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51 葛藤稜也と夢の両立【1】

 



「クラスTシャツ作ろうぜ!」


 と、最初に言い出したのが誰だったのかは覚えていない。

 初めて全員ランで五十メートルを走破した直後、実行委員は公約通りに参戦の是非を話し合う場を設けた。走破の感動に酔っていたみんなは満場一致で参戦を決め、話の流れで理紗先生が持っていた過去大会の映像を見ることになった。たぶん、その時だ。お揃いのクラスTシャツを着て疾走する子どもたちの姿を前に、誰からともなく真似をしようと思い立ったのは。もっとも直後にどこかの小学校が転倒事故を起こしてくれたおかげで、クラスTシャツどころの話ではなくなってしまったのだけれど。

 ──ぼんやり記憶をたどりながら、稜也は首を伸ばして黒板を見やった。そこには下手くそな康介の文字で【クラスTシャツ会議】と大書されている。仕切り役を務めているのも康介だ。手にしたチョークでこれまた下手くそなTシャツの絵を描き散らかしながら、康介はみんなを振り返った。


「オリジナルTシャツを作ってくれる会社のホームページを見たんだけど、デザインを入れられる場所は腹、背中、肩の三か所あるんだって。この三か所に何を描き入れるかを、これからおれたちで話し合って決めることになります」

「文字でも絵でも写真でも反映できるらしいから、つまりなんでもありってことね」


 もうひとりの進行役は叶子が務めている。すぐさま「集合写真にしようぜ」とか「先生の顔写真でいいでしょ」とか、みんなの間から散発的にアイデアが飛び出した。集合写真はともかく、理紗先生の個人写真を貼るのは遺影みたいで嫌だと稜也は思った。当の理紗先生も教卓の隅で渋い顔をしている。


「せっかく三十二人もいるんだし、全員にアイデアを出してもらって、いいとこ取りや投票でデザイン案を決めたいなって思うんだよな。なのでみんなに今から、デザイン提出用の紙を渡していきます」

「好きなように描き込むなり写真を貼るなりして、後日うちらに提出してください。期限は適当です。──てなわけで市川さん、よろしくね」

「うん」


 叶子に促された志穂が立ち上がって、みんなの間を回りながら純白のコピー用紙を配り始めた。小柄な身体がぴょこぴょこ歩き回るのを稜也はぼんやり眺めていた。せっせと雑用に励む志穂の面持ちは実に晴れやかだった。裏方仕事でもいいからみんなと関わっていたい──という彼女の叫びは本心を映していたのだなと、今さらながらに稜也は実感した。

 同じ心の叫びを胸に秘めたクラスメートを、稜也はもうひとり知っている。

 横目で克久を盗み見た。淡白な顔色の克久は、すぐにクラスメートたちの人垣に埋もれて見えなくなった。

 いつかの志穂と同じように、克久も二学期開始以来、30人31脚の練習には姿を現していなかった。けれども理由は志穂と違って単純だ。夏休み終了と同時に受講コマ数を増やされ、放課後すぐに塾へ急行しなければならなくなったからだ。もちろん本人が望んだのではなく、あのおっかない母親が望んだことだった。

 あいつ、どんな気持ちで紙を受け取ったんだろう。

 デザイン案なんて思い浮かぶのかな。

 物思いにふけりながら白紙を受け取り、机に置いた。とりあえず筆箱から鉛筆を出し、紙に突き立ててみたものの、ぐりぐりと黒い点が濃くなるばかりで稜也の手はちっとも動かなかった。日頃から落書きもしないし、ろくに絵やデザインを手掛けた経験もないのだから無理もなかった。自他ともに認めるほど稜也には画力がない。ヒトを描こうとしても良くて棒人間、悪ければ異形の怪物になる。


「ふふふーん、ふーん」


 隣席の福士(ふくし)未由(みゆ)が鼻唄を奏でている。見れば、彼女の細長い指はスイスイと鉛筆を紙の上で滑らせ、早くも絵らしきものの外観を完成させつつあった。美しい手さばきに稜也が目を見張っていると、未由はこちらを振り向いた。


「描かないの?」

「そんなすぐには思いつかないし」

「さささーって手を動かしてみたらいいんだよ」

「感覚だけで手を動かしたって絵にならないよ。福士は絵なんか描き慣れてるだろうけどさ……」

「そうかなー」


 未由は目をしばたいた。

 六年一組の女子は三つの派閥を形成している。そのうちの一つ、漫画や絵を描くのが好きなオタク気質のグループに属する未由は、普段から授業中もノートに落書きばかりしている女の子だ。しまいには解き終えた答案にまで落書きをして提出するので、よく先生に口頭注意を受けている。それでも未由はお絵描きをやめない。それが自らのライフワークだと言わんばかりに、バランスの整った絵を量産する。絵の上手さにランクを与えるなら未由は一組トップ、いや学年全体でもトップクラスだと稜也は思う。

 トップクラスなのは上手さだけじゃない。彼女はいつだって誰よりも楽しげに、嬉しそうに、尖らせた鉛筆を握り込んでいる。ただし絵の中身がやたらイケメン男子に偏っているのは気にかかるが。


「……やっぱり無理だ」


 いくら未由の真似を試みても手が動かず、稜也は鉛筆を投げ出した。


「なんにも思いつかないの?」

「思いつかないよ。だいたい気も進まない。自分の下手くそな絵をTシャツに印刷して、それをみんなで着て走るなんて想像もしたくない」


 苦い息をこぼしたら、またも未由は「そうかなー」と目をしばたいた。


「私だったらとっても嬉しいのにな。だって自分の絵がクラスの顔になるわけでしょ」

「絵の上手い人にしか分かんない感覚だろ、そんなの」

「私だってそんなに上手くないよ」


 謙遜もここまでくれば嫌味だと稜也は思った。


「上手い上手くないの問題じゃないっていうか……。そもそもオリジナルのクラスTシャツを着て走ること自体、あんまり気乗りしないんだ」


 投げ出した鉛筆をいじりながら、勇気を出して正直な心境を吐露してみた。すかさず未由は「なんで?」と首を傾げた。なんで、と直球で問われると答えに窮する。とりあえず「恥ずかしいから」と答えてみた。

 本当は、恥ずかしさだけが理由じゃない。オリジナルTシャツは制作単価も相応に高い。お揃いのTシャツを着る意義は稜也も少なからず理解しているが、それだったら単色のTシャツでも十分じゃないかと思う。たかがTシャツごときのために、貧しい家計に負担をかけたくない。ただでさえやりくりに苦心している母のことを困らせたくないのだ。けれどもとうとう誰にも言い出せないまま、こうしてオリジナルデザインのクラスTシャツを作る流れになってしまった。


「だったら私が恥ずかしくないデザインを提案したらいいんだよね」


 未由は鼻息を荒くした。そういう問題でもないのだが、稜也は何も言えなかった。

 彼女の手の中ではすでにイラストが完成を迎えつつある。色鉛筆のケースを開け、緑色の一本を取り出した未由は、慎重な手つきで画面に色を塗り始めた。シャッシャッと耳心地のいい音が流れ出す。素早く色鉛筆を走らせながら、歌うように未由は独り言ちた。


「誰だって、何だって、一生懸命頑張って成し遂げたものが恥ずかしいわけないよ。恥ずかしいって嘲笑(わら)う人の方がおかしいんだよ。30人31脚だってそうだと思う。たまには転んで格好悪い姿を見せちゃうけど、誰もそれを見てバカにしたりしないもんね」

「…………」

「一緒に頑張った仲間なんだってことを一目で証明してくれるから、どこの学校もクラスTシャツを着て走るんじゃないかなって思うんだ。だったら絶対、恥ずかしくなんてないよ。むしろ誇らしいくらいだよ。もちろんデザインがダメだったら話にならないけど、そんなの私たちの頑張り次第でしょ?」


 長い睫毛の下で見え隠れする未由の瞳は、隅々まで輝かしい自信に満ちて見えた。真っ当な理屈で言いくるめられた稜也は口をつぐむしかなかった。

 クラスTシャツを恥ずかしがるというのはつまり、みんなとの団結や協調を恥ずかしく思うことと同義なのかもしれない。仲間であることを恥じないなら、共通の格好を恥じる必要もない。そして、様々な困難を乗り越えた今の六年一組は恥じるに値するようなクラスじゃない──。その透き通った大きな瞳で、未由は楽観的ながらも筋の通った未来を見ている。


「せっかくだから格好いいデザイン考えよう。私の絵が一組(みんな)の頑張った証になればいいな」


 色鉛筆を滑らせながら未由はなおも独り言ちる。真摯な横顔に思わず見とれかけた稜也は、慌てて手元の白紙に目を落とした。慎重さのあまり何事も否定から入りたがる自分の習性を、未由の前で初めて少しだけ、恥ずかしく思った。


「……きっと採用されるよ。福士の絵、上手いし」


 小声で褒めたら、未由は「そうかなー」と小指で頬を掻いた。






「今度のテストは負けられないんだ」


▶▶▶次回 『52 葛藤稜也と夢の両立【2】』

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