52 葛藤稜也と夢の両立【2】
南五日市小学校の起こした転倒事故問題は、担任教師の指導力不足が浮き彫りになる形で収束を迎えようとしていた。彼らは練習に当たって厳しい目標タイムを設定しており、担任は目標達成のためには暴力もいとわない前時代的な根性論で子どもたちを鍛え上げようとしていたらしい。30人31脚が悪いのではなく、このような指導法を採った教師自身に問題がある──。調査が進むにつれ、かたくなだった世論も軟化を見せ始めた。大会を運営する全日本テレビも公式の声明を発し、参加チームに安全最優先の指導を徹底させていることを改めて強調した。そういえば、ずいぶん前にみんなで視聴した大会公式のルール説明ビデオでも、事故対策の方法が詳細に紹介されていた。
副校長の菅井先生は宣言通り、頑固な校長たちを説き伏せて30人31脚の練習再開を認めさせてしまった。どんな文句で説得したのか稜也たちは知らない。ただ、校長室へ呼び出された理紗先生と北島先生に言わせれば、同席する菅井先生を鈴木校長は何度も歯噛みしながら睨んでいたようだ。弱みを握られているみたいだったと理紗先生は証言してくれた。餅は餅屋、大人同士の駆け引きは大人に任せるのが一番らしい。
改めて監督の朱美や晴美を迎え、一組は練習を再開した。九月半ばに差し掛かって残暑の余波も引き始め、夕方の校庭は練習向きの気候になりつつあった。それでも全力疾走を繰り返していれば汗だくになる。練習を終えて普段着に着替えても、こびりついた汗の生々しさは簡単には払い落とせない。練習後のミーティングへ臨みながら叶子や佑珂が体育着で汗を拭うたび、稜也は目のやり場に困って視線を落とした。どうかクラスTシャツのサイズは大きいものであってほしいと思った。
家に立ち寄って専用バッグを背負い、自転車に乗って隣町の塾を目指す間も、クラスTシャツの件が頭を離れなかった。相変わらずデザイン案は浮かんでこない。未由の言うように気ままにペンを動かしてみても、粗雑な輪郭が浮かび上がるばかりで絵にならない。あんまり悩んでいたものだから、稜也にしては珍しく授業中に落書きをしてしまった。テキストを覗き込んできた講師に「なんの絵だい?」と尋ねられ、大慌てで消しゴムを取って掃き散らかした。
実行委員たるもの、クラスメートに範を示す存在でなければならない。これまでだって勉強の傍ら、練習で手を抜いたことは一度もなかった。しかし今度ばかりは手抜きを免れない。いかんせん、絵心のなさは一朝一夕の努力では補えないのだ。
「全員が提出する必要なんかないだろって、あした武井に申し入れてみるか……」
机に突っ伏した稜也は、鉛筆を転がしながらぼやいた。
静まり返った自習室にスライドドアの開閉音が響く。稜也は姿勢を起こして、転がしたばかりの鉛筆を捕まえた。また一人、教材を抱えた塾生が自習室へ入ってきたのが、視界の端に小さく映る。周囲が懸命に試験勉強へ励んでいるのに、自分ひとりだけ落書きにかまけている醜態をさらすわけにはいかない。並べていただけのノートを無意味に広げ、勉強しているふりを装ったら、視界の端の塾生はまっすぐに稜也へ近寄ってきた。
「ここにいたんだ」
克久の声だった。
稜也は脱力した。「お前かよ」と嘆息して克久を見上げると、彼は隣席の椅子を引きながら「何やってたの」と問うた。
「その……見りゃ分かるだろ。日本史の勉強」
「Tシャツのデザイン考えてるのかと思った」
「な、なんの話だよ」
「僕も悩んでるから。川内も一緒かなって思って」
ずいぶんあっけらかんとした口調で克久は言った。
その言葉が克久自身の心をどれだけ傷つけているか、稜也には想像もつかない。母親の態度を見ていれば、克久が当日の会場入りさえ許されそうにないのは明白だ。クラスTシャツを着る機会のない克久がデザイン案を練るという状況のグロテスクさに、稜也は思わず顔をそむけ、話題を切り替えた。
「次の日曜日、三回目の一斉模試だろ。勉強は大丈夫なのかよ」
克久の眉が引き締まった。「それなんだけど」と克久は身を乗り出してきた。
「教えてほしいことがあって」
「勉強?」
「うん。算数と理科、あと国語」
「なに言ってんだ、国語って得意教科じゃんか」
「得意だけど川内の点には及ばないし」
克久の言う通り、前回の模試では稜也の成績は全教科で克久を上回った。しかし克久の得意な科目に限っては、ほとんど差と言えないほどの微々たる点差があるのみだった。
「僕さ。次の一斉模試、A判定を狙うから」
こともなげに克久は言い放った。
「A判定ってお前、合格率70%を超えるって意味だけど……」
「分かってるよ。第一志望の閏井中で取ってみせる」
思いがけない宣言を受けた稜也は面食らった。克久の目指す私立閏井中学校は、東京都内──否、日本全国で見ても指折りの秀才を集めるエリート校だ。稜也の志望校である都立立国ですら、閏井中と比べたら格が落ちる。克久の目指す合格判定Aは、稜也の成績を圧倒的に凌駕するほどの高得点を稼がなければ達成できない代物だ。長らく中学受験の世界に身を置いてきた克久が、その目標の遠大さを自覚していないとは思えない。
「どうしちゃったんだよ。前はA判定なんて狙ってなかっただろ。せいぜいC判定でもいいから、本番のテストで滑り込めればいいって……」
うろたえ気味に問いかけたが、克久の瞳の色は揺らがなかった。その目が稜也ではなく、稜也の執った授業ノートにばかり注がれていることに、視線を追った稜也は気づいた。
「今度のテストは負けられないんだ」
克久は低い声で応答した。
「本気で向き合わなきゃ相手にしてもらえないんだってこと、こないだの市川さんの一件で学んだ。だから本気で勉強する。死ぬ気で頑張って食らいついて、誰も取れないような点数を取って、僕の本気っぷりを親に見せつけてやる」
理不尽な形で30人31脚から遠ざけられたことへの怒りが、学習意欲に代わって噴出しているのか。これまで見たこともなかった克久の激しい闘志を、稜也はそう解釈するより他になかった。今も時折、克久には30人31脚の相談に乗ってもらっている。練習の方針決めやメンバー交代に当たって、これまで何度も克久の考えを聞かせてもらった。その中途半端な関わらせ方が、かえって克久の中で不完全燃焼を招き続けてきたのかもしれない。
「……俺のノートでいいなら、見ていいよ」
ちょっぴり滲んだ罪悪感を栞よろしく挟んで、稜也はノートを閉じた。
「ありがとう。助かるよ」
「気にすんなよ。あと、どこが分からないのか具体的に示してくれたら、答え方とかも教えられるかも」
「川内ってさ、前より親切になったよね」
さりげない克久の褒め言葉が耳に引っかかった。「別に」と聞き流したふりをして、稜也は克久の机にノートを置いた。決して動揺を覚えたからじゃない。今日の克久には調子を狂わされてばかりだ、と思った。
今年度三回目の『全国一斉小学生模試』は、岩戸小の六年生からも多数の受験者が出た。稜也の教室には明日乃が居合わせていた。クラスメートにもかかわらず、前回の受験時には顔見知りとすら呼べない関係だった彼女が、今回はみずから試験前に稜也のところへ話しかけに来た。
「へぇ。都立立国志望だったんだ」
受験票を覗き込んだ明日乃は意外そうに声を上げた。聞けば、親友の桜子も同じく都立立国を目指しているらしい。文化祭で桜子や明日乃の顔を見たことがあったのを、なんだか遠い昔のように稜也は思い出した。
「田中はどこ志望なんだ」
「あたしは都立城南中。あそこの制服めっちゃ可愛いからさ、ずっと前から憧れてたんだよねぇ」
「制服で志望校を選ぶのかよ」
「いいでしょ別に。それがあたしの中学受験のモチベなんだよ。川内だってそれなりの理由があって頑張ってんでしょ。でなきゃ中学受験なんてやってられるかっての」
「……そりゃ、それなりの理由はあるけど」
「ま、志望校が一緒じゃなくてよかったよ。ライバルじゃないなら気持ちも楽になるし。テスト頑張ろーね」
好き放題にしゃべったきり、意気揚々と明日乃は席を離れていった。相変わらず明日乃と波長を合わせるのは難しい。受験票を机の隅へ戻しながら稜也は嘆息した。言われなくたって頑張ってやる。だから、お前も頑張れよな。深呼吸で澄んだ胸の奥に、素直な祈りがしんと沁み込んだ。
肝心のテストは苦戦した。前回と比べてずいぶん難化しているように感じられた。配布された模範解答集を見る気にもならず、試験が終わるや否や、そそくさと稜也は会場を退出した。克久が隣の教室で受験していたはずだが、今日ばかりは戦友の彼とも顔を合わせられなかった。どれほど気合いを入れて臨んでいたのかをなまじ知っているばかりに、克久の表情や様子から結果を読み取りたくなかった。
この問題の答えはこれだとか、あの問題はあの法則を使って解くんだとか、そこらじゅうで見知らぬ受験生たちが答え合わせをしている。くたびれてよれたノートや教科書を読み返し、さっそく復習に挑んでいる子の姿もある。自習室で落書きに興じていた自分のことを稜也はちょっぴり後ろめたく思った。誰もがみんな、それぞれのやり方で、本気で未来に向き合っている。ほかの何かと両立しながら中途半端に取り組んで成功するほど、本来、中学受験は生易しいものじゃない。そうと分かっていながら30人31脚の実行委員との両立を選んだのは、稜也自身だ。
怯むな、俺。
今さら後戻りはできないんだ。
転がるように塾のビルを出て、駅前の夕空を見上げながら心を奮い立たせた。
「普通に説得したって無理だと思った。だから、条件を飲んでもらうことにしたんだ」
▶▶▶次回 『53 葛藤稜也と夢の両立【3】』




