか」

「亡くなった人をお見送りするやつ……だよね」


 うろ覚えの知見をひねり出しながら佑珂は応じた。死去から四十九日の経過した故人に対し、極楽浄土へ行けるように祈りを捧げる追善法要のことだと、どこかで聞いたことがあった。


「お祖母(ばあ)ちゃんの四十九日だったんだよ。学校から帰って着替えて寺に行って、法要に参加して、もういっぺん着替えてここに来た」


 桜子は両足を畳んで抱え、体育座りを作った。ショートパンツから覗く細長い太ももは、まるで血が通っていないみたいに白々と光っていた。お気に入りの格好をしているのはそういうわけだったのかと、佑珂はひそかな合点をもてあそんだ。


「うち、自分で言うのもなんだけど、すっごいお祖母ちゃんっ子でさ」

「仲良しだったってこと?」

「そんなレベルじゃないよ。親か友達の代わりみたいに(なつ)いてた。うち、母親しかいないんだけど、その母親もちょっと人に言いづらい夜の仕事しててさ。そんでうち、お祖母ちゃんの家に預けられて、長いこと一緒に暮らしてたんだ」

「……知らなかった」

「当然でしょ。明日乃たちだって知らないよ。親が水商売やってるなんて聞いたら、あの子たち絶対バカにして見下すだろうと思ったから、話してない」


 水商売、という言葉の意味を佑珂は深く知らない。それでも少しだけ、桜子の抱える出自のコンプレックスには想像が及んだ。島育ちで都会の事情に疎く、いつも無意識に一線を引きながら暮らしてきた自分と、桜子の立場はどこか似ているのかもしれない。暗い影を落とす桜子の横顔を見つめながらそんなことを思った。


「お祖母ちゃん、母親と折り合い悪くてさ。そのせいか分からないけど、うちのことが大好きだった。欲しいものは何でも買ってくれようとしたし、いつも細かいことで褒めてくれたし。お祖母ちゃん以上にうちのことを愛してくれる人なんていないと思ってたし、今でもそう思ってる。お祖母ちゃんがいなかったら、うち、とっくの昔に腐ってダメな子になってたと思う」


 桜子は膝に顔を埋めた。


「急性骨髄性白血病……っていうんだってさ。見つかったときには手遅れだった。それでも長いこと入院して闘い続けたけど、最期は声さえ出せなくなって、何を話しかけても目を開けたり閉じたりするばっかりで……。目の前が真っ暗になるってああいう感覚なんだって、うち、初めて知ったよ。ショックで何もできなくなって、どうせ最後には死んじゃうなら何をやっても無意味だよなって思えてきてさ。一時期は受験も、30人31脚も、本気で投げ出しちゃおうかって考えてた」

「……それで、何日も練習と塾、休んでたんだ」

「誰とも口を利きたくなかった。親も、友達も、みんないなくなっちゃえばいいのにって思ってた。だってそうじゃん? 病室で泣いてたの、うち一人だけだったんだよ。母親は相続がどうとかいって電卓叩いてるばっかり。何も知らない明日乃たちは耳障りな笑い声ではしゃぐばっかり。誰も彼もみんな自分勝手で、バカで、無責任でさ。お祖母ちゃんの代わりに死ねばいいのにって本気で祈ってたよ」


 佑珂を一瞥して、桜子は嘲り気味に笑った。なんとなく、誰のことを嘲っているのか分かっていたから、佑珂は口を挟まなかった。そんなに痛々しい顔で自分を(けな)さないでよ、と思った。


「……みんなからしたら、自分勝手で、バカで、無責任だったのは、うちのほうだったんだろうね」


 またも桜子は口元を埋めた。

 ゆるゆると黒艶を浮かべる二つの瞳だけが、佑珂を静かに見つめていた。


「市川さんを追い出したのも、うち。ケンカと文句ばっかりでチームの輪を乱したのも、うち。一組のみんなにしてみれば、むしろうちのほうがお荷物だったと思う。否定なんかしてくれないでいいよ。確信だってあるから」

「…………」

「でも、そんなお荷物を抱えたままでも、みんな五十メートル走り切っちゃった。うちを仲間に迎え入れてくれたし、嫌な顔だってしないでくれた。大事な仲間だなんて言って、自暴自棄になってたうちを励ましてくれた。情けない話だけど、うち、そのときになって初めて、みんなを突っぱね続けてきた自分のことを恥ずかしく思ったんだ。みんなはずっとうちに向き合う準備をしてくれてたのに、まともに向き合う努力をしないで、お祖母ちゃんの愛情に閉じこもって甘え続けてきたのは、うち自身のほうだったんだな……って」






「誰にも話せなかったけど、誰かに聞いてほしかったんだと思う」


▶▶▶次回 『60 直向佑珂と弱虫の決別【5】』

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