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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
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44 五十メートルの彼方へ【後】

 



 とうとうこの時が来た。

 深呼吸で肩の凝りを溶かし、連れ立ってスタートラインに向かった。

 順に足紐を結び、肩を組んで陣形を完成させてゆく一組を、駆け付けた朱美も春菜も固唾(かたず)を飲んで見守っている。理紗先生の姿はそこにはない。病状の回復が十分ではなく、間に合わなかったようだと菅井先生から聞いた。もちろん今日、一組が満を持して二組と合同練習を実施することは、きちんと理紗先生にも報告していた。

 結わえつけた足紐を康介は見下ろした。

 この一週間、一組は大会側が送ってくれた練習用の赤い足紐ではなく、オンライン通販で春菜が手に入れてくれた青色の足紐を使用していた。長さも、太さも、装着方法も、正規品と変わらない。ただ少し、見た目がすっきりして、持ち上げる足が軽くなったように錯覚する。

 紐の存在など意識しなくても済むほどに、この足が軽く、しなやかに動いてくれたなら、あのゴールマットまで飛んでゆけるだろうか。五十メートルの手前でくずおれ、挫折しかけるたびに、そんなことを何度も夢想した。康介ひとりの足で五十メートルを駆けることは何も難しくない。二人、四人、いや六人であっても走り切れる。けれどもクラスほぼ全員となれば話が別だ。思い通りに動いてくれない両隣の足は、康介にとっては足枷以外の何物でもなかった。もっともそれは誰しも同じことなのだと、今なら分かる。仲間意識の欠如の激しかった一組は、互いの足を枷としか認識できず、事実そのおかげで毎度のように地面へ叩きつけられてきたのだ。

 ここで走り切れるかどうかが、このクラスの行く末を占うことになる。30人31脚の去就に限った話じゃない。このままバラバラの絆で卒業してゆくか、それとも同じ芯を胸に宿しながら旅立ってゆくか──。六年一組は今、その真価を問われている。


「……みんな」


 全員が組み終わったのを確認して康介は叫んだ。


「あのマット、みんなで蹴散らしてやろうぜ」


 左手で掴んだ祥子の肩が、音も立てずに強張った。稜也も、佑珂も、叶子も、誰ひとり康介の言葉に応じなかった。いまさら煽り立てるまでもなく、みんなの意識はゴールマットだけに注がれている。

 ──先生。

 どこにいるのか知らないけど、見ててよ。

 おれたち、きっと約束、守ってみせるよ。

 込めた祈りは穏やかな熱に変わって、短パンから伸びた二本の足に流れ込む。


「位置について」


 北島先生が号令をかけた。

 左足を引き、スタート姿勢を作った。

 おもむろに北島先生が「用意」と続けた。30人31脚のスタート合図は、全員がスタート姿勢のまま静止するのを待って行われる。つま先の角度を整え、前方を睨み、康介はぴったり身体を止めた。祥子が、夏海が、全員が止まった。

 風が()いだ。

 しんと響いた静寂に、北島先生の大声が轟いた。


「──ドン!」


 蹴り出した足が宙を舞った。掛け声の歩数を叫びながら、康介は順に足を振り上げた。


「1、2、3、4、5、6、7、8!」

「1、2、1、2、1、2、1、2!」


 青色の足紐は嘘みたいに軽かった。力任せに蹴り上げることをやめ、両隣の走力に合わせて角度を調整した康介の足首は、まるで付け根から翼が生えたようにたくましく地面を踏み鳴らし、蹴り上げた砂を後方へ吹き飛ばした。五十メートル先の白線が迫ってくる。夕陽に焼き付けられた三十人分の巨大な影が康介たちをぐんぐん追い越して、一足先にゴールマットへ飛び込んでゆく。それでも康介は焦らなかった。二組の完走も、いつか出会った見知らぬ他校の圧倒的な走りも、ここまで来れば意識の範疇外だった。外の世界の邪魔者になど構ってはいられなかった。

 あのマットに辿り着きたい。

 今なら、ひとっ飛びで行ける気がする。

 あと二十五歩、二十歩、いや十歩か──。


「1、1、1、1、1────ッ!」


 無我夢中で重ね続けた歩数カウントは衝撃とともに途切れた。もんどりうってバランスを崩し、全身を打ちすえられ、康介は声にならない悲鳴を上げた。激しく旋回した視界がブレを取り除き、三半規管が冷静さを取り戻すまで、何が起きたのかも分からなかった。よもや転んだのか。ぞわっと這い上がった危機感に抗いきれず、足紐を引き剥がして上体を起こした康介は、そこが白い横長のマットの上であることに初めて気づいた。

 三十人全員が、ゴールマットに倒れ込んでいた。

 危機感は音を立てて爆散した。その凄まじい衝撃にまみれながら、康介はゴールライン上にいる二組の監督がストップウォッチを読み上げるのを茫然と聞いた。


「十一秒三七」


 聞き間違いでなければ、彼はそう言った。

 にわかには信じられない。二組のベストタイムは十一秒五八だったはずだ。たった一度、五十メートルを走破しただけの一組が、そう易々と記録を塗り替えられるはずはない──。そこまで考えてようやく、康介は自分たちが五十メートルを走り切ったことに思い当たった。

 感激する間もなく、誰かがすっ飛んできた。


「やったぞ康介! 走り切ったぞ──!」


 健児だった。勢いのままにゴールマットへ押し倒された康介は、ようやく身体を起こした一組のみんなが思い思いに感動を分かち合う光景を目にした。祥子と叶子と佑珂は三人で手を取り合い、信じらんない、本当に飛び込めたといってぴょんぴょん飛び跳ねている。桜子と夏海は呆然と互いを見交わしている。遠く離れた右サイドでは、駿や優平や琳に囲まれた稜也が揉みくちゃにされている。どうやら康介は完全に出遅れた格好だ。

 出遅れたって構うものか。

 叩き出した成果は逃げたりしない。

 たとえ明日が来ても、一週間が過ぎても、この成果は永遠に康介たち一組のものだ。目標距離の五十メートルを走り抜け、先をゆく二組のタイムをたった一度の挑戦で(くつがえ)した成果は──。


「やったっ……」


 じゃれついてきた健児に康介も飛び掛かった。


「やった、やった、やったやったやった!」

「これで諦めなくて済むぞ!」

「ほんとだな! おれたち大会を目指せるんだ、目指していいんだ……!」


 まだそうと決まったわけでもないのに、炸裂した感慨が勝手なことを放言してしまった。五十メートルを突破した暁には、大会への参加の()()()()()()()。それが康介たちの交わした約束だ。

 いそいそと居住まいを正し、健児と連れ立ってゴールマットを出た。「やったね!」と叫んだ朱美が、春菜が、北島先生が、そして二組のみんなが、慌ただしく一組のもとへ集まってきた。


(わたし)ゃ誇らしいよ。みんな、ちゃんと約束を守ったねぇ」


 朱美は早くも声を震わせていた。今度の練習で目標突破が叶わなければ一組が30人31脚から手を引くことになっていた旨は、もちろん朱美や春菜も心得ている。今度のゴールはただのゴールじゃない。一組の未来を、夢を、明日からの日々に継走するバトンタッチでもあったのだ。

 感想を求める無言の圧が、最前列にいた佑珂へと押し寄せる。佑珂は不器用に「えへへ」と顔をほころばせた。


「私、すっごく嬉……」


 不意に佑珂は目を丸くした。

 壊れるほど開かれた瞳孔がキュッと引き締まり、小柄な佑珂は脱兎のごとく飛び出した。取り残された叶子が「どこ行くの!」と叫んだが、佑珂は止まらなかった。その背中は二つ連なった岩戸小の校舎の狭間へ飛び込み、夕闇色の影に呑まれて見えなくなり、やがて、もうひとつの人影をともなってふたたび現れた。

 驚きのあまり、気管が潰れたかと思った。

 佑珂に付き添われて出てきたのは理紗先生だった。


「先生……!?」

「来てたの!?」

「えっ、いつから?」

「授業の時いなかったよな?」

「練習中だっていなかっただろ」


 動揺のあまり周囲がざわつく。哀れ、得意満面の佑珂に無理やり手を引かれ、理紗先生は一組の前に立たされた。二組の面々は空気を読んで下がっていった。無数の視線を一身に食らった理紗先生は、必死に肩を縮めていた。動揺しているのは傍目にも明らかだった。


「あ……」


 二度、三度と唇を震わせ、理紗先生はやっと言葉を絞り出した。


「ごめんね……。本当はまだ、本調子じゃないんだけど、居てもたってもいられなくて、さっき来たばっかりで……」

「おれたちが走ってるところは見てくれた?」


 みんなを押しのけて康介は前に出た。何よりもまず、その点だけは確認しておかねばならなかった。果たして、先生は唇を噛み、小さく首を垂れた。


「そこの通路の下で、ぜんぶ……見てたよ」


 だったらどうしてそんなに悲しい顔をするのだろう。こんなもの、教え子の快挙を前にした教育者の浮かべるべき表情じゃない。呆れかけて文句を言おうとした康介は、ふと、理紗先生の佇まいを見回して、無言のうちに事情を悟った。

 先生はみんなの反応を恐れている。

 夏休みが明けてから一度も姿を現さず、学級運営を放棄し続けたダメな担任を、みんなはいまだに見放したままなのだと悲観している。

 逆だ、と康介は思う。見放されたように感じていたのは一組の方だ。夏休み練を打ち切られ、担任の仕事さえも投げ出されたみんなは途方に暮れた。()け口を失った不安が実行委員に炸裂することもあった。それでも最後には先生の残した30人31脚という宿題を無下にせず、遮二無二な努力を重ねて五十メートルを走り切った。それは敗戦の屈辱を味わった反動だけのなせる(わざ)じゃないはずだ。

 屈辱を晴らすだけなら30人31脚にこだわる必要はない。

 それでも一組は走ることを選んだ。

 実行委員の懇願を受け入れ、全力を尽くした。

 いつか先生が戻ったときのために──。それが練習再開の合言葉だった。たとえ理紗先生がどんなに苦手でも、最後に交わした言葉が辛辣でも、みんなは理紗先生の帰還を待ち続けたのだ。


「見てくれてたなら分かるでしょ」


 康介は肩の力を抜いた。しばらくぶりの素直な笑顔がふわりと浮かんできた。


「おれたち、約束は守ったよ。五十メートル走れるようになった」

「うん……っ」

「もう、おれたちのこと、諦めないでくれる?」


 畳み掛けた瞬間、理紗先生の目から一気に涙があふれ出した。


「ありがとう、っ」


 嗚咽に溺れながら先生は叫んだ。腕を押し当てて、頬を拭って、眉も口元もぐしゃぐしゃに歪めて、普段着姿の理紗先生は地面に崩れ落ちた。


「ありがとうっ……ごめんねっ……ほんとに……ほんとにっ……ありがとうっ……!」


 半泣きの佑珂が理紗先生に寄り添った。やられた子が何人もいたのか、鼻をすする音がいくつも響き渡った。理紗先生は地べたに膝をついたまま泣きじゃくっている。どんなときも笑顔を欠かさず、腹を立てても声を荒げず、悲しい時も眉を傾けようとしなかった理紗先生が、まさに今、初めて一組の前で本物の感情をさらけ出していた。

 本性を見せることは、相手を信頼するのと同じ。

 ついに理紗先生は一組へ心を開いてくれたのだ。


「なぁ、円陣とか組まねぇ?」

「そうだよ。なんか最後はパーって終わろうよ」

「泣いて終わったら後味悪いよな」


 明宏や夏海や貴明が居心地悪そうに耳元へ囁いてきた。緩みかけた目尻をちょっぴり拭って、みんなを見上げて、康介は白い歯を見せた。


「──やろっか!」



 九月上旬。

 苦心の末に乗り越えた壁の先で、六年一組はふたたび、一つの円を描けるクラスになった。

 行く手の空は晴れ渡っている。差し込んだ西陽はみんなの肌を例外なく焦がし、浮かんだ汗はやがて頬を落ちて、凝り固まったわだかまりを地面へ流し落としていった。




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