47 辛口叶子と居場所の作り方【3】
ぎょっと叶子は飛びのいた。背後に立っていたのは、薄緑色のカーディガンを羽織った女性だった。革のカバンを肩から提げ、砲弾みたいなサイズのビデオカメラを担いでいる。
「だ、誰、ですか」
「ごめんね、驚かしちゃった。怪しい者じゃないの。全日本テレビに勤務してる者だけど」
「全日本テレビ!?」
康介が大声で吠えた。全日本テレビといえば、業界最大手の規模を誇る民放のキー局だ。そして叶子の記憶が正しければ、30人31脚の大会を企画した張本人の企業でもある。
「ぜ、全日本テレビの人が、こんなとこで何してるんですか」
うろたえきった稜也の問いに、彼女は顔を上げた。視線の先を例の他校が駆け抜けてゆく。もうもうと立ち上る土煙の航跡を見つめながら、「あの子たちを取材中なんだ」と彼女は前歯を見せた。
「あのチーム、30人31脚東京大会のエントリー校の中でもぶっちぎりの有望株でね。夏休み前くらいから密着取材させてもらってるの。今日も放課後にここで練習するっていうから、ちょっと様子を覗かせてもらおうと思って……」
そこまで切り出してから「あっ」と彼女は口を覆った。
「そっか。もしかして30人31脚が何だか分からない?」
「分かりますよ。おれたちもやってるから」
体勢を立て直した康介が毅然と言い切った。こういうとき、自発的にみんなの矢面に立とうとしてくれる康介の気概に、叶子はこれまで何度も助けられてきた気がする。
「そうなの!」
ぱっと彼女は顔を輝かせたかと思うと、テレビカメラを地べたに下ろして手帳を取り出した。カメラの側面には全日本テレビのロゴデザインが貼付されている。彼女は正真正銘、本物のテレビ局関係者なのだ。
「待って、どこの学校? このあたりって何区?」
「狛江市です。市立岩戸小の一組」
「やべ、ここって二十三区じゃないのか。ごめんね。あたし地図が苦手でさ、区境がどこにあるのかも正直あんまり分かってないっていうか」
まくし立てながら彼女は手帳をめくり続け、やがて「おっ」と声を上げた。さすがに覗き込むのは憚られたが、どうやら都内の出場校をリストアップしているページがあったらしい。
「岩戸小一組チームさんか。これまで取材に行かせてもらったことはないな……」
「うん。来たことないと思う」
「練習の調子はどうかな? 五十メートルの最新タイム、どのくらい?」
十一秒三七。二度目の合同練習で叩き出した、最速にして唯一の記録だ。あれから一組は五十メートルを走り切れていないし、今日に至っては練習もできていない。おそらくは明日も、あさっても、最新のタイムは生まれない。
答えに窮したのか、康介は叶子たちの顔を伺った。代わりになるような言葉も思いつかず、曇らせた眉で葛藤を表現したら、見守っていたテレビ局の女性が不意に微笑んだ。
「あんまり練習、上手くいってないの?」
「いや、なんていうか、そういう問題じゃないっていうか……」
「あのチームに話を聞いてみたらどうかな」
叶子たちは残らず肩を跳ね上げた。あのチーム、というのが何を指しているのかは明白だった。
「敵情視察ってやつにもなるし、悪いことはないと思うよ。向こうの子たちも快く応対してくれると思うしね。ほら、行こ行こ!」
「あっいや、おれたちまだ何もっ……」
抵抗もむなしく、腕を取られた康介が引きずられるようにして彼女に連行されてゆく。慌ただしく叶子たちも康介について歩いた。先方も気づいたようで、先生とおぼしいジャージ姿の男性がホイッスルを鳴らし、チームメンバーを集めにかかっている。おおごとになってしまったのを叶子は自覚した。こんなことならダラダラと家路を浪費しないで、大人しく猪駒通りで解散するべきだった。
ジャージの先生は休憩を指示したようだ。用の済んだホイッスルを首から下げる先生と、その傍らに寄ってきた実行委員らしき二人の子のもとへ、テレビ局の女性は勇んで叶子たちを連れて行った。「どうもー」と女性が気軽にあいさつを発して、先生たちも戸惑うことなく会釈を交わした様子を見るに、丹念に取材を重ねているのは事実のようだった。
「今日も元気に練習されてますねー。安心しちゃいましたよ、井上先生」
「例の事故の件、局の方でも懸念されてるのかね」
「それはもう。大会主催者として見解を出すべきか、いまも上の方では検討が続いているようですし」
慣れているにしてもいやに親しげな話しぶりだ。ちょっぴり眉をひそめた途端、テレビ局の女性は叶子たちを振り返って、あっさり「ところで」と話題を切り替えてしまった。
「この子たち、さっきそこの土手で知り合ったんですけど、城西学院さんと同じく30人31脚をやってるみたいでして──」
「──あ!」
不意に大声を出した康介が、向こうの先生とともにたたずむ二人の子どもたちを指差した。人を指差すなと注意の声を発しかけたが、間髪入れずに向こうの二人も同じような反応を示したので、叶子の割り込む隙はなくなった。
「やっぱりそうだ。お前ら、前におれたちを追い出した……」
「その節は、その、ごめん」
「え、非を認めんの。素直だな」
「あのあとこってり先生に怒られたから」
苦笑いにまみれた二人の頭上から、井上と呼ばれた先生が般若のような眼差しを注いでいる。自主練を邪魔されたと聞いてはいたが、なるほど、彼らが康介たちを自由ひろばから追い出したのか。後日そのことが先生に露見して大目玉を食らい、彼らなりに反省を深めたということのようだ。
私立城西学院小学校、六年シラカバ組。
それが彼らのチームの名前だった。
先生は井上貞夫。実行委員の二人はそれぞれ城山公平、重友こよみと名乗った。ついでとばかりにテレビ局の女性も自己紹介した。石塚詩織、三十二歳。全日本テレビ本社所属のアシスタントディレクターだという。
「城西学院小は運動会の種目に30人31脚を取り入れててね。以前開催されていた大会にも毎年のように出場してて、飛びぬけた実績と指導技術を持ってる学校なんだよ」
石塚は終始、頬を緩めっぱなしだった。「詳しいですね」と応じたら、彼女は照れくさそうに頬を掻いた。
「実はあたし、城西学院のOGなんだ。もう二十一年も前だけど、30人31脚の全国大会にも出たことがあって、そのとき指導してくれたのがここにいる井上先生なんだよね」
道理で──。納得の花が次々に開いてゆくのを感じながら、叶子はひっそり溜め息を漏らした。神様のやり口は卑怯だと思った。これほどまでに条件の恵まれた学校がある一方で、岩戸小のように周囲が敵だらけの学校もあるというのに、最終的には同じフィールドで闘わねばならないなんて絶対に卑怯だ。公平じゃない。
「岩戸小は市立か。グラウンドも人工芝ではないだろうし、練習環境の確保にも苦労していそうだな」
あごひげをいじくりながら井上先生がうなると、「そうなんですよ」と康介が重ねて言い募った。
「校庭は狭ぇし、屋上はもっと小さいし、どっちも素足で走ったらめちゃくちゃ痛いし……。自由ひろばは芝生だから走りやすいだろうなって何度も憧れてたもん」
「その代わりに少々でこぼこではあるがね。近所にこれだけ立派な広場があるのは羨ましいよ。我々はここを使うために毎回、わざわざ小田急線に乗って移動しなきゃならん」
聞けば、城西学院のキャンパスが位置しているのは、狛江市に隣接する世田谷区の西部らしい。世田谷区は八十六万人もの膨大な人口を抱える都内最大のベッドタウンであり、同時にブランド性の高い高級住宅地でもある。城西学院のような私立小学校の運営が成り立つのも土地柄ゆえだ。
「岩戸小のタイムはどのくらいなのかな」
おもむろに井上先生が尋ねてきた。今度は康介も言葉を詰まらせず、ただし小声で、「十一秒三七です」と応じた。
「そっちのクラスは九秒台とか出してたし、笑っちゃうと思うけど」
「笑わんよ。成長のスピードはどこも同じとは限らん。大器晩成型のチームなら、大会直前に一気に記録を伸ばすことだって有り得るからな」
「でもおれら、今は最速記録に挑戦することさえできないんです」
うつむく康介を見て、井上先生はあごひげをいじる手を止めた。公平もこよみも身を乗り出した。
「おれらの学校、先生たちがみんな30人31脚に反対派なんです。これまでもクラスのやつらが転んで怪我をするたびに学校にクレームの電話が入って、それで担任の先生が校長に怒られたりとかしてて。そんで昨日、どっかの学校で大事故が起きた話が広まったじゃないですか。あれで堪忍袋の緒を切らした校長たちが、練習やめろって担任の先生に言い渡したらしいんです」
「なるほど。それで浮かない顔をしているのか」
「おれら、色々あってチームの仲もバラバラで、ついこないだようやく五十メートルも走れるようになったばっかりで。頑張って前に進もうとしても、すぐにこうやって邪魔が入るんです。だからなんか、羨ましいな……って。いちいち説得しなくても周りが応援してくれるのって、すっげー恵まれてることだと思う」
見渡せば、休憩を言い渡された他のチームメイトたちは、思い思いの場所に集まって柔軟をやりながらのどかに笑い合っている。こんな平和な練習風景を岩戸小の校庭で目にした記憶はない。城西学院の子たちが順調な練習でタイムを向上させている間、岩戸小の叶子たちはチーム崩壊の危機に何度も直面し、校内のライバルチームに追い越され、あげく担任教師にも失踪された。役立たずの実行委員と罵られ、みんなで泣きながら帰ったことさえある。
「校長、そんなにおっかないんだ?」
公平が首を伸ばしてきた。「いや」と康介は首を振った。
「おっかないっていうか、たぶん心配性すぎるんだと思う。神経質ってやつ」
「じゃあ、意地悪で練習をさせてくれないわけじゃないのか。だったら解決の道はあるんじゃない?」
「簡単に言うなよな。おれらが何を言ったって、どうせ聞く耳も持ってくれねーよ」
「話すのがダメなら見せればいい」
公平は不敵に口角を上げた。
「自分たちのやってることを誠実に見せるんだ。僕らはこんなに真面目に頑張ってるんです、邪魔しないでくださいって、身体を張ってアピールするんだよ。いくら神経質で頑固な人でも、目にしたものを否定はできない。百聞は一見に如かずって言うだろ」
「無理に大人と闘う必要はないと思う。口論なんか挑んだって、負かされるのは分かり切ってる。頭脳戦じゃ大人のほうが上手だもの」
静かに畳み掛けたこよみが、斜め後ろの井上先生を「ね」と振り返った。井上先生は頑丈な腕を組み、深々とうなずいた。
「君たちの目にどう映っているかは分からんが、うちのクラスの連中は相当鍛えられているぞ。なにせ、嘘をついても怠惰な態度で歯向かっても、全部この私が見破って撥ね退けるからな。私は自分の目で見たものしか信用せん。説得を試みる者には相応の労力を支払わせる」
「だから君らを追い出したこともバレたんだけどね」
いたずらっぽく公平が笑った。たちまち井上先生の目が不気味に光り、公平の顔から不純な笑みを一瞬で吹き飛ばした。なるほど、確かに井上先生の威光はたいそう立派らしい。この威光がシラカバ組の子たちの挑戦を外圧から守ってきたのだろうなと、多少の羨望を交えながら叶子は思った。井上先生のクラスに入りたいとは思わなかったが。
「自分たちのやってることを誠実に見せる、か……」
噛み締めるように康介がつぶやく。
「恐怖の源はつねに無知にある。30人31脚が得体の知れないマイナー競技だからこそ、みんなして実態を知りもせずに辞めさせたがるんだ。普段通りの練習風景を見せつけて、堂々と言ってやりなさい。あなたが小さい頃に運動会でやっていた組体操の五段ピラミッドなんかよりも百倍安全ですよ、とな。きっと真っ赤な顔になるだろう」
がたいのいい腕をふたたび組み直しながら、夕陽のなかで井上先生は精悍に微笑した。公平も、こよみも、はたまた隣で話を聞いているだけの石塚ディレクターも、穏やかな目で叶子たちを見つめていた。バツが悪くなって叶子は目をそらした。いっときでも彼らを敵視して警戒したことを、ほんの少しだけ、恥ずかしく思った。
「なんにも見ないでわたしたちの未来を決めないでほしいんです」
▶▶▶次回 『48 辛口叶子と居場所の作り方【4】』




