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49 辛口叶子と居場所の作り方【5】

 



 ゴールラインには朱美が待ち構えている。もはや遠く感じなくなった五十メートル先の目標を、叶子は落ち着いた眼で捉えた。号令の「ドン」とともにゴールは叶子たちを目掛けて駆け出し始めた。一歩、一歩、全身全霊で掛け声を発するたび、おぼつかない未来の輪郭が鮮明になる。揃えた足に違和感を覚えることも、引っ張られる感覚に釣られて体勢を崩すこともなく、そのままゴールラインを踏み越えてマットへ飛び込んだ。


「十一秒〇四」


 裏返りかけの声で朱美がタイムを読み上げる。

 前回の記録は十一秒三八だったはずだ。呆気なく突き付けられた晴れやかな現実に追いつけないでいたら、足紐を剥がした佑珂たちが「やったやった!」と飛びついてきた。


「また記録更新しちゃったよ!」

「ヤバいって!」

「やっぱうちら素質あるんじゃん!」


 半笑いで叶子は応じた。せっかく起き上がりかけていたところを押し倒されながら、菅井先生の姿を探した。記録更新よりも気がかりなのは菅井先生の反応だった。折しも、菅井先生は頑丈に組んでいた腕をほどき、倒れ込んだ一組のもとへ歩いてこようとしている。自然と身体が緊迫を取り戻して、慌ただしく叶子は立ち上がった。


「びっくりしちゃった! みんな、すっごく安定して走れるようになってるね」


 駆け寄ってきた理紗先生の面持ちも晴れやかとは言い難かった。息を整え切らないみんなの前に立ち、理紗先生はぎこちなく微笑んだ。


「タイムもきっちり更新してみせたしね。……これなら多少、全員ランのできない期間が続いたとしても、本番までに実力を上げていけそうだね」

「校長のこと、やっぱりすぐには説得できない?」

「分からないや。でも精一杯にやってみる。みんなが本気で頑張ってることは、私も北島先生もちゃんと理解してるから……」


 問いかけた夏海がしゅんと小さくなった。たとえ走れる足を手に入れたところで、現実はどこまでも一組に優しくない。静かな落胆の重みに釣られて足元へ視線を落としかけたとき、ようやくやってきた菅井先生がおもむろに口を挟んだ。


「その必要には及びませんよ」


 理紗先生も、問いかけを発した夏海も、「え」と驚愕を漏らしながら菅井先生を振り向いた。汗だくの一組を見回す菅井先生の口元には、いつの間にやら、もとの副校長らしい柔和な余裕が覗いていた。


「君たちの様子を一通り見せてもらいました。恥ずかしながら私はテレビのバラエティには疎くてね、30人31脚というスポーツ自体、今度の見学で初めて目の当たりにしたんだが……。なるほど、たしかに危ない競技には違いないようだね。なかなか危なげなく走っていたが、正直、これは転んだらおおごとになると思った」


 理紗先生の口がきゅっと縮まる。みずから作った穏やかならぬ空気を切り捨てるように、菅井先生は「だが」と目を細めた。


「そのぶん君たちは準備運動も怠らず、練習中も気を抜かずに取り組んでいた。転倒の事故を一〇〇パーセント確実に防げるとは思わないけれども、そもそも身体を使う以上、事故の起こらないスポーツなどこの世には存在しないと私は思っている。これだけ結束や練習管理がきちんとしていれば、もしものことがあっても適切な対応ができるでしょう。そう期待させてくれるだけの姿勢を、君たちは私に見せてくれた」

「副校長先生……」

「私はもともと六年生の30人31脚への挑戦には賛成でも反対でもなかった。担任を務めていない以上、過度にクラス運営に首を突っ込むべきではないと思っていたからね。裏を返せば、君たちが30人31脚にどれほどの熱意をもって取り組んでいたのかも、どのような努力を積んできたのかも、無関心ゆえに何ひとつ知ろうとしてこなかった。それは校長先生をはじめとする多くの先生方も同様でしょう。たったそれだけの無関心のために、せっかく君たちの()いた芽を摘んでしまうのはあまりにも惜しいことだ」


 ちら、と副校長は理紗先生を伺い見た。丸い眼鏡の奥で、いたずらっぽく目が輝いた。


「明日からも練習は続けてください、先生。他の先生方に委縮して練習を自粛しておられるのなら、彼らの説得は私が引き受けよう。このことは北島先生にもお伝えしておきますよ」


 理紗先生の表情の変化は()()にも等しかった。ありがとうございます、ありがとうございますと、みんなの目もはばからずに理紗先生は菅井先生の手を何度も握り返した。もっとも一組の大半は理紗先生のことなど見てもいなかった。救世主の手で(ひら)けた望外の未来を分かち合うことに、みんなは夢中だった。


「信じらんない!」

「副校長グッジョブすぎるよ!」

「これでもう本番なんか怖くなくなったねっ」

「いくらなんでも強気が過ぎるでしょ」


 ガッツポーズを決める夏海や彩音や夕那に苦笑しつつ、ほっと叶子も温かな吐息をこぼした。副校長を練習に呼んだのは大正解だったし、城西学院のくれたアドバイスを実行に移したのも大正解だった。今度も一組は土壇場で幸運に恵まれたのだ。

 喜びの勢いそのままに夕那や彩音が尋ねてきた。


「ねー、副校長を呼んできたのって誰だったっけ? 叶子?」

「よくそんな妙案思いついたねって感じじゃん」


 つばの飛沫に顔をしかめながら「うちじゃない」と叶子は唸った。


「そこにいるでしょ。市川さんが……」


 呼びかけようとした視線の先に志穂はいなかった。

 いない、どこにもいない。今しがたまで菅井先生の横にいたのに、いつの間に校庭を立ち去ったのか。泡を食ってみんなの輪を抜けた叶子は、そこでようやく、校舎の渡り廊下の暗闇に消えようとしている志穂の背中を見つけた。「ちょっと!」と声を張り上げたら志穂は肩を跳ね上げて立ち止まり、丸い背中でこちらを振り返った。


「待ってよ。なんで先に帰ろうとしてんの」


 ダッシュで志穂のもとへ向かい、息も絶え絶えに問いただした。志穂はくしゃみをしたみたいに顔を歪めて「だって」とうめいた。


「私の役目、もう終わったから」

「役目?」

「副校長先生にみんなの様子を見てもらって、練習やるのを認めてもらうこと」

「それが終わったら帰っちゃうわけ?」

「帰るよ。練習の邪魔になりたくないもん」

「邪魔なんて……」


 上げかけた反論の声が空中に霧散して、叶子は立ち尽くした。これだけの成果を挙げてくれたのに、志穂はなおも自分を卑下して血を流そうとする。まるで自分の価値は貶められて当たり前、居場所がないのも当たり前と思っているみたいに。


「わたしがいたらみんなも気が散っちゃうと思うし……。だから、ね」


 言い訳じみた台詞を置いて志穂は後ずさりした。

 そんなこと、絶対ない。そもそも誰も邪魔だなんて言ってない──。声にならない思いを持て余す叶子の身体を、夏海の声が貫通した。


「戻っておいでよ」


 志穂が「ひっ」と息を漏らした。驚愕したのは叶子も同じだった。いつの間にやら叶子の背後には、夏海を筆頭にして一組のメンバーが勢揃いしている。


「みんな、もう市川さんにひどいことなんて言わないよ。本番まで一ヶ月もあるし、今なら一緒に五十メートル走り切れる。市川さんのこと置いてけぼりになんてしない。──そうでしょ、土井」


 胸を張った夏海が桜子を振り向く。桜子はバツが悪そうに後頭部を掻いた。


「市川さんがこんなに行動力あるなんて思ってなかった。正直、見直しちゃった」


 有言実行は簡単なことじゃない。それでも志穂はみんなの前で事態の打開を宣言し、こうして練習再開の道筋をつけてみせた。チームを危機から救った志穂の勇姿を、今度ばかりは桜子も認めたのだ。


「ごめん、市川さん。うちらがいろいろ言ったから走れなくなったんだよね」


 言葉少なに桜子がこうべを垂れるのを、志穂は茫然と見つめていた。やがて、彼女は小さく首を振って、「ううん」と唇を結んだ。夕陽と同じ金色の水玉が、放物線を描きながら地面に振り落とされていった。


「土井さんが悪いわけじゃないの。走らないって決めたのはわたし自身なの。走るのが怖くて、転ぶのが怖くて、みんなに怒られるのはもっと怖かった。だけどそれってぜんぶ、自分のせいだから」

「どうしても戻ってきてくれない?」

「走ることが怖いのは今も同じなの。チームに復帰しても、きっとまたたくさん転んで、みんなに迷惑かけちゃうと思うし……」

「迷惑なんかお互いに掛け合うもんでしょ。そんなもん気にしないでいいんだよ」


 業を煮やしたように夏海が嘆息する。


「市川さんの本当の気持ちを聞かせてよ。怖いとか何とか、そういうのって本心を邪魔するためにある感情じゃん。本物の市川さんはどうしたいの」


 志穂は言葉に詰まった。

 細い二本の足が震えを帯びた。

 本心をさらけ出すには相応の勇気が必要だ。人前で本心を明かすことのない叶子だからこそ、その難しさに理解が及んだ。このまま黙り込んでしまうかと思った矢先、志穂が拳を握り固めた。かすれた声で「わたしっ」と志穂は叫んだ。


「ほんとは30人31脚やめたくないっ……。走れなくてもいいから、せめて裏方仕事でもいいから、みんなと関わっていたい……。一緒に会場まで行って、ちょっとでもみんなの役に立って、それでっ……。だけどそんなの卑怯だって、一生懸命頑張ってるみんなに失礼だって思ったから……」


 二重の意味で襲い掛かった驚きのあとには、深い納得の香りが残された。つらくなって、目を閉じて、その香りを全身で嗅いだ叶子の口元には、得も言われぬ切なさがいっぱいに広がった。自己否定に走りがちというだけにとどまらない、志穂という少女を構成する価値観の全貌を、今、ようやく目の当たりにしたと思った。

 志穂はすがすがしいほど生真面目なのだ。みんなと一緒に走って成果を残したい。思い出を残したい。けれども自分が走れば迷惑になるから、せめてサポートメンバーとしてチームの端にとどまっていたい。だが、走力として貢献することのできないサポートメンバーとしての自分を、みんなはきっと受け入れてくれない。必死に走って汗を流すみんなを尻目に、ひとりだけ傍観者の立場に甘んじるなんて卑怯だ──。生真面目であるがゆえに自身の不参加を許せなかった志穂は、みんなに拒まれるのではなく、みずからの意思でチームから遠ざかり、迷惑をかけまいと息を殺してきたのだった。


「裏方が卑怯だなんて誰も言ってねぇけどなぁ」

「むしろありがたいよね、マネージャー。チーム運営にぜったい必要だよ」


 明宏や貴明の何気ない言葉に、志穂は分かりやすく狼狽した。目をそらして「そんなこと……」と口ごもる彼女の横へ、さりげなく歩み寄ってきた朱美がそっと並んだ。


「志穂ちゃんがサポートに加わってくれるんなら大歓迎、ってことだけは教えておくよ。タイムを図ったり記録をまとめたり、練習道具の管理をしたり、わたしらけっこう大忙しでね。それこそ猫の手だって借りたいくらいなんだから」

「わ、わたしでも、役に立てるんですか」

「もちろん。というか現に今、みんなの役に立ってみせたじゃない。志穂ちゃんが頑張り屋さんで、真面目で、誰よりも仲間思いだからこそできたことだと、わたしは思ってるよ」


 朱美を見つめ返す志穂の目尻に、大粒の涙が盛り上がった。それはきっと、自分では決して認められなかった自分自身のこれまでの働きを、努力を、痛みを、朱美やクラスメートの口で肯定されたことへの感動の涙に違いなかった。もはや声にもならない声で「そんな……」と口ごもりながら、志穂は叶子たちを見渡した。みんなの口元に浮かぶ表情を伺っていれば、賛同の意思を確かめるのは難しいことではなかった。


「……わたし」


 震える声で志穂は申し出た。


「みんなのチームに戻っても、いいんだね」


 どうしても誰かの言葉で承認を得たかったらしい。叶子は口を開きかけたが、佑珂や夏海やその他の子たちに先鞭をつけられてしまった。


「当たり前だろ」

「戻ってきてくれてありがとうって感じだよ」

「これで放課後も一緒にいられるねっ」

「おかえり、市川さん!」

「待ってたよ!」

「一緒に会場まで行こうぜ!」


 みんなは惜しげもなく歓迎の言葉を捧げている。他意のない、透明な優しさにあふれた世界の真ん中で、志穂はすっかり顔をおおってしまった。気弱で小柄な薄幸の少女がひとりで受け取るにしては、夢を叶えた喜びはあまりにも大きすぎたみたいだ。叶子は深呼吸をひとつ済ませて、心の交通整理を済ませて、みずからの出番を奪っていった佑珂のことをちょっぴり恨んだ。ひとつやふたつの些細な恨みになど構っていられないほど、胸の中は温かな感慨と、安堵と、それからほんのわずかな疎外感で埋め尽くされていた。






「娘の晴れ姿を見たがらない親なんているはずないでしょう?」


▶▶▶次回 『50 辛口叶子と居場所の作り方【6】』

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