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58 直向佑珂と弱虫の決別【3】

 



 佑珂の誕生日は十月一日だ。

 何の記念日でもなく、はたまた祝日でもないが、きりのいい日付であるだけに覚えてもらいやすい。

 八丈島で暮らしていた頃は毎年、仲良しの友達に誕生日を祝ってもらえた。もちろん佑珂も同じように誕生日を祝い返していた。手作りのお菓子や手紙、折り紙なんかを互いに交換して、自室の宝箱の中へそっと隠しておいたことを思い出す。決して交友関係の広くなかった佑珂にも、あのころは対等な距離感で付き合える友達が幾人もいて、それが佑珂の生きる世界を温かに、穏やかに保全してくれていた気がする。

 伊豆諸島有数の人口を抱える拠点島とはいえ、しょせん八丈島は離島のひとつに過ぎない。市街地の広さもたかが知れている。その狭さに順応するかたちで(はぐく)まれてきた佑珂の心は、広大な本州の地を踏んだ途端、臆病に巻かれて委縮してしまった。生活習慣も常識も異なる街のなかへ放り出されて、自分だけが特異であることに何度も気づかされた。交通系ICカードの使い方も分からず、スマートフォンどころか携帯電話も持たされておらず、流行りのアニメや漫画やアイテムにも疎かった佑珂は、たちまちクラスメートたちに置いてゆかれた。苦心の末に手に入れた大事な友達──叶子や祥子でさえ、佑珂の特異な事情をそのまま斟酌してくれることはなかった。知らないアイドルの話をされ、持っていない文具の話をされ、食らいつくことさえできなくて惨めな思いを重ねるうちに、いつしか自己の情報を遮断する癖がついた。知らないものを知らないとは答えず、その場では相槌を打っておいて、あとで家に帰って徹底的に調べる習慣が生まれた。引っ越してしまった以上、この大都会をいつまでも拒んでいても始まらない。佑珂の都会生活は他者を「知る」ところから始まった。自分という人間のありようを周囲に知ってもらうことは二の次になった。

 去年、佑珂は誕生日を祝われていない。学校で「おめでとう」の一言をかけてくれたのは小原先生だけだった。誕生日が十月一日であることを誰にも話さなかったのだから当然だった。ついでに携帯電話も持っていなかったので、八丈島に残してきた友達が祝いの連絡をくれることもなかった。家族で囲んだ都会のバースデーケーキは味気なかったが、切ない心を押し隠して佑珂は喜んだふりをした。

 みんなに追いつかなきゃ。

 さもなければ、私のことなんて見てもらえない。

 この街の一員になりたい。みんなの仲間になりたい。だけど、そのためには私自身が先に、この街へ溶け込まなくちゃならない。みんなのことを知って、私がみんなを受け入れなくちゃならないんだ。

 ほろ苦いバースデーケーキは決意の味として、佑珂の舌に永久記録された。六年生に進級し、30人31脚を始めてからも、佑珂の生き様は何も変わっていない。不得意な運動にも率先して取り組み、苦手なクラスメートにも勇気を出して話しかけ、実行委員の肩書きを背負って仲間のために頑張り続けたのは、みずからの足でみんなへ歩み寄りたかったからに他ならない。

 話せる子の数は増えた。

 交友関係は着実に広がり、多少の社交性も身に付いた。

 だが、いまも佑珂は一組のみんなに、自分の誕生日を明かせないでいる。



 福島家は共働きだ。父の(まこと)は市立水道中に勤務する教師で、母の節香(せつか)は去年から近隣のスーパーマーケットでレジを打っている。八急ストア狛江水道道路店はこのところ人手不足が著しいらしく、娘が風邪で倒れていると話しても仕事を休めなかったと母はこぼした。


「ごめんね佑珂。ほんの四、五時間で帰ってくるから、ちょっとだけ留守番をお願い。何かあったらいつでも電話をくれていいからね」


 味気ない昼食を頬張る佑珂のことを心配そうに覗き込み、母は何度も「ごめんね」と畳み掛けた。母の裁量でどうにかなることではないと分かっていたから、佑珂も文句は言わなかった。正直なところ、変に気を遣われて優しくされるくらいなら、ひとりで放置される方が幾ばくも気楽だった。

 母の出ていった家は静かになった。福島家は一人っ子なので、佑珂が留守番を任されるのも今度が初めてではない。ひとりぼっちにも慣れている。まだ痛みの消えない頭をもたげ、佑珂は食器を洗って自室に閉じこもった。ベッドの上に座り、モンブランよろしく布団を身体に巻き付けてみる。ぐるぐる巻きの布団は防御力も安定感も抜群で、このまま永遠にベッドの上へ座っていられそうに思える。

 私が永遠にここでこうしていたら、一組のみんなは何を思うかな。

 布団の匂いを嗅ぎながら佑珂は思った。

 少なくとも30人31脚に限っては大変な事態になる。志穂と克久がランに加わらないサポートメンバーであるため、あと一人でも走員が欠ければ一組は大会に出られない。大好きな理紗先生やみんなを悲しませないためにも、佑珂は是が非でも風邪を治し、クラスに復帰()()()()()()()()()

 果たしてそれは、佑珂が実行委員だから?

 六年一組の一員だから?

 みんなの友達だから?

 分からない。どれを当てはめたってしっくりこない。だって、実行委員、六年一組、いつもの仲良しグループ、どれも佑珂を除いたところで問題なく成立するから。佑珂がいなくたって康介たちは立派に実行委員の役目を遂行するし、佑珂がいなくたって一組の結束は揺るがないし、佑珂がいなくたってみんなの笑顔は消えない。

 ──だったら私、なんのために30人31脚を頑張り始めたんだっけ。

 そうだ、理紗先生のためだ。

 私以上に一組に馴染めてなかった理紗先生のことが心配で、みんなに理紗先生を受け入れてもらいたくて、30人31脚に手を挙げたんだった。先生の笑顔をいつまでも見ていたかった。私のことは二の次でよかったんだ。これまでも、これからも。

 佑珂は布団の中で膝を抱えた。じわり、滲み出した無色透明の感情が身体を覆い尽くして、布団をまとっていても肌寒かった。今朝がた測ったときは平熱近くまで下がっていたのに、またも高熱がぶり返してきたらしい。そっと身を横たえ、布団の塊の底で息をひそめる。ナイフのような鋭い痛みが立て続けに胃を貫いて、佑珂は顔をしかめた。少しばかり泣き所を押しただけで、いまにも涙が出そうだった。

 本当は、ずっと分かっていた。

 誰かを「知る」努力を重ねたところで、「知ってもらう」ことがなければ誰にも好かれない。

 誰かの信頼を勝ち取りたいなら、こちらが積極的に心を開いて、弱みも見せて、信頼のハードルを下げていくしかない。いつか父に教わった真理を、とうとう今日まで佑珂は実践できないでいる。──いや、厳密には理紗先生の前で実践を試みた。けれども心の余裕を欠いていた理紗先生は、ちっぽけな佑珂を相手にしてくれなかった。しまいに理紗先生は佑珂個人ではなく、クラスみんなの前で心を開くことを選び、佑珂は理紗先生の特別な存在でいられる特権を失った。

 理紗先生のことだけを想うなら、それでよかったのだ。でも、佑珂はそんな聖人君子じゃない。本当は理紗先生への見直しを通じて、たとえ二の次でもいいから、一組のみんなに佑珂自身のことも見直してもらいたかった。実行委員への貢献を通じて自分の存在意義が高まれば、みんなは嫌でも佑珂に注目してくれるはずだと踏んだのだった。

 現実には、佑珂はこうしてひとりぼっちで布団に逃げ込んでいる。身を案じるクラスメートからの電話やメールが届くこともない。理紗先生は顔も見ないで帰ってしまった。今日もまた、何かしらの手段を使って宿題やプリントを届けに来るのだろう。母が出勤していることを連絡していたら、もしかするとインターホンさえ鳴らさず、郵便受けに必要物を投函して帰ってゆくかもしれない。

 佑珂の作戦は失敗に終わろうとしている。

 バカだな、私。理紗先生を身代わりに立ててみんなと仲良くなろうなんて、そんな遠回りなこと考えるから神様にそっぽを向かれたんだ。本当に仲良くなりたかったら、勇気を出して自分を見せるしかなかったのに。これが私だよ、仲良くなりたいよって、渾身の言葉で叫ぶしかなかったのにな──。

 あふれ出る悲嘆を一粒、一粒、人差し指ですくっていたら、疲れて眠りに落ちたらしい。ふっと意識がよみがえったときには、窓の外の街並みに夕刻が迫っていた。干しっぱなしの洗濯物の存在を思い出した佑珂は布団を剥ぎ、重たい身体を押してベランダに出た。乱暴に掴んだハンガーの束を抱え、リビングに戻ってきて折り畳もうとした矢先、インターホンがけたたましく鳴り響いた。


「お母さん?」


 つぶやいた佑珂はモニターに向かった。不鮮明な玄関の映像を目の当たりにするや否や、乾いた喉が音を立てて縮んだ。

 母ではない。

 土井桜子だった。


「……もしもし」


 おっかなびっくり佑珂は応答した。動揺のあまり電話口の挨拶を口走ってしまった。桜子は怪訝そうに眉をひそめ、「福島?」と尋ね返した。


 ──『土井だけど』

「う、うん。画面で見えてる……」

 ──『先生から宿題とかプリントとか持たされてるの。渡したいからさ、ちょっとドア開けてよ』


 どうしてよりにもよって理紗先生は桜子を使者に選んだのか。それこそ叶子とか、祥子とか、もっとマシな人選はいくらでも思い浮かぶのに。しぶしぶ佑珂は玄関に向かい、そっと解錠してドアを開けた。ブラウンのランドセルを背負った桜子の胸元が目に入った。顔を直視する勇気は佑珂にはなかった。


「元気そうじゃん」


 桜子の声は思いのほか恐ろしくなかった。

 どこか見覚えのある彼女の服装を、佑珂は見回した。肩出しのカットソーにカーディガンを重ねて羽織り、下はショートパンツとサンダルで固めている。それがいつか夏祭りの日に転んで汚してしまった、桜子のお気に入りのコーディネートだと思い当たるのに、長い時間はかからなかった。佑珂はいよいよ桜子の服装すら直視できなくなった。佑珂の運命をつかさどる神様は実に性悪だ。


「もう下がったの、熱」

「えと……朝の時点では三七・二度だった。いまは測ってないから分かんない」

「ま、そんだけしゃべれるなら大丈夫っぽいね。声もそこまで嗄れてないし、顔も赤くないし」

「……うん」

「なんでうちから目をそらしてんの?」

「たくさん迷惑かけたから、申し訳なくて。わざわざ宿題も届けてもらっちゃったし……」


 足元のアスファルトを見つめながら佑珂は嘘をついた。あながち嘘とも言い切れないギリギリの線をついたつもりではあった。


「うちが?」


 桜子はランドセルを下ろしながら失笑した。


「別に迷惑なんてかぶってないから。なんならうち、福島の家の目の前に住んでるし」

「あれ、そうだったっけ……」

「知らなくても無理ないかもね。住み始めたの、つい先週からだもん」


 先週、このあたりで引っ越し業者の姿を見た記憶はない。いよいよ混乱を極めた佑珂は、桜子の肩越しに道の向こうを見つめた。通学路の猪駒通りを挟んだ反対側には、『ハイツKISHIBE(キシベ)』と銘打たれた二階建てのアパートが鎮座している。白いタイルで美装されてはいるが、バルコニーの錆びた手すりを見る限り、かなり築年数の経っている物件だ。

 佑珂の視線を追った桜子が「そう、あれ」と笑った。


「そんなことより今、家族いんの? 暑いからちょっと中に入れてほしいんだけど」






「自分勝手で、バカで、無責任だったのは、うちのほうだったんだろうね」


▶▶▶次回 『59 直向佑珂と弱虫の決別【4】』

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