43 五十メートルの彼方へ【前】
二組の練習内容は、あろうことか大幅にグレードアップしていた。
ランニング十五周。
縄跳び一五〇回。
もも上げ二十回、五セット。
五十メートル倒れ込み直線走、三十メートルスタートダッシュ、それぞれ五セット。
そして、二人三脚や四人五脚での五十メートル走、それぞれ五セット。
以前の一組ならば縄跳びの時点でダウンしていたような、量も種類も盛りだくさんの内容だ。どうやら二組の側も意識して練習メニューを強化していたらしい。だから、難なく食らいついてメニューを消化してゆく一組の姿に、二組の面々は少なからず驚きの目を向けた。
「すっげぇな。全然バテてないじゃん」
「いつからそんなマッチョになったんだよ」
「別にマッチョにはなってねーけど……」
二組の親友──秀仁や壮太たちのズレた感嘆を適当に受け流しつつ、康介は黙々と地面を蹴った。スタートラインに両足を揃えて前方に身体を傾け、倒れそうになる寸前でスタート。そのまま、五十メートル先のゴールを切るまで猛ダッシュで走り抜ける。耳元を切った風がひゅうと鳴って、砂の匂いにむせそうになる。
前傾によって移動した重心を走りながら立て直すことで、複数人で走る際の体重移動の感覚を鍛えるのが、この倒れ込み直線走と呼ばれるトレーニングの目的だ。30人31脚は各人が全力で走るだけでは成り立たない。柔軟に体重や速力のバランスを整え、転倒や隊列の崩壊を防ぎながら走らねばならないことに、この競技の独特の難しさがある。はじめのうちは二人三脚さえ満足に走れなかったっけな──。スタート地点に戻って足紐を取り出しながら、数か月も前の一組のありさまを康介は思い返した。二人三脚をやるからペアを組むようにと、向こうで北島先生が指示を出しているのが聞こえた。
「やろうぜ」
明宏が声をかけてきた。「おう!」と応じて隣へ並び、二人でスタートラインの行列に加わった。二クラスの合同練習となると、さすがに人数が多い。康介たちの前には十組以上が待機している。スタートラインに立つまでにはしばらく時間がかかりそうだ。
「一週間、あっという間だったな」
太い腕をさすりながら明宏がつぶやいた。
「ほんとだよな。おれ、正直あんまり何やってたか覚えてないよ。あっという間すぎて」
「実行委員なんだからそのくらい覚えてろよ。だいぶ五十メートル走のタイム上がってただろ、俺」
「それは覚えてる。てか、みんなタイム上がったよ。びっくりするくらい」
「みんな意外と本気でやってたもんな」
「うん。本気だった。すっげぇ真面目にやってくれた」
康介は受けた感銘を隠さなかった。結果論だが、一週間という明確な練習期間を決めていたのが大きかったのだろう。一週間だけなら頑張れるとばかりに、昼休みの練習にもみんなは率先して飛び出していった。あるいは単に、前回のような敗戦を繰り返したくなかったからかもしれない。それならそれでいい。
「やれることはやっただろ、俺ら。自由ひろばでの練習は結局できなかったけど……」
思いっきり腕を伸ばした明宏の目が、五十メートル先に並べられたゴールマットを映した。康介も真似をしてゴールマットを眺めた。地面に接している側は土気色に汚れているが、上半分はまだ、出荷時の上品な色を保っている。ほとんど人が飛び込んでいない証拠だ。それとなく秀仁たちに探りを入れてみたが、あれから二組の方も数度しか五十メートル完走を果たしていないらしい。
「いつもよそのちっちゃい子が遊んでたもんな、あの広場。おれたちが自主練やろうとした日が奇跡的だったんだろうな」
「奇跡でも何でもねーだろ。結局よその学校に取られちまったんだから」
「まぁね」
「あいつらのことはいつか絶対に見返してやりてぇ」
明宏が拳を握り固める。「ビビってたくせに」と笑ってやったら、とたんに明宏は顔を赤くして縮こまった。
「……マジ悪かったよ、あの時は」
いまさら気を悪くはしない。ああやってみんなを代表して矢面に立つのもリーダーの役目なのだと、いまの康介はちゃんとわきまえている。結局のところ練習場所を奪われてしまい、役目を十分に果たすことはできなかったが、あのまま練習して大事故を起こすよりはよかったのかもしれない。すべては結果論でしか語れないのだ。
だからとて、敗戦を結果論では片付けたくない。
今日のために一組はみっちり鍛錬を積んできた。
自由ひろばの確保に失敗したおかげで五十メートルの全員ランは一度も実施できなかったが、それさえ除けば万全の準備はできたと思っている。あとは、天を味方につけるだけ。これだけやってもなお五十メートルを走れなければ、約束通り一組は30人31脚から撤退するしかない。それが、みんなの前で実行委員みずから課した公約だから。
「俺さ。お前のこと、どっかでバカにしてたような気がする」
徐々に走順が迫ってくるのを見つめながら、明宏がつぶやいた。
「実行委員とか何とか関係なく、ずっと前からさ……。身体もそんなに大きくねぇし、テストの点数だって俺の方が高いくらいだし。だからお前が実行委員を引き受けて頑張ってる時も、心のどっかで舐めてかかっちまってたんじゃないかなって思うんだ。こいつがリーダーなんだから適当に楽しく走ってても許されるだろ、みたいにさ」
「明宏だけじゃないと思うけどな。みんなそうだったのかも」
「分かんねぇけど。でも、少なくとも今は違ぇんだよ。この一週間、ずっとみんなの先頭に立って練習やってたお前ら、ちょっとかっこよかった。こいつらにならついてってもいいかなって初めて思えたんだ」
明宏はガリガリと後頭部を掻きむしった。
「変な話だよな。お前ら実行委員はきっと、今までもずっと真剣に練習やってたのに、なんかこの一週間で急に見え方が変わったんだよ。自分でも理由が分かんねぇけど」
たぶん、信頼がなかったからだ。理紗先生と交わした話を康介は思い返した。ほんの一週間前まで、一組のみんなは理紗先生と同じくらい、実行委員を信頼していなかった。康介たち実行委員もみんなの意見に対して真摯でなかったのだからお互い様だ。克久の件やら志穂の件やら、次々に押し寄せるトラブルへの対応に追われるばかりで、康介たちにはクラス全体のことを見る余裕がなかった。いや──そもそもそんな発想さえなかったことを、二学期に入ってからの期間で一気に思い知らされた。
もはや先生の威光には縋れない。
自分たちですべてを考え、実行するしかない。
そこまで追い込まれて初めて、康介たちは変わった。明宏の言うように外形的な見え方が変わったわけじゃないのだ。
「前の合同練習のとき、俺、お前らに色々と言い過ぎちまったよな」
うつむいた明宏が、ためらいがちに「悪い」と吐露した。
笑って返してやれるだけの余力を、いまの康介はちゃんと持ち合わせている。「へへ」と笑った途端、前列で待機していた子たちがスタートラインを飛び出した。五十メートルのコースが行く手に現れる。腰を下ろして足紐を結びながら、康介はきっぱり言った。
「謝るのはみんなで五十メートル走り切れたらでいいよ。それまではお預けだ」
「……そうだな」
にっと口元を不敵に歪めた明宏が、おもむろに康介の肩へ腕を回した。
二組の走りっぷりは今度も圧巻だった。大波のごとく五十メートルを走破し、最速記録更新となる十一秒五八のタイムを叩き出しながら、二組はゴールマットへ勢いよく飛び込んでいった。さすがの一組もこれには圧倒された。それもそのはず、二組はわずか一週間で、前回時点でのベストタイムから〇・七秒近くも記録を縮めたことになる。かたや一組といえば、五十メートルを走り切れるかどうかも怪しい線上だ。
「マット飛び込み慣れてるなぁ、あの子たち」
「当たり前じゃん。何度も五十メートル走り切ってんだから。マットの手前にすらたどり着けないうちらとは違うんだよ。実力差が目に見えるようになっただけでしょ」
「うっさいな! そんなもんあんたに講釈されなくても分かってるし」
「あーあ。あいつら、まるで平気な顔して走り切っちゃってさ。こっちは転ばないように走るのが精一杯だってのにな……」
腕組みをした夏海と桜子が、行く手に並ぶ白亜のゴールマットを見つめながらため息をついている。「辛気臭ぇなー」と康介は二人を睨みつけた。
「いまから転ぶこと心配してどーすんだよ。いつも通り、おれたちの実力通りに走ろうぜ」
「はぁ? バカ言わないでよ。うちらのどこに五十メートル走り切れる実力があるっての?」
「そんなもん走ってみなきゃ分かんねーだろ」
「分かるよ。ていうか分かれよ。みんなの顔を見てみなよ、そんな余裕あるやつなんて誰もいないでしょ。ひとり残らず緊張でガチガチじゃん」
「いまさら緊張なんてしねーって」
小刻みに震える足を器用に組んで誤魔化しながら、康介は笑い飛ばした。
真っ赤な嘘だ。緊張するに決まっている。けれども二人に余計な心配をかけたくなかったから、かたくなに平気なふりを貫いた。一人前のリーダーたるもの、弱っているところをみんなに見せてはならない。だってそんなの恥ずかしいし、頼りないから。
頼りないリーダーを一瞥して、桜子は目を伏せた。
「やめなよ。虚勢を張ってることくらい一目でバレるんだから」
「ば、バレてねーよ。なんの根拠があるんだよ」
「五十メートル走破の方がよっぽど無根拠だっての! 考えてもみなよ、うちら夏休みの最後の一週間、なにも練習してないんだよ。だいたい練習の集合率だって低かったし、練習量だって少なかったし、練習態度も真面目じゃなかったし、みんなバラバラだったしっ」
「お前、それ……」
「分かってんだよ。うちが原因だってことくらい」
桜子は砂ぼこりの立つ地面を睨みつけ、細い声で吐き捨てた。必ずしも桜子が原因の全てではないと康介は思ったが、話を遮ることはしなかった。
「うちがあんなに輪を乱すような態度ばっかり取らなきゃ、きっとみんな普通に練習できたんだ。ぜんぶ分かってる。嫌になるくらい自覚してる。だけど今さら取り返しなんてつかないじゃん。たった一週間の直前練習で帳尻を合わせられるなら、初めから苦労する必要なんてなかったじゃん。そりゃ、二組の前で格好悪い姿なんて見せたくないから、やれる限りのことはやったけど……」
「だったらみんなで取り返そうよ」
不意に、康介の隣へ佑珂が出てきた。びっくりした康介は思わず「ウワ」と叫んでしまった。存在感の小さな佑珂は、ときどき忍者みたいにいきなり出現する。
思いがけない闖入者を桜子が見上げた。佑珂は桜子の視線から逃げなかった。
「大迫くんのお母さんが教えてくれたもん。速い子と遅い子がいるのは当たり前、それをみんなで補い合って走るのが30人31脚の醍醐味なんだって」
「……だからなんだっての」
「やれる限りのことはやったって私も思ってる。土井さん一人が上手くいかなくたって、みんなで頑張って取り返すよ。そのために私たち、足を結んで一緒に走るんだよ。だってチームだもん。クラスメートだもん。大事な仲間だもん。土井さんが仲間だと思ってくれなくたって、私は思ってるもんっ」
あの気弱な佑珂が、見たこともない必死さで説得の言葉を紡いでいる。呆気に取られた桜子が「なんで……」とつぶやいた。口の悪い美少女を見つめ返す佑珂のつぶらな瞳が、静かなおののきを孕んで小さくなった。
「だ、誰か一人でも諦めちゃったら、このチャレンジ、ぜったい失敗しちゃうと思ったから。それで……」
差し出がましいことを口走ったと思ったのだろうか。佑珂はうつむきがちにきびすを返して、逃げるように叶子たちのたむろする場所へ戻ってゆく。これが不器用な佑珂なりの勇気の振り絞り方だったんだと、茫然とする桜子たちの前で康介は感慨を深めた。こわばりかけの身体が少し、熱を持った。
「聞いてたかよ、土井。おれも同感だぜ」
畳み掛けたら、桜子は「分かってるし……」とうめいた。
そうとも。30人31脚での五十メートル走破を夢に掲げた一組は、もはや一蓮托生の運命共同体だ。一人がつまずけばみんなが転ぶ。一人の油断がすべてを台無しにする。逆に言えば、誰かのつまずきや油断をみんなでカバーして、なかったことにすることだってできるはずだ。たとえそれで五十メートルの走破が叶わなくとも、その責を桜子ひとりになんて負わせない。一組の問題は一組みんなで背負ってみせる。
うつむく桜子の瞳に、ぼうと炎が燃え上がったのを見た。夏海はいまだに佑珂の加勢の衝撃に酔っている。一安心を覚えた康介は前を向いた。折しも、スタートラインに立った北島先生が「よーし」と声を張り上げたところだった。
「一組、スタート準備をしようか!」
「もう、おれたちのこと、諦めないでくれる?」
▶▶▶次回 『44 五十メートルの彼方へ【後】』




