48 辛口叶子と居場所の作り方【4】
本当に先生たちを説得に行くのかと再三尋ねたが、志穂はそのたびに大袈裟なほど首を振って肯定した。どうにも不安を拭いきれず、やっぱり叶子も同行することにした。決行のタイミングは昼休みと決まった。不安で浮き足立ち、真面目に授業と向き合う心境にもなれなかったが、算数の少人数授業で現れた北島先生が覇気も乏しく嘆息を繰り返すのを目の当たりにして、いやが上にも覚悟が決まった。今回のことは一組だけが当事者じゃない。二組だって巻き添えを食った一員なのだ。
給食を片付けるや否や、二人で一階の職員室フロアを目指した。勇んで廊下を歩く志穂の肩は、傍目にもそれと分かるほど凝り固まっていた。そのまま志穂が校長室の前を素通りしたので、慌てて「ちょっと」と声をかけた。
「通り過ぎてるってば」
「通り過ぎてないよ」
「校長を説得するんじゃないの」
「ううん。校長先生に直談判したって、きっと相手にしてもらえない。だから……」
志穂は職員室の扉を引き開けた。給食時が終わっていないせいか、多くの教師が出払ったままで、広い職員室には静寂が漂っている。目に留まる人影といえば担任を持たない数人の先生、事務員、そして奥のデスクで資料を読んでいる副校長の菅井先生くらいのものだった。
その菅井先生のもとへ、志穂は一目散に歩いて向かった。
「副校長先生」
呼びかける声は小刻みに揺れていた。顔を上げた菅井先生が、叶子たちをじろりと見て、ゆるく口元を綻ばせた。
「君たちか。六年一組の」
「あの、その、お願いごとがあるんですっ」
汗を跳ね散らす勢いで志穂は詰め寄った。
「わたしたちのクラスでやってる30人31脚の練習、副校長先生に見てもらいたいんです!」
叶子は呆気に取られかけた。
それから志穂の意図を数秒遅れで察知した。
なるほど、考えたものだ。この学校の教師陣の中で、六年一組の生き様にもっとも理解を寄せてくれる先生がいるとすれば、それは二度にわたって臨時担任を務めた菅井先生をおいて他にはいない。副校長という大きな権力基盤を持つ菅井先生を味方につければ、他の先生たちを説得するうえでも有利になる。そのうえで、あえて志穂はじかに説得するのではなく『自分たちのやってることを誠実に見せる』ことで、菅井先生を篭絡しようと思い立ったのだ。
果たして、菅井先生はうろたえ気味に眼鏡を取り「唐突じゃないか」と目を細めた。
「どうしたんだね、藪から棒に。たしか高橋先生が練習をいったん取りやめるとおっしゃっていたが……」
「た、高橋先生は校長先生たちの目が怖いんです。でも副校長先生がいてくれたら、きっと心強くなって練習できるようになると思いますっ」
「待ちなさい。それじゃまるで、私も高橋先生みたくコーチをやるみたいじゃないか。申し訳ないが私にはスポーツの監督が務まるような才覚は……」
「副校長先生は見てるだけでいいんです!」
職員室じゅうの注目を小さな背中に集めながら、志穂は必死の大声で畳み掛け続ける。
「わたしたちのやってきたことを少しでも知ってほしいんです。なんにも見ないでわたしたちの未来を決めないでほしいんです。みんな、すっごくすっごく頑張って、力を合わせて走ってます。わたしなんかじゃちっとも役に立てないくらい……」
くっ、と彼女の喉が小さく鳴るのを、息を詰まらせながら叶子は聴いた。またも志穂の口から自己否定の言葉がまろび出たことに、得も言われぬ無力感を抱かずにはいられなかった。どんなに勇敢な態度で副校長の説得を試みようとも、性根の部分は以前の志穂と何も変わっていない。この数か月間を志穂にとって意味のあるものにできなかったのは、きっと、半分くらいは叶子のせいなのだ。
「うーん……」
腕組みをして机にもたれかかり、菅井先生は静かにうなった。
「君たちはどこまで知っているのかね。先生方のあいだで議論されている内容を」
「だ、だいたい。高橋先生が話してくれたから」
「それは高橋先生もあまりよくないね。大人の議論に子どもを巻き込んではいかん。物事の良し悪しを判断するための指針も、背負っている立場や責任も、君たちと我々ではまるで違う。同じ土俵に立つべきじゃないし、議論自体も成り立たないだろう」
「それはそうですけどっ……」
「そもそも私の承知している限り、君たちのやっている30人31脚に関して校長たちが懸念を示しているのは今度が初めてではないよ。あんな危険なスポーツをやらせるのは反対ですと、保健室の松本先生もよくおっしゃっていたようだ。私自身は30人31脚にも詳しくないし、その賛否を論じる立場にあるとも思っていない」
「うぅ……」
そういうことを伝えたいんじゃない、とばかりに志穂が歯噛みする。菅井先生は志穂や叶子を上目遣いにうかがった。覚悟のほどを品定めされている気がして、叶子は懸命に平静をよそおった。巣食う不安を見抜かれたら最後、呆気なく手を離されてしまう気がした。
耳の痛くなるような沈黙がしばらく続いた。
根比べをしているみたいで、負けじと叶子も、志穂も、菅井先生から目を離さなかった。
「……いいでしょう」
やがて、菅井先生は視線をやわらげた。下がり気味に傾いた眉が、根負けしたよ、と唸っていた。
「スポーツに関してはまるっきり門外漢だが、見学であれば邪魔になることもないだろう。見学の旨は私から高橋先生にお伝えしておくとするよ。今日の放課後がいいかね」
「いいんですか!?」
思わず叶子は志穂よりも先に叫んでしまった。
たとえ見学の約束を取り付けただけでも、副校長を動かしたという事実は大きい。事態打開の道筋がわずかに見え始めた。興奮のあまり志穂を振り仰いだが、彼女の反応のあまりの物静かさに興奮はしゅんと萎んでしまった。
志穂は嘆息していた。
喜ぶでもなく、勇んで次の策を考えるでもなく。
今しがた大仕事をやってのけたというのに、その細い眉は安堵と失望の狭間みたいな角度に落ち着いている。ちょっと、何してんの。喜んでよ。これじゃうちだけ能天気みたいじゃん──。困惑のあまり脳内で志穂を急き立てたら、視界の外で菅井先生が「ところで練習は何時に始まるのかね」と尋ねてきた。
菅井先生の同伴のもとで練習が再開できると聞きつけるや、一組のみんなはいきり立った。
「いいとこ見せてやろうぜ!」
「五十メートルばっちり走ってみせなきゃね」
「ついでに記録も更新したいよなぁ」
口々に決意表明しながら体育着に着替え、校庭へ飛び出してゆく仲間たちを、こんなにも頼もしく思ったのは初めてかもしれない。ついでじゃなくても記録は更新したいものだと夢想しつつ、足紐を掴んで校庭の空気を吸った。駆け付けた朱美や春菜、そして理紗先生が、臨席する副校長を前にしてちょっぴり居心地悪げに振る舞っているのが滑稽だった。
各自で体操、ランニング、縄跳び、もも上げを実施。それから五十メートル走のタイムを計り、倒れ込み直線走や直線歩行、二人三脚といったメニューを消化して、最後に全員ランを敢行する。放課後練の構成は夏休み前から大きく変わっていない。変わったのは、練習の進むペースが全体的に向上したことと、誰に命じられずとも練習に励む子が圧倒的多数になったこと。合同練習での五十メートル走破達成が、このクラスの常識を残らず塗り替えてしまった。
「まだ準備体操やってんの? おっそ」
「あんたが早すぎるんだよ! どうせ適当に手抜き体操したんだろ」
「手なんか抜いてないし、そろそろ自分の身体の硬さを認めれば? ちんたらやってると置いてくから」
顔を真っ赤にしながら屈伸をしている夏海を、一足先に体操を終えた桜子が鼻で笑い飛ばす。「うるさい!」と叫んだ夏海は勢いのままに屈伸を終えたが、次の項目へ移る前に桜子はランニングを始めてしまった。ペアを組まされた頃はいがみ合うばかりだったのに、いつの間にやら互いをいじる余裕が生まれていることに、叶子は率直な驚きを禁じ得ない。
「いつからあんなに仲良しになったのさ」
「どこに目がついてたら仲良しに見えんの?」
「どこについてても仲良しに見えるけど」
「別に向こうは仲良しだなんて思ってないんじゃね。今だって練習中はケンカばっかりだよ」
顔をしかめながら夏海は足を伸ばした。
降り注ぐ夕方の陽ざしが校庭を燃やしている。疾走する桜子の後ろ姿が、薄い砂煙の向こうへ遠くなる。その背中を追いかける夏海の眼差しが、不意に、ふっと緩んだ。
「ま、みんなで五十メートル走れるようになってさ、土井もちょっと調子づいたのかもね。ペア組まされた頃は見たことないくらい塞いでて、あたしが何言っても感情的に言い返してくるばっかりだったけど」
「やっぱり塞いでたんだ、あの頃。何かあったんだとは思ってたけど……」
「何があったのかはあたしも知らないよ。でも、あんなやつでもきっと嬉しかったんだろうな。みんなと肩並べて五十メートル走って、その喜びを分かち合えたのがさ」
もともと負けん気の強い桜子のことだ。五十メートルを走れるようになって意欲を取り戻した矢先、校長たちに思わぬ横槍を入れられて、かえって発奮したのかもしれない。風を切って走る彼女の赤らんだ頬を、砂煙の紗幕越しに叶子は見つけた。練習の中断を言い渡されたときはあんなにも意気消沈したのに、人生、どこで何が良い方向に作用するか分からないものだ。
桜子の発奮についてゆけない取り巻きの明日乃たちが、口々に「待ってよ」と叫びながらついてゆく。男子たちも互いを叱咤しながら縄跳びに励んでいる。掛け声や足音で賑わう校庭を、じっと腕を組んだまま、菅井先生は物静かに見つめていた。余分なフィルターを意図的に取り除こうとしているみたいに、その優しい顔にはおよそ表情らしい表情が浮かんでおらず、ちょっぴり気味が悪かった。
副校長の隣には志穂の姿もあった。肩を縮こまらせ、いたずらに地面の陰影ばかりを見つめている。菅井先生の陰に隠れて必死に存在感を消しているのが、その佇まいからも明らかだった。二人三脚や四人五脚で二人の前を通過するたび、いつか彼女の叫んだ言葉が、耳の底で静かに轟いた。
──『あれだけみんなに迷惑かけたのに、まだみんなと一緒に走りたい気持ち、忘れられてないのかな』
──『なんでか分からないけど、気づいたらここに来ちゃうんだ』
本心と現実の折り合いがつかないジレンマに震え、泣きながら葛藤する志穂の姿を、あの日、叶子だけが見ていた。その本心の在処も知られないままに、結局、志穂は自発的にチームを抜けていった。あれから志穂の居場所は失われたままだ。彼女が練習にさえ姿を見せないのは、逃げたことを糾弾されるのが恐ろしいからではないと思う。成り行きとはいえ、みずから挑戦の座を降りてしまったこのチームに、もはや自分の居場所はないと確信しているのだと思う。
捨てたものをふたたび手に入れることは、なくしたものを取り返すより難しい。分かっていたことだが、志穂が叶子の隣に並んで走ることは、もう、本当に二度とないのだろう。
誰にも悟られないように叶子は吐息を投げ捨てた。集合をかける理紗先生の声が、二棟の校舎の壁に反響して拡散した。
合同練習で初の走破を成し遂げて以来、五十メートルに挑戦するのは今度が初めてだ。残り時間の都合上、今回は一度しか全員ランをやれない。おまけに副校長という名の監視もついている。気合いが入っているとはいえ、みんなの顔は緊張でぎこちなく凍っていた。見かねたように出てきた康介が「心配すんなよ」と胸を張って笑った。
「おれたち走れるんだから。副校長のことなんか忘れて、いつも通り走ろうぜ」
「副校長の見てる前でよくそんなこと言えるね」
思わずツッコミを入れたら、菅井先生がひときわ大きな咳払いを発した。「いけね」と康介が舌を出す。じわりと広がった失笑の輪が、みんなの顔からかすかな緊張を弾き飛ばす。いそいそと康介がスタートラインに戻ったのを確認して、理紗先生が手を挙げた。
「位置について──用意」
「みんなのチームに戻っても、いいんだね」
▶▶▶次回 『49 辛口叶子と居場所の作り方【5】』




