46 辛口叶子と居場所の作り方【2】
結局、叶子の口から明かすまでもなかった。放課後を目前にして理紗先生が練習の中断をみんなに申し入れ、事の次第を説明してしまったのだ。
たちまちみんなは騒然となった。目をむいた夏海が「何それ!」と立ち上がった。
「意味わかんない。なんとなく危なそうだからやめさせようってこと!?」
「横暴だよ!」
「校長たちが怖がりなだけじゃん!」
「校長先生方の言い分を簡単に突っぱねるわけにもいかないの。このクラスでも何度か大きなクラッシュを経験してるでしょ。山懸くんはそれで鼻の手術も受けてるし……」
「じゃあ俺が『走りたい』って言ったら解決するんですか」
「解決しないと思う。上の人たちは山懸くんのことを心配してるんじゃないの。これから出てくるかもしれない、第二、第三の山懸くんを心配してるの」
頬杖をついた駿が「どうしようもないじゃん」と嘆息した。もとの端整な目鼻立ちを取り戻した顔が、すっかりふてくされ気味に歪んでいる。そのつぶやきと面持ちは、今の一組全体の心境をあまりにも率直に表現していた。天から降ってきた禍に誰もが困惑している。その禍が一組の努力でどうにかなる代物ではないことを、みんな言外に理解しているのだ。
「……どうすんですか、これから」
思いきって叶子は尋ねた。
不安を根こそぎ消し飛ばしてくれるような力強い言葉を期待したわけじゃなかった。なんとなく、理紗先生の言葉に甘えたかった。先生は居心地悪そうに両手を後ろで組みながら「その」と小さな声をひねり出した。
「いつもの昼休み練でやっている練習メニューみたいに、普通の運動の範囲に収まるようなものであればOKらしいの。みんなはもう五十メートルも走れるようになってるし、しばらくは基礎的なトレーニングで場を凌ぐのが得策だと思うんだ。その間に私や北島先生の方で、他の先生方を説得してみる」
「できるんですか、説得」
「高橋先生ってそういうの苦手そうだし……」
「なー。あのおっかないおばさん校長の前で小さくなってそう」
「ちょ、ちょっと、見てきたようなことを言わないでよ。先生をもっと信用してよ」
「でも先生、おばさん校長のこと苦手でしょ」
「苦手なんかじゃっ……。というかそんな呼び方しないで、お願いだからっ」
冷やかしじみたみんなの反応に先生は汗をかいている。笑うに笑えず、叶子は理紗先生から目を逸らした。見ると、康介と稜也は複雑な面持ちで互いを見交わしている。叶子の知らないところで二人も同じような光景を目撃したのか。
しんと静まり返った教室の窓から、ヒグラシの断末魔が賑やかに殴り込んでくる。エアコンの垂れ流す冷気が肌に凍みる。ほこりっぽい教室の匂いを嗅ぎながら、心の折れた匂いだ、と叶子は思った。みんなの心はまたしても折れかけている。眉を曇らせ、唇を噛み、誰とも目を合わせない。せっかく手に入れたばかりの目標を取り上げられ、ショックをやり過ごすことに精一杯だ。
これから一組はどうなるのだろう。今度ばかりは二組も他人事じゃない。元気印の北島先生を筆頭にして、二組の面々も今、葛藤の真っただ中にあるはずだ。理紗先生ひとりで闘ったのならいざ知らず、あの経験豊富な北島先生でも校長たちに抗いきれなかったという現実が、叶子たちの失望をいや増しにしている。
がたん、と椅子の動く音が耳をつんざいた。
不意の物音へ警戒を強めた叶子の目に、思いがけないクラスメートの姿が映った。両手をついて立ち上がり、みんなを見回したのは、それまで沈黙を保っていたはずの志穂だった。
「わっ、わたしが」
志穂は派手に声を上ずらせた。小さな身体は小刻みに震えているが、その目線は立ち尽くす理紗先生を捉えて離さない。
「わたしが先生の味方になる。頑張って色んな人を説得して、わたしよりも力になってくれそうな人のこと、ぜったい先生の前に連れてくる」
「き、気持ちは嬉しいけど、どうして……」
どもりながら理紗先生が問い返した。
志穂は身体を縮め、唇を真一文字に結んだ。
「……わたしのせいだと思うから」
「今回の件が?」
「わたしが転んで走るのをやめたりしたから、校長先生も不安になったんだと思うんです。あの遠くの小学校みたいに、いつか同じような大事故を起こすんじゃないかって……。だからきっとこれはわたしのせいなんです」
「そんなこと──」
「そんなことあるんですっ!」
夢中で志穂は叫んだ。言葉を失った理紗先生が、喉が動くほどの量のつばを飲み込んだ。
「先生、待ってて。わたし今度はぜったいに諦めたりしないから。みんなにたくさん迷惑かけた分だけ、今度は役に立ってみせるからっ……」
あの志穂が断定口調でものごとを主張していることに、少なからず面食らっている自分がいる。すでに何らかの目論見を念頭に置いているみたいだ。呆気に取られながら叶子は志穂を見つめた。長い前髪の下に覗く二粒の瞳が、青色の炎をらんらんと燃やしている。ものを言わせぬ彼女の気迫に、三十人の学級は残らず飲まれていた。
気だるい残暑が街をおおっている。
青春を燃やし尽くしたセミの亡骸が、電柱の傍らに転がって干からびている。
放課後練が取りやめになってしまうと、陽が沈むまでの時間がやけに長く思えるから不思議だ。高く昇ったままの日差しの下を、誰が言い出すでもなく、実行委員の四人で肩を並べて歩いて帰った。幸か不幸か、暑さを忘れる話題には事欠かなかった。
「説得するったってなぁ。市川が出ていったらまるっきり逆効果じゃねーの……?」
康介が後頭部をガリガリ掻きむしった。フケが飛ぶからやめてほしい。さりげなく距離を取りつつ、天を渡ってゆく電線に叶子は目をやった。蒸し暑い風に足元を揺さぶられ、数羽のスズメが慌ただしく電線を飛び立ってゆく。うちの偉い先生たちみたいだ、と思った。
「まるっきり逆効果とは思わないけど、正直、説得力はないって思っちゃうよね」
つぶやいたら稜也も「ああ」と嘆息した。
「むしろ『あなたは怖いと思わないんですか?』とか何とか問い返されて、反対の根拠にされるかもしれない。そうなったらもっとまずい」
「市川さんが転んで鼻を折ったとき、すっごい痛そうに泣いてたの、私、今でも忘れられないよ。あんなの見たら私だって辞めさせようかなって思っちゃうかも……」
「なんだよ、福島までおばさん校長の肩を持つのかよ」
「肩なんか持ってないよ! だけど気持ちは分かっちゃうっていうか、正面切って『そんなの間違ってる』とも言えないっていうかっ」
切るべき啖呵を失った康介が「まぁな……」とぼやきながら小石を蹴った。きっと胸の内では康介もわきまえているのだ。世間的に見れば正しいのは校長たちの方で、無茶を言って危険なスポーツを続行しようとしている一組や二組の方が異端であることを。
もとから30人31脚に反対の論陣を張っていた校長たちにとって、志穂はみずからの懸念を証明する都合のいい実例でもある。志穂自身も形勢の不利を承知しているはずだ。それでもなお果敢に説得を挑んで、手に入るかも分からない味方を連れてくると宣言して、いったい志穂は何を得ようとしているのか。たとえ願いが叶って30人31脚の練習が認められたところで、志穂自身は二度と一緒に走らない。そう決めたのは志穂自身じゃなかったのか──。不可解な動機を理解しようとしても頭がこんぐらがるばかりで、そのうちくたびれて考えるのをやめてしまった。せめて説得の場面には自分も立ち会おうと叶子は思った。
「ともかくさ、明日からのこと考えようぜ」
「今日は解散しちゃったけど、本当に何もしないで待ってるわけにもいかないしな」
「先生が言ってたみたいに、危なくない練習だけでも続けた方がいいだろうね」
「理紗先生がいなくて練習できなかった時と条件はおんなじだよね」
「ぜんぜん違うだろ。あのときは先生が復帰する見込みがあって、そこに向かって合同練習っていう目標を置けたからこそ、みんな頑張れたんだよ。今回はその手も使えないし……」
「もしも、もしもさ、マジで説得に失敗したらどうなるんだろ」
「おれたちが数ヶ月かけてやってきたこと、ぜんぶ無駄になっちまうかもな」
「だよね……」
気落ちした勢いで声も肩も沈んでしまう。力が入らなくて、少し歩幅を縮めたら、同意を示すように康介も溜め息を漏らした。
「……どうなるのかな、おれたち」
誰も答えられない。答えられないから、聞き流すしかない。これほど漠然とした無力感に包まれるのは初めてのことだった。誰ひとり沈黙を破らないまま、なんとなく、とぼとぼと歩調を合わせて歩いた。家路の別れる猪駒通りに出ても、佑珂も康介も別れを告げなかった。家路から逸れていることにさえ気づいていなかったのかもしれない。
そのまま社宅の前も通り過ぎたところで、ようやく康介が「あれ」と顔を上げた。
「家スルーしたのやっと気づいた?」
「それもあるけど」
あるのかよ。脳内だけで突っ込みを我慢する叶子をよそに、康介は駆け出した。目の前のT字路を左に折れ、社宅の建物を左に見ながら細い道を走ってゆく。不意の動きについてゆけず、「なんだよ急に!」と叫びながら追いかけたら、現れた数段ほどの階段の前で康介は立ち止まった。
正面には多摩川の土手がある。
「聞こえるだろ」
息を荒げながら康介が前方を見上げた。
「30人31脚の練習やってる」
耳を澄ますと、土手の向こうからはくぐもった叫びが轟いていた。1、1、1、1、1、1、1、1。奇数歩のときだけ「1」を連呼する独特な歩数カウントは、一組も導入している30人31脚特有の掛け声だ。
「二組かな」
「二組じゃない。たぶん、前におれたちの自主練を邪魔したやつらだ」
「勝手に足紐持ち出して先生に怒られたやつ?」
「嫌なこと思い出させんなよ」
ぼやいた康介が、夢遊病者みたいな足取りで土手を登ってゆく。勝手に思い出したのは康介の方じゃないか。ちょっぴり頬を膨らませつつ、好奇心に任せて叶子も康介の背中を追った。30人31脚にエントリーしているチームの姿など、二組のほかには一つも見たことがない。よそのチームがどんな練習を取り入れているのか、純粋に興味があった。
河川敷は夕暮れの日差しを浴びてオレンジ色に燃えていた。その一角、芝生の栄える自由ひろばを、見覚えのない体育着姿の小学生たちが三十人以上もの隊列を組んで疾走している。今しがたスタートしたばかりのようだ。猛然と蹴り出された砂は巻き上げられて煙になり、大波のごとく突き進む子どもたちの背後に航跡を描く。その間、わずか十秒ほど。走り方を十分に吟味する時間も与えてくれないまま、彼らは教師らしき男の立つゴールラインを通過した。
スタートからゴールまで、横一列の並びに綻びは見られなかった。誰も遅れず、誰も前に出ない。まるで同じ人間をコピー&ペーストして並べたみたいだ。
「すっげ……」
思わず感激が漏れた。「だよな」と応じた康介の声も、どことなく強張っていた。
特に感動を深めることもなく、足紐をほどいた子どもたちは淡々とスタートラインへ向かう。彼らにとっては五十メートルの走破など当たり前、いまさら驚くことでもないのだ。一組とは次元の違う世界を走っている──。湧き出した実感に背筋を脅かされ、凍った肩を思わず叶子は抱き締めた。誰からともなく土手に腰かけ、何本もランを繰り返す他校の姿を茫然と観察した。あまりにも出来が違い過ぎて、何から参考にすればいいのか見当もつかなかった。
30人31脚を危険視する世間の声など、あのチームは意にも介さず蹴散らしそうだ。強さや実績はそのまま説得力になる。もっと早く五十メートルを走れるようになって、もっと目に見える形で成長を見せつけていたなら、一組も校長たちの反対に遭うことはなかったのだろうか。いまさらそんな可能性を論じることに意味はないと分かってはいるのだけれど、考えずにはいられない。
「俺らのクラスもあのくらい走れたらな……」
膝を抱え込んだ稜也が、ぽつり、ぼやく。
まったくだ。叶子も真似をして膝を抱えようとした。
不意に見知らぬ声が頭上から降ってきた。
「──あなたたちも30人31脚をやってるの?」
「話すのがダメなら見せればいい」
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