45 辛口叶子と居場所の作り方【1】
一生懸命に努力を積み上げれば、夢は必ず叶う。
この子はいつか、たくさんの夢を叶えるだろう。
それは自分自身の夢かもしれない。誰かに託された夢かもしれない。叶えた夢の数だけ幸せにあふれ、輝かしい思い出と仲間を両手いっぱいに抱えながら生きてゆく、そんな子に育ってほしい──。
初めて自分の名前の由来を聞かされたとき、叶子は盛大に吐き気を催した。ちょっとでも自堕落な姿を見せれば憤慨し、出来のいい妹を隣に並べて粗探しをするような親が、そんな高邁な理想を抱いていたなんて噴飯物もいいところだった。だいたい医師の父も看護師の母も、もとはといえば医師の家系で育ったサラブレッドだ。そのサラブレッドが「努力すれば夢は叶う」なんて綺麗事の題目を平然と口にするあたりに、薄ら寒いものを感じずにはいられなかったのだ。
夢なんかいくら語ってみたところで、生きてゆけなければ仕方がない。この世界は権謀術数に長けた者だけが生き残ってゆくように出来ている。弱い子はつねに強い子の言いなりだ。力の強さに物を言わされ、泣きながら従属者に堕ちてゆく同級生の姿を、これまで何度も目にした。同じ目に遭わないために叶子が必要としたのは、居場所だった。ややもすれば味方を演じてくれる、絶対的な安全圏として、いまも夏海たちのグループを利用させてもらっている。いわれのない非難を浴びせてくる家族なんてもってのほかだ。物心ついてからというもの、家庭に帰属意識を持ったことはない。そもそもどこかの誰かに心を預けた記憶がない。叶子の周りはいつだって敵だらけで、油断のならない落とし穴にあふれていて、悠長に夢なんか思い描いていられるような環境じゃなかった。
これまでも、これからも、独りぼっち。
そう決め込まなければ生きてゆけなかった。
束ねられたワークブックの重みが指に食い込む。
ワークブックの正体は、理紗先生が倒れたせいで提出期限の伸びた夏休みの宿題だった。
さすがに三十二冊もの分量となると重量も半端ではない。やっぱり宿題の回収なんか引き受けなきゃよかった──。溜め息を漏らしながら叶子はちょっぴり持ち方を変えた。それもこれもみんなのせいだ。理紗先生が「回収担当を決めたいな」と口にした途端、みんなは一斉に叶子を視線で指差した。もちろんしっかり抗議したのだが、多数決のパワーの前では無力な叶子はひれ伏すしかなかった。
「いいじゃんー。だってほら、実行委員なんだしさ。おまけに力持ちだし」
「こういうときはすっごく頼りになるよね、実行委員」
「実行委員と宿題運びは何も関係ない!」
「もっと喜べばいいのに。みんなに信任されてるってことだよ、叶子」
「よく言うよ、面倒事を押し付けてるだけでしょ」
冷やかしてきた夏海たちに憤怒の唾を飛ばしながら、腹の底でうずいたむず痒さに叶子は悶えた。こんな理由で仕事を押し付けられるのでなければ、みんなに頼られるのも不思議と悪い気はしないものだ。以前の自分ならば決して思いもよらなかったであろう感慨が、食い込む重みをちょっぴり差し引いてくれる。
「ほ、本当に大丈夫? わたし手伝おうか……?」
ドアの近くにいた志穂がおろおろと声をかけてきた。ありがたいが、この期に及んで助け舟を出されても遅い。叶子は苦笑いを噛み砕いて「いいよ」と首を振った。
「こういう無茶ぶりには慣れてるから」
「ごめんね……。わたし、有森さんに負担かけてばっかりだね」
しょげた志穂の瞳が暗くなる。なんだか「わたしって役立たずだ」とでも続きそうな気配を感じて、叶子はそそくさと教室を逃げ出した。志穂の自虐は夏休み中に聞き飽きている。というより、聞きたくない。的確すぎるあまり、叶子までもダメージを負って苦しくなるから。
志穂がチームを去ってから一ヶ月が経ちつつある。30人31脚への不参加を表明して以来、とうとう志穂は夏休みの終わりまで一度も練習に姿を現さなかった。叶子の知る限り、プール開放の場にすら顔を出したことがない。よほどみんなと顔を合わせることに抵抗感があったのか、二学期が始まってからも放課後になると一目散に帰宅準備を終え、練習に出向くみんなの視線を逃れるようにして帰宅していたようだ。もちろん二度の合同練習にも顔を出しておらず、二度目の練習で悲願の五十メートル走破を達成したことは叶子の口から事後報告した。胸を撫で下ろしながら「そっか」と笑う志穂の目元があんまりにも寂しそうで、見ていられなくなって目を背けたことを覚えている。
志穂はすべてを諦めてしまったのだ。
チームの輪に戻ることも、30人31脚の舞台に立つ夢も。
「はぁ……」
生ぬるい溜め息が口元を濁す。叶子は首を振り、いそいそと階段を下りて職員室を目指した。過ぎたことにばかり思いを馳せてもいられない。たとえ志穂がチームに復帰してくれなくとも、残ってくれたチームメイトとともに最善を尽くすのが実行委員の役目だ。すでに一組は念願の五十メートル走破を成し遂げている。こちらの夢はまだ、届く可能性のある範囲に踏みとどまっている。
職員室のドアが目の前に現れた。
「失礼しまーす」
声をかけたが返事はない。両手がふさがっていたので、非礼とは思いつつも足で扉を引きずって開けた。中休みの職員室は先生たちでいっぱいだった。その一角、パーテーションで区切られた応接間のような空間に理紗先生が腰掛けているのを、背の高い叶子はすぐに見つけ出した。
ぱたぱたと駆け寄りかけた足が、減速して、やがて止まった。
理紗先生は誰かと話し込んでいた。いや、尋問を受けていた。理紗先生を取り囲むように腰を下ろした数人の先生が、決して優しくはない面持ちで口々に言葉を投げかけている。そのなかに鈴木校長の姿もあるのを認め、叶子はうっすらと鳥肌が立つのを覚えた。
嫌な予感がする。
少なくともこれは、理紗先生に有利な話がなされている空気じゃない。
「ですから、安全管理の徹底には最善を尽くしています。練習管理の具体的な方法については日頃から何度もご説明申し上げているはずですが……」
北島先生の声がパーテーションの奥から聴こえてきた。姿が見えなかったが、どうやら北島先生も理紗先生と同じく、尋問を受ける側に回っているようだ。こっそり忍び足で近寄って、叶子は聞き耳を立てた。いざとなったら「宿題を出しに来ました」とでも言えばいい。両手に抱えた鈍重なワークブックの山も、使いようによっては大義名分になる。
「その点は我々も分かっているんだよ。北島先生にしろ高橋先生にしろ、我々や保護者への説明を怠っているとは思っていない。まぁ、高橋先生の一組に関しては、現に保護者からのクレームが過去に何度も入ってるわけだが……」
「でしたら何が不足だとおっしゃりたいんですか? もちろん改善点があれば我々も全力で対処しますが、さっきから『とにかく練習をやめろ』の一点張りではないですか!」
「世間の空気を読んでほしいと言いたいのです。学級活動における児童の取り扱いについて、いま世間は非常に敏感になっている。知っていないとは言わせませんよ。あれだけ大きく報じられたのだから」
「……南五日市小の件ですか」
理紗先生の沈んだ声がどくんと胸を打った。
聞き覚えのない学校名だ。手に汗を握る叶子の向こうで、パーテーション越しに「そうです」と校長が声を大きくした。
「練習中の大クラッシュで児童二名が骨折を伴う大怪我。しかも全治数か月。洒落にならない事故ですよ。いま我が校が同じことを繰り返せば、いったいどんな事態に陥ると思いますか。下手をすれば放課後のクラブ活動や地域スポーツへの参加にすら影響を及ぼしかねない。そのことをもう少し自覚していただかないと困るんです」
「ですから鈴木校長、私たちはまさにその同じ事故を起こさないように安全配慮に全力を尽くしているわけでっ……」
「そんなものは南五日市小だって同じだったはずでしょう。30人31脚などという危険極まりないスポーツを小学校として実施するのだから、どこの学校だって指導教諭にはそれなりの安全配慮義務を課していたはずです。それでもなお、例の学校は事故を防げなかったんですよ」
「なぁ、君たち二人の気持ちはよく分かる。教え子の晴れ姿を見たいというのは、あらゆる教師の抱く夢だ。けれども我々は同時に、大事な命を親御さんから預かっているという意識を忘れちゃいかん。例の事故に対する世間の反応を見ていても、やはり30人31脚の危険性そのものを問題視する向きは多いようだし、ここで断念する方が世間の理解を得られるのは確かだ。いっときの夢のために教え子の人生を捧げるわけにはいかない、そういう考え方にはなれないかな」
なんだか居ても立ってもいられなくなった。叶子は理紗先生の机を探して、宿題の山を積み上げ、挨拶もそこそこに職員室を逃げ出した。初めからそうすればよかったのだが、中途半端な好奇心が花開いたばかりに、知りたくない事実を聞きつけてしまった。
一組の30人31脚への挑戦はふたたび危機に瀕している。
せっかく五十メートルを走れるようになったばかりなのに。
逃げ込むように入ったトイレの個室で、こっそり持ち込んでいたスマートフォンを起動した。南五日市小とかいう学校の名前を検索エンジンに入力すると、すぐに事の次第を語るニュース記事を発見することができた。それによれば、南五日市小というのは東京都あきる野市にある市立小学校で、六年生のクラスが30人31脚に挑むべく猛練習を積んでいたらしい。しかし過酷な練習が祟って大事故を起こし、数名の子どもが重傷を負ってしまった。この一件をおおいに問題視したあきる野市の教育委員会は、ただちに南五日市小に30人31脚の練習をやめさせ、大会への参加も放棄させたというのだった。
事故が起きたのは一週間前。折しも一組が二度目の合同練習を成功裏に負え、一致団結して大会への闘志を燃やしている時期の出来事だった。事の次第を知った大手新聞・日産新報の手で、一件を報じるニュース記事が配信されたのが昨日のこと。30人31脚そのものが前時代的だとか全体主義的だとか、ニュース記事のコメント欄には色々な言葉が書き込まれていた。小難しい言葉の意味は叶子にはよく分からなかったが、ともかく30人31脚そのものが厳しい批判の目にさらされていることは、前後の文脈をたどるまでもなく明らかだった。
ようやく叶子にも校長たちの腹が読めてきた。つまるところ校長たちは、岩戸小が二の舞になるのを嫌がっているのだ。だからああやって先生を呼び出してみんなで囲んで、出場をやめるように迫っていたのか。
「そんな……」
にわかに視界が暗くなって、叶子はスマートフォンを取り落としかけた。五分前の予鈴が遠く聴こえた。一組のみんなにこのことを話すべきか、何も聞かなかったふりをするべきか。落胆で重くなった頭では結論を出せず、とぼとぼと教室に向かった。
話したくない。
話せるわけがない。
うちら、今度こそ本当に走れなくなるかもしれない──だなんて。
「……わたしのせいだと思うから」
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