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50 辛口叶子と居場所の作り方【6】

 



 その日、両親の帰りは遅かった。午後九時を回る頃になって玄関から解錠の音が響き、ソファに腰かけていた叶子の身体をこわばらせた。「やっと帰ってきた」と口を尖らせた妹の千秋が、愛読書の夏目漱石全集を投げ出して玄関へ向かった。


「遅いよ」

「すまんな千秋。お詫びにほら、イトヨーカの高原(たかはら)フルーツでデザート買ってきたからな。千秋の好きなアップルパイだ」

「ちょうどセール中だったのよ。持っていって、冷蔵庫で冷やしておいて。あとで切って食べましょう」


 両親の勤務する仁愛医大病院の隣接地には、狛江市内のどんなスーパーよりも巨大なショッピングセンター、イトヨーカ国領(こくりょう)店が鎮座している。帰宅が遅くなる日には、両親は大抵このショッピングセンターに寄り道をして、夕食とともにデザートを調達する。それも決まってケーキやタルト、パイのように、切り分ける手間のかかる豪勢なものばかりだ。店員が顔を覚えていたら、さぞかし金のある家族だと蔑んでいるだろうにな──と叶子は思う。なんとなく同類の扱いを受けるのが嫌で、いつもいちばん小さな一切れをわざわざ選んで頬張っていた。美味しいと思ったこともあまりなかった。

 意気揚々とパイの箱を持った千秋の先導で、両親が居間に入ってくる。叶子はソファから立ち上がった。後ろ手に握りしめた紙切れが三枚、くしゃりと音を立てた。


「お帰り」

「帰ってたのね」


 こともなげに母が言う。特に言い返す言葉も思いつかず、無言で紙切れをポケットへ突っ込み、母の手からビニール袋をひったくった。中身はタイムセールのシールの貼られた総菜のパックだ。戸棚から皿を出してきてパックを開け、中身を盛り付けてゆく。冷え切った総菜はどれも萎びている。普段ならそのまま家族に食わせるところだが、今日はラップをかけ、電子レンジに押し込んだ。「あら」と母が声を上げた。


「温めてくれるんだ」

「……うん」


 叶子はうなずいた。

 皮肉や反論が思いつかなかったわけじゃない。ただ、言い返す気分にならなかった。長女の様子が普段と違うことに勘付いたのか、母も、父も、食器や箸を用意する叶子の姿を黙って見守っている。そうだよ、そのままずっとうちを見ててよ。可愛い千秋にばっかり構ってないでさ──。尻ポケットに突っ込んだままの紙切れの感触を確かめながら、叶子は唇を結んだ。

 諦めることは、身を守ること。

 居場所を守ること。

 もろい心を守ること。

 そう思い込んで実践することが、これまでの叶子の処世術だった。

 誰かの理解を得たければ、この醜い心を晒さなければならない。そのせいで信頼や愛情を失っては元も子もない。今ある居場所を保全し、敵から身を守るために、叶子は心を閉ざしてきた。クラスメートの前でも、先生の前でも、家族の前でも。

 恐らくは志穂も叶子の類例だったはずだ。けれども今日、彼女は一足先にクラスメートの前で本音をぶちまけた。一組の窮地を救うことで信頼の基礎を築いていた志穂は、みずからの心のカタチを晒し、みんなと向き合うことで、練習補助という名の新たな居場所を手に入れた。

 本音を隠して付き合う仲間に、ありのままを認め合えない居場所に、建前以上の価値は生まれない。誰かの隣で安寧を得たいなら、ガキだとか幼稚だとかいって周囲を遠ざけずに、ひねくれを取り除いた目で向き合うしかないのだ。

 それもこれもすべては、志穂の小さな背中が教えてくれたこと。

 上着を脱いだ両親が食卓の前へ座り、各人のコップへ麦茶を注ぐ。温め終えた総菜の皿を持っていって食卓に並べ、取り皿の配置を済ませると、叶子も食卓についた。全員が揃ったのを確認した千秋が「いただきます」と手を合わせかけたので、遮るように叶子は「待って」と叫んだ。


「話があるの」


 両親が眉をひそめながら箸を戻した。空いた彼らの手の中に、叶子は尻ポケットに隠していた紙切れを一枚ずつ押し込んだ。目をしばたかせた千秋が尋ねた。


「これ、お姉ちゃんたちがやってるやつ?」


 紙切れの正体は、30人31脚東京大会の優先観覧券。今日の練習終わりに、理紗先生の手でクラス全員に配布されたものだった。30人31脚の地方予選会はテレビ番組の非公開ロケという形で開催されるため、観覧には事前申し込みなどの煩雑な手続きが必要になる。そこで大会側は参加児童一人あたり三枚の優先観覧券を用意し、事前に各校へ送り届けてくれたのだ。


「何これ。千秋、これが何か知ってるの」


 母の目がきゅっと細まる。うなずいた千秋が叶子の顔を覗き込んだ。叶子は深呼吸をして、事前の脳内リハーサル通りに言葉を組み立てた。


「うちらのクラスでこの大会に出るの。今年の五月から練習を始めて、いまも毎日、昼休みと放課後に練習を続けてる。ついでにうちは実行委員もやってる」

「へぇ。30人31脚ね……」

「むかしテレビでやっていた気がするな」

「今度の大会もテレビ局が主催してる。もしも東京大会を突破できれば、全国大会ではテレビに映ることになるって。そんな先のことはまだ分からないけど」


 両親の視線は観覧券を真剣に吟味している。興味を失われる前に押し切るべく、叶子は声を張り上げた。


「もしも予定が空いてるなら、東京大会、見に来てほしい。うちらが──ううん、()()()今、学校で何をしてて、何と闘って、何を頑張ってるのか、その目でちゃんと見てほしい。くだらないって思ったら、その時は何を言ってくれたっていい。うちなりの言葉でちゃんと向き合うから」

「…………」

「言いたいことは分かってるよ。うちがダメで怠惰な娘だってこと、これまでだってさんざん聞かされてきたから身に染みてる。今、この場でうちが何をしてみせたって、ダメの烙印を拭えるとは思わない。千秋にちゃんと姉として見てもらえるとも思わない。そんな図々しいことは願わないから、せめて少しでも、さわりだけでも、うちが一生懸命に頑張ってる姿を見てほしいなって……。それだけなんだよ」


 理解を得たいなら言葉で説得するのじゃなく、自分たちのやっていることを誠実に見せるべき。城西学院の子たちから受けた示唆は、つい先日、志穂の手で立証された。叶子が追随しない手はなかった。登校中の叶子が必死にクラスメートと闘い、教師と闘い、理不尽な運命と闘っていることを、目の前の両親は知らない。叶子とて、そのすべてを知ってほしいとは思わない。ただ、成果を見せつけてやりたいのだ。孤軍奮闘の結果として勝ち取った、三十人の足を結んで五十メートルの距離を疾走する能力の開花を。

 その結果として両親が叶子にダメの烙印を押すのなら、大人しく叶子も受け入れてやる。あとは言葉を尽くして闘うだけだ。いつか、この家を居場所にできる日まで。


「……なるほどな」


 先に観覧券を置いたのは父だった。手癖なのか、衰えの目立つ手のひらで丁寧に紙のしわを伸ばしながら、父は母の様子を伺った。何かしらの合意が二人のあいだに飛んだのを叶子は察知した。


「叶子」

「……うん」

「思うんだがな。父さんたちと叶子は、どうやら互いに少しばかり思い違いをしていたらしい」

「思い違い?」

「ああ」


 父は口元を緩めた。叶子の前で父が笑ったのは、数ヶ月、いや数年単位で久方ぶりのことだった。


「常日頃から叶子には勉強しろ勉強しろと説教してきたが、別に勉強でなくとも構わなかったんだ。父さんたちは何でもいいから、叶子に何かへ打ち込んでほしかった。せっかくの大事な子ども時代を無為に過ごしてほしくなかった。目標が見つからないならせめて勉強をと思っていたんだが、この観覧券を見る限り、どうやらその必要はなかったみたいだな」

「勉強が叶子の未来に役立つのは事実よ。でも、勉強だけが叶子の未来を創るわけじゃない。むしろ、ひとつの目標に向かって必死にもがいた経験を持つ人の方が、ずっとずっと強い大人になれる。あなたはそういうことのできる子だと信じていたし、信じていたかったから、つい厳しく色々と口を出してしまったの」

「誤解って、そういうこと……」

「あなたの名前の由来は前に話したでしょ?」


 一生懸命に努力を積み上げれば、夢は必ず叶う。叶えた夢の数だけ幸せにあふれ、輝かしい思い出と仲間を両手いっぱいに抱えながら生きてゆく、そんな子に育ってほしい──。遥か昔に聞かされた命名の真相を、叶子はぼうと思い出した。


「夢が叶うことが大事じゃないの。叶える力を持つことの方が何倍も大事なのよ。叶える力っていうのはつまり、努力する力のことね。あなたにいまさら言っても釈迦に説法かもしれないけど」

「じゃ、じゃあ」

「しかと見させてもらうわ。どんなに仕事が立て込んでも休みを取って必ず行く。当たり前よ。娘の晴れ姿を見たがらない親なんているはずないでしょう?」


 母はもう、叶子から視線をそらさなかった。真摯な眼差しが叶子の全身をマイクロ波のように温めてゆく。ダメ押しとばかりに千秋が身を乗り出してきた。


「かっこいいとこ見せてね、お姉ちゃん」


 緩みかけた目尻を叶子は小指で拭った。

 踏み出した一歩は無駄にならなかった。勇気を振り絞って手渡した優先観覧券は、ぶつけた本音は、家族の手の中でゴミにならなかった。それだけのことが今、単純に嬉しい。あれほど狭く、暗く、息苦しかったリビングのそこかしこに、温もりが弾けて居場所を広げてゆく。


「約束したからね」


 震える声で念を押したら、「もちろんだとも」と父が応じてくれた。まだ湯気の立っている総菜をつまみながら、母は何度も質問をぶつけてきた。30人31脚とは何なのか、危険じゃないのか、練習では何をやっているのか──。それらひとつひとつに答えるたび、隠し事だらけだった心の殻にひびが入って少しずつ砕けてゆくのを、叶子は確かに実感していた。

 たとえ泣いて帰っても、夢への道が霞んでも、応援してくれる人がここにいる。

 負けないよ、市川さん。

 うちだって居場所を手に入れてみせたんだ。

 涙を拭って、笑って、明日からも頑張ろう。自分が役目を全うすることで、みんなが走ってくれる限り。みんなが笑ってくれる限り。みんなの夢を叶えられる限り。

 棘まみれの言葉の消え失せた食卓の片隅で、確かな誓いに叶子の胸はあたたまった。






「私の絵が一組(みんな)の頑張った証になればいいな」


▶▶▶次回 『51 葛藤稜也と夢の両立【1】』

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