04 驀進康介の頑張る理由【1】
武井康介は今年で十二歳になる。
少なくとも戸籍上は、生まれも育ちも東京だ。
もっとも、この狛江の街並みを「東京」と見なしてくれる人がどれほどいるのかは知らない。どこまで行っても家、家、家。都会らしい超高層ビルやコンクリートジャングルなんてどこにも見当たらない。当の康介が住んでいるのも、父の勤める企業の用意した社宅だ。社宅の近所には多摩川という大きな川が流れていて、家と街路のひしめく狭苦しい街並みにおおらかな彩りを添えてくれている。
いくら田舎の多摩地区とはいえ、狛江だって立派な東京の端くれだ。最寄りの和泉多摩川駅から小田急線に乗れば、都心の繁華街まではひとっ飛び。康介だって新宿や渋谷や池袋には何度も出かけたことがある。けれども煌びやかな超高層ビルやネオンサインの群れを見上げるたび、そこが自分たちの住む町と同じ「東京」であるようには康介にはどうしても思えなかった。無数の人々で賑わう副都心の大都会は、都内一のちっぽけな市から見上げるにはあまりにも大きかった。
市立岩戸小学校の全校児童は五〇〇名。小学校としてはそれほど大きくない。学級数にしたって、三組まであるのは五年生と一年生だけで、そのほかの学年はどれも二組までしかない。クラス替えが行われるのは二年に一度、三年生と五年生への進級時だけ。それでもたった二クラスしかないから自然と全員の顔や名前は覚えるし、クラスをまたいで仲良くなる友達だっている。同じ社宅から通っている子もいれば、毎日同じ時間に通学路で鉢合わせる子もいる。そこに目新しさなんてものは存在しなかった。
このまま何となく日々を過ごしていれば、きっといつかは高校や大学を出て、父のように会社に勤めて、普通に結婚して子供をもうけて、そのうち年老いて死んでゆく。単調な狛江の街並みには、そんな「普通の」人生が無数に凝縮されている。普通であることが一番だと両親はしょっちゅう言うが、普通であることの真価なんて康介には分からない。だって、何もかもが量産型じゃないか。学校だってそうだ。判を押したように律儀に宿題を出し、授業を聞き、顔見知りの連中となんとなく遊んでなんとなく帰るだけの日々に、いったい何の魅力があるだろうか。そこには安定した未来展望はあっても、飛びつきたくなるようなキラキラした夢はない。
夢のない、硬直した世界に康介は辟易していた。
噛み合わないパーツを無理に組み上げて作ったジグソーパズルみたいに、どこか歪で、けれども完成されているがゆえに変更の効かない世界が、窮屈で仕方なかった。
なにがしかの変化が欲しかった。窮屈な世界に反抗したくて、夢中になれる何かを探して、仲良しの連中とつるんで必死に遊び回った。ときには立ち入り禁止の場所へ忍び込んで怒られたり、遊具や設備を壊して追いかけられたりした。そこには夢はなくとも充足感があった。たとえ勉強ができなかろうが、栄えある未来が閉ざされようが、いまを楽しく生きられなければ息が詰まって死んでしまう。そんなのまっぴらごめんだったのだ。退屈を振り払い、憂鬱を蹴散らし、気の合う仲間を独占して愉快な空間を作り上げる──それが康介の日々の生き甲斐だった。窮屈だったはずのクラスみんなで足を結んでゴールマットへ飛び込む夢を、ついうっかり見てしまうまでは。
エントリー手続きを済ませてまもなく、大会側から返答があったと聞いた。一組の参戦は無事、主催事務局によって受理された。
「エントリーしたチーム向けのルール説明ビデオが送られてきてるの。ちょっとみんなで見てみようか」
先生の提案に従い、休み時間をさいて電子黒板でビデオを流すことにした。「遊びてぇよー」「帰りの会の時でいいじゃん」などとみんなが文句を垂れるので、実行委員らしくビシッと言ってやった。
「甘いこと言ってんなよな。これからは休み時間も練習に使うことになるんだぞ」
「えー、マジかよ!」
「うちら塾あるんですけど」
「おれだって習い事あるしっ」
「放課後の練習は自由参加にしようと思ってるの。そのへんは上手くやるから大丈夫」
とりなしの言葉を挟んだ先生が、一瞬、康介の方を向いて笑いかけてきた。ありがとうと褒められた気がして、無意識に康介は先生から目をそらした。別に先生のためじゃない。こいつらのため、おれ自身のためだ。
ビデオは競技そのものの説明から始まった。三十人以上の子供たちが横一列に並んで互いの足を専用のひもで縛り、五十メートル先のゴールを目指す。単純だが、そのぶん事故が起これば多くの子が巻き込まれる危険なスポーツでもある。それゆえ、30人31脚においてもっとも重視されるのは安全対策だ。たとえば足紐はマジックテープで結ぶ仕組みで、簡単に着脱可能。誰か一人が転倒した時には衝撃で勝手に外れ、連鎖的にみんなが転んでしまわないようになっている。腕の組み方についても、普通に組んだのでは転倒時に地面へ手を突くことができず危険なので、右手を隣の子の肩に、左手を隣の子の腰に回すという、ちょっと風変わりな組み方をすることになる。この組み方は左右どちらでも構わないらしい。
「隣のやつに腰触られんの?」
「やだー!」
「隣が男子じゃないといいなぁ」
「うるせえよ、誰もお前らの腰とか興味ねぇし」
「自意識過剰ってやつだぞ」
「はぁ? 何そのムカつく言い方! 殺すよ?」
早速、怪訝な顔の女子たちと疑いをかけられた男子たちとの間に言い合いが始まった。無理もない。康介だって苦手なやつに身体を触られたら不愉快だ。おれは誰の隣になるんだろうな──なんて、クラスのみんなを見回しながら康介も思い悩んだ。できれば仲良しの友達と一緒になりたいが、そうでなかった時のために覚悟を決めておいた方がいいかもしれない。なにしろすでに康介は一度、実行委員の人選で神様に裏切られている。
安全対策は練習の方法に関しても徹底する必要がある。普通は二人三脚で歩くことすら難しいのに、三十人で走るとなれば難しいのは当然だ。まずは二人三脚から始めて段階的に人数を増やし、三十人でのランが可能になったら今度は少しずつタイムを向上させてゆくことが推奨されている。指導者はホイッスルを携帯し、危ないと感じたらすぐに吹鳴して停止指示を出す。ゴールしたチームが安全に停止できるよう、ゴールの先にはマットやクッションを敷いて飛び込めるようにする。肩を組む姿勢を安定させるため、襷を着用して手で掴むようにするのも良し。転倒時に怪我をしないためにも膝当ての装着を推奨──。約七分のビデオは、実用的なアドバイスで盛りだくさんだった。素人目にも、事故の発生を恐れる大会側の意思が明確に感じ取れた。
「なんかいろいろ言われたけどさ、実際やってみないと想像つかなくね」
「一回やってみたいよね」
「何がどう危ないのかもよく分かんないし」
再生画面のシークバーが終端に達するや、みんなは口々に言い出した。「そういうと思ってたんだ」と、理紗先生は足元の段ボール箱を開いた。
「練習用の足紐が届いてるの。これ使って、ちょっと外でやってみようか」
箱の中身は真っ赤なバンド状の足紐だ。大会側が用意してくれたものらしい。「気前いいじゃん」なんて言いながらみんなで紐を掴んで、中休み中の校庭へ飛び出した。
「どうする、並び順」
叶子が話しかけてきた。好き勝手に列を作りつつある一組を眺めながら、「あのままでいいんじゃね」と康介は応じた。
「だってどう並べたらいいのか分かんねぇし。とりあえずやってみようって話だろ」
「なにその適当な……」
「だったらお前はなんかいい案でもあんのかよ」
「ないから聞いてんじゃん。使えないやつ」
叶子はいちいち一言多い子だ。イラっとしたが、ここで腹を立てたら思うつぼだと感じて康介は唇を結んだ。これから楽しい初挑戦が待ち受けているのに、嫌な気持ちでみんなと肩を組みたくない。
かくして、走力のバランスや体格差など完全に無視したまま、気の合う子同士で肩を組んだ三十二人の単横陣が完成した。あとから入った実行委員には割って入る隙間がなかった。仕方なく両端に分かれて立つと、全体を見回した理紗先生が満足げに「よし」と口角を上げた。
「歩いてみようか。私の声に合わせて足を踏み出してみて」
「どっちの足を出せばいいんですかー」
「どうしようかな。左端の武井くんから順に、右足、左足、右足、左足……って感じ」
みんなが一斉に互いの足を観察した。康介の右隣には、忌々しい叶子の足がある。
「ちゃんと動かせよな」
凄むと、叶子は鼻で笑った。
「こっちは武井より歩幅は大きいからね。ちゃんとついて来なよ」
望むところだ。転んだら叶子のせいにしてやる。眼光を細めて向き直ると、待ち構えていたように理紗先生が最初の一言を叫んだ。
「いーち!」
康介は自慢の右足を振り上げて、前に出した。
ぐんと身体が引っ張られた。叶子の足に引っ張られたというより、地面から這い上がる引力の強さが急に増して、バランスを崩されたような感覚だった。
転ぶ!
恐怖で目を閉じかけたが、どうにか踏ん張って一息をついた。一組の組んだ隊列は今のところ崩壊を免れていた。
「歩けたね!」
理紗先生の声が飛び跳ねる。
なるほど、これは確かに普通の歩き方とは違う。全身を駆け巡った冷たい血の余韻を指先に感じながら、康介は隣の叶子をうかがった。叶子も青い顔のまま黙り込んでいた。
次に踏み出すべき足は左だ。
誰の足とも結ばれていない。
そうと分かっているのに、なんだか思うように動かせそうにない。
「次いくよっ。にー!」
理紗先生の号令が響いた。躊躇する間も与えられないまま、みんなが動いた。康介は慌てて左足を前に出した。しまった、もっと前に出せばよかった──。小幅になった足を見下ろした瞬間、肩越しに強い力が康介を引っ張って、傾斜した上半身の重心が両足を外れた。
ホイッスルの吹鳴も間に合わず、引きずり落とされるみたいに康介は転んだ。
叶子も、その隣も、みんな倒れていた。
「やばいやばい!」
「足踏むなって!」
「腰上げて! 痛い! 潰されてる!」
うまく立ち上がることもできないまま、じたばたともがいているみんなの姿が目に入った。倒れたのは全体の半分、十五人くらいのようだ。残りの十五人が次々に足紐を外して「大丈夫か!」と救援に駆け付けてきた。その中には理紗先生の姿もあった。
「痛ってて……」
絡んだ足紐をちぎるように外してようやく自由を得た康介は、よろめきながら立ち上がった。立ち上がってから、倒れ込んだのが叶子の上だったことに気づいた。恨めしげに立ち上がった叶子が、脇腹を押さえながら「よくもうちを下敷きにしたな」と凄んだ。
「しかも女子に膝入れるとかマジで最低。ぜったい許さない」
「いやほら、避けらんねぇし。不可抗力ってやつ」
「覚えてなよ。次に転んだときは武井の側に倒れてやるから」
「こっちだって転びたくて転んだわけじゃねぇんだよ。むしろお前の方から引っ張られたんだぞ」
「は? 引っ張ってないし、普通に歩こうとしただけだし」
「おれだって普通に歩こうとしただけだよ」
康介も叶子も引き下がらない。食って掛かろうと睨み合っていると、そこに佑珂が「ケンカしないで!」と叫びながら割って入ってきた。
「みんな困ってるよ。私たち実行委員なんだから……」
佑珂に言われたとあっては引き下がるほかない。しぶしぶ、康介は叶子から目を外した。叶子は露骨に溜め息をついた。呆れ果てたように人垣の向こうから康介たちを眺めている稜也の姿が見えた。せっかくの練習初日だというのに、のっけから実行委員の絆はズタズタだ。
「……もう一回、やってみる?」
おずおずと理紗先生が尋ねた。
「この四人のことはすっごく頼りにしてる。みんなでせいいっぱい頑張ろうね」
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