54 葛藤稜也と夢の両立【4】
塾にいるあいだ、克久の姿を見たくなかった。もっとも受講しているクラスが違うので、普通に過ごしていれば顔を合わせない。その日は自習室にも立ち寄らず、一目散に自転車置き場へ向かって夕暮れの家路を急いだ。
一斉模試の成績は前回よりいくらか向上していた。50~70%にまで改善した合格率の数値を見て、一足先に帰宅していた母は「よかった」と優しい吐息を漏らした。あれだけ30人31脚にかまけていた割には成績が落ちていなかったことに、稜也自身も深い安堵を覚えた。最悪、志望校の再考を促す合格判定Eを下される覚悟も決めていたところだった。
「前回よりも結果が悪かったら、怒った?」
問いかけると「まさか」と母は苦笑した。
「怒らないよ。怒ったら稜ちゃんの成績が上がるわけじゃないし、そんなことで成績が上がってもお母さんは嬉しくない。だって稜ちゃんのためにならないからね」
克久の母親に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。成績表を畳んでカバンに入れながら、いつぞやの神野家訪問時のやりとりを稜也は思い返した。稜也の母が放任型なら、克久の母は典型的な管理教育型のスタイルを採っている。あの母親と折り合いのつく子どもって、なんだかロボットみたいで嫌だ。けれども一昔前までの克久は、まさにその母親の過干渉に屈するロボットみたいな子どもだったわけだ。自分の意思より母親の意思を優先せざるを得ず、30人31脚への挑戦もなかば自発的に諦めてしまった。
「模試の結果も良かったところだし、今日は稜ちゃんの好きなカレーにしようか」
立ち上がった母が台所へ向かう。今度こそは手伝おうと思い立って手を洗いかけたが、母は今度も「休んでていいよ」といって稜也を追い出してしまった。
「母さんこそ休んでてよ。今日、また仕事終わりにタダ働きさせられてきたんでしょ」
「あのね稜ちゃん、青少対のことをタダ働きって言うのはやめなさい。町の人たちのために必要な仕事なんだよ。お金にならなくたって、誰かがやらなくちゃいけないの」
「そんなことは分かってるよ。なにも忙しい母さんがやることないだろ、ってだけで……」
「優しいね、稜ちゃんは」
ささやかな言葉で稜也を遮ったきり、母は無言で料理を始めてしまった。こういうときの母の頑固さは稜也が誰よりも心得ている。仕方なく、いつものようにテレビを点けて、ソファに腰かけた。どこかの有名棋士が激戦を制してタイトル保持に成功したと、情報バラエティ番組のキャスターが派手な身ぶり手ぶりで解説している。母は手を動かしながら「あら」と口元を緩めた。
今、この瞬間も、世界のどこかで誰かが運命に抗い、懸命な戦いを続けている。遠くの大陸では警察と衝突したデモ隊が死傷者を出し、隣国では大企業が国家機関に弾圧され、南方の国では軍事組織が政権を転覆させたと聞く。
たかがクラスTシャツ。
たかが中学受験。
たかが30人31脚。
稜也の身の回りに転がる懸案の数々を、そんなふうに軽薄な言葉で片付けるのは難しいことじゃない。なぜって、どれ一つとっても命の存亡には関わらないから。それこそ世界に目を向ければ、遥かに重い辛苦を背負って生きている子供たちが無数にいる。お遊びに興じていられるのは一部の先進国くらいのものだ──。そう示唆を与えようとしたのも、たしか克久の母親だった。
かつて、30人31脚を人生の寄り道とみなしていた稜也自身も、本質的にはそちら側の人間なのだろうか。
今だって気の迷いがないとは言えない。もしも一斉模試の結果が悪ければ、母が怒らずとも稜也自身が自分を許せなかったかもしれない。それ見たことか、やっぱり実行委員なんか引き受けるべきじゃなかったんだ、30人31脚なんかやらなければよかったんだ──。そう糾弾しないでいられる自信を、今の稜也はまだ、持てずにいる。
ちょっぴり自分が嫌になって、稜也はソファの上で膝を抱えた。居間の固定電話が唐突に鳴り出したが、膝を抱えていたおかげでとっさに取りに行けなかった。すぐさま、包丁を置いた母が「出るからいいよ」と台所を出てきた。
「はい、川内ですが……」
母は長話に興じるタイプではないが、ともかく料理を進めておこう。受話器を押し当てて話し込む母を尻目に、稜也は忍び足で台所へ向かい、皮をむいただけのニンジンやジャガイモを一口大に切った。頑固な母を出し抜いて家事を手伝うのは気分がいい。調子に乗ったついでにタマネギの皮もむいて切り、フライパンに油を引いて豚肉を炒めてやった。ニンジンの乗った俎板をフライパンに向かって傾けたところで、母が一瞬、稜也を見た。
しまった、勝手に進めすぎたか。
焦った稜也がニンジンを放り込むのと同時に、母は口角を上げ、やおらに電話機の下部にあるボタンを押した。
──『そうなんですよ。まさか本当にA判定なんか取ってくると思わなかったから……』
くぐもった声が台所にまで届いてきた。稜也は鳥肌が立つのを覚えた。電話越しに聞くのは初めてだが、今のは間違いなく、克久の母親の声だった。居間の電話は母の手でスピーカーフォンモードに切り替えられていた。
「すごいじゃないですか。閏井中のA判定なんて、そんな一朝一夕の努力で取れるものじゃないでしょうし。日頃の努力が実ったんですね」
母が相槌を打つ。その親しげな口ぶりにも驚かされたが、何よりも稜也の耳は「A判定」の三文字に強い反応を示した。一瞬、それが何のことか分からなかった。二人の話しぶりを素直に解釈するなら、克久は今度の一斉模試で、本当に目標の合格判定を勝ち取ったことになる。
嘘だろ、と声が漏れかけた。都内トップクラスの難易度を誇る中学の入試を突破するほどの成績を、あの克久が本当に出したのか。本人には失礼だが、にわかには信じがたい。
──『普段の私なら素直に喜べたんですよ。だけど今回は、あの子が事前に余計な交渉を持ち出してきたりしたから……。もう本当にどうしようかなと思って』
「約束されたんでしょう?」
──『約束しましたとも! どうせ達成できないだろうと高をくくっていた私が悪いのは重々承知しているんです。だからこうして相談させていただいているんじゃないですかっ』
相変わらず高飛車な克久母の突っかかりを、母は些細な含み笑いでいなしてしまった。『笑い事じゃないんですよ!』と向こうが叫んだ。
──『おたくの稜也くんが同じことを言い出したらどう思われるんですか。次のテストで満点を取るのを条件にして、向こう一か月間、好き勝手に遊び回りたいとか無茶を言い出したりしたら……!』
「あら、そんな約束だったんですか?」
──『違います! 茶化さないでください。今日の会合前にもお話ししたじゃないですか、うちの息子が30人31脚に戻りたがっているって……』
稜也はフライパンの火を止め、抜き足差し足で母の背後へ近寄った。見ると、固定電話の画面には【青少対地区委員長 神野さん】の名前がある。神野家の番号を登録している電話帳の表記だろう。克久の母が青少対のメンバーであることを、たったいま稜也は初めて知った。道理で母とも面識があるわけだ。
「たとえどんな中身であっても、交わした約束は守るのが良識ある大人の行動だと私は思いますよ」
母は静かに微笑した。
「克久くんは今回、神野さんとの約束をしっかり履行してみせたじゃないですか。自分で目標を立てて努力することのできる子だと、目に見える成績をもって証明したわけでしょう? それでもまだ、克久くんのことを信じられないですか」
──『信じる信じないの問題じゃないんです、うちの息子には立派になってもらわないと困るんですっ。余計なお遊びに興じてる暇なんて!』
「神野さんの期待は克久くんも理解していると思いますよ。子どもって意外と親のことをよく見てるんです。親が何を欲していて、何を望んでいるか、敏感に察知して行動したりする。うちの息子にもそういう一面があります」
──『それはおたくの稜也くんが聡明なだけで……』
「私から見れば克久くんも聡明な子ですよ。神野さん自身がそれをお認めになるか、ならないかの違いがあるだけではないですか?」
克久の母親は口を閉ざしてしまった。受話器を握ったままの母が、はたと嘆息して稜也を見上げる。巻き込んでごめんね──。無言の陳謝に稜也は首を振って応じた。単なる理性と感情のぶつかり合いに成り果てているとはいえ、この長電話が克久の参加の是非を左右する大事な話し合いの場であることは、稜也も理解していた。
──『……私は、息子のことを疑いすぎているんでしょうか』
弱い声がスピーカーからこぼれて散らばった。
──『UNDPで仕事をしていると世界中の見聞が入ってきます。よその国に行けば、克久くらいの年齢の子は精神的にも自立していて、権利主張もはっきりしていて、基本的な論理的思考も身に付いている子ばかりです。うちの子を見ていると不安になるんです。もっと広い世界へ出て、広い視点で大きな仕事をやってのけるような子に育ってほしいのに、今のあの子はクラスがどうとか、模試がどうとか、生きている世界も視野もあまりに狭すぎて……』
国連開発計画。途上国の開発を手助けする国際連合の補助機関だと、社会のテキストで読んだことがある。克久の母が国連系の機関に勤務していることは以前から知っていたが、改めて聞くと立派な肩書きだ。それこそ子どもの稜也にはまだ、世界の広さも、国境の先に広がる異文化も、視界の彼方にかすむばかりで想像が及ばない。
母が「ふふっ」と笑った。
「子どものうちは誰だってそうでしょう。神野さんはそうではなかったですか?」
──『そんなの……覚えていないですけど』
「近視眼的でいいんだと思いますよ、子どもなんて。狭い世界にいるあいだに子どもは精一杯、人との関わり方や頑張り方を覚えるんです。取り返しのつく範囲で色んな失敗をして、成功体験も積んで、空を飛ぶ力が身に付いたら広い世界へ出てゆくんです。親は、その成長過程をなるべく邪魔しないで、ときどき曲がりそうになったら軌道修正してあげる程度の存在でいればいいって、私は思いますよ。心配しなくたって子どもはいつか大人になります。自分の信ずる方向に向かって、まっすぐ伸びていってくれます」
──『信じてるんですね、稜也くんのこと』
「親ですから」
何でもないことのように母は応じた。
立ち尽くす稜也の脳裏に、母との日々がよみがえってきた。受験勉強真っ盛りの六年生にもかかわらず、30人31脚への参加を決め、必死に塾と練習の両立を模索する稜也を、母は一度も糾弾したことがない。合格判定の下がった成績表を渡され、受験失敗の可能性をちらつかされ、内心では何度も不安や葛藤に襲われただろうが、それでも徹底して不干渉の立場を貫き続けてきた。ただ放任されてたんじゃない。俺、信頼してもらえてたんだ──。深い納得が降って湧いた途端、稜也は急に泣きたくなった。
あなたを信頼している。
たったそれだけの言葉を聞きたいがために今日まで悩み続けてきたのだと、ようやく気づいたのだった。
中学受験と30人31脚の両立が困難であることなど、誰の目にも明らかな事実でしかない。もちろん稜也だって分かっていた。分かっていてもどちらもやめられなかった。片一方を切り捨てることなんて考えられなくなった。父のような弁護士になる夢も、一組の仲間たちとともに五十メートルを駆け抜けることへの憧れも、もはや稜也の中ではどちらも嘘や偽物じゃない。稜也に必要なのは二者択一ではなくて、両立に向けて頑張ることを認めてくれる誰かの言葉、ひいては稜也自身への信頼の証だった。あなたはあなたの思うままに頑張っていいんだよと、背中を押してほしかったのだ。
克久の母親を見ていれば分かる。当たり前のことみたいだけれど、それって当たり前じゃない。信じてもらえることは幸せ者の証なのだ。
やにわに目頭が熱くなって、稜也は台所へ逃げた。コンロの火を点け直してニンジンを炒め、ジャガイモやタマネギを放り込み、隠し味用のトマト缶を開封して流し込んだ。この感慨を言葉にして伝えるのは難しいから、せめて母の作るカレーより少しでも美味しくしてやろうと思った。もっとも、味付け自体は母のやり方を真似ているだけだが。
母は電話口で優しい顔を崩さなかった。
「やりたいことをやらせてあげましょうよ。子どもが子どもでいられる時間って、ほんのあっという間に過ぎていってしまう。息子が立派な人物になるのは確かに嬉しいですけど、私はそれよりも息子がのびのびと、年相応の幸せを感じながら生きていってくれることの方が嬉しいですよ」
──『……どうやったら、私もそんな風に考えられるようになるかしら』
「私にも分からないな。一緒に悩んでみましょうよ。神野さんが信頼を置いてくれるのを、克久くんもきっと待っていると思いますよ」
途中から電話を意図的にスピーカーフォンモードへ切り替え、神野家との一連のやり取りを聴かせてくれた母が、果たして稜也の内心をどこまで見抜いていたかは定かではない。稜也は何も悟らなかったふりをして、つたない料理を黙々と続けた。いつの間にか電話口の会話は克久の話題を離れ、最近の青少対活動への不満や愚痴の共有に変わっていった。大人しい口ぶりで日々の苦労を打ち明け、静かな笑い声で共感する母の姿は、まるで往時の父と食卓で話し込んでいた頃みたいに、どことなく生き生きとして見えた。
「強くなれ、って伝えたかったんだよな」
▶▶▶次回 『55 葛藤稜也と夢の両立【5】』




