42 「遊ぶ約束」
勇気を出して康介は登校を再開した。
たった一日、学校を休んだだけなのに、気分はまるで長期休暇を挟んだようだった。
一組の空気は確かに変質していた。朝のホームルームが始まる間際になり、クラスメートの大半が顔を揃えても、雑談も笑い声もほとんど聞こえてこない。誰もが互いにそっぽを向いて、自分の世界に閉じこもっている。康介の相手をしてくれたのは健児だけだったし、その健児にしても神経質なほど声を潜めていた。
「なんかさ、小原先生がいなくなった時みたいだよな」
机にぐったりと上半身を投げ出し、健児は元気のない声で嘆息した。
「昨日もこんな感じだったのかよ」
「むしろ今日の方がちょっぴりマシかも。副校長もすげー困ってた。名前呼ばれても返事すらしないやつとかいたし」
「そっか。だからか……」
「高橋先生、本当に戻ってくんのかな。また前みたいな雰囲気に逆戻りすんのかな。オレ、もういやだよ。こんな空気の教室に通うの……」
健児の悲痛な声が、まだ膨らみの戻らない心をつついて割ろうとする。「心配すんなよ」と康介は小さく微笑んだ。きょとんと健児は目を丸くした。なぜ康介が笑っていられるのか、ちっとも理解できていないようだった。昨日の訪問に同行していなかったのだから無理もない。
朝のホームルームは名前を読み上げられるだけで終わった。
「誰か、連絡事項のある人は……」
菅井先生がためらいがちに尋ねたのを見計らって、思いっきり手を挙げた。叶子たちも挙げていた。もちろん事前に示し合わせてやったことだ。やや戸惑い気味に菅井先生は康介たちを見回して、いちばん早く手を挙げていた佑珂を指名した。
康介たち四人は教室の前に躍り出た。
「実行委員から話があります」
わざと叶子が大声を張った。凛と響いた力強い声に揺さぶられ、ぼうっと窓の外を眺めていた子たちが反射的にこちらを振り向いた。この期に及んで何の話だ、とでも言わんばかりの非歓迎ムードを、康介は噛み砕いて奥歯ですり潰した。
「昨日、高橋先生のお見舞いに行ってきました」
叶子が均してくれた地面に一歩目を踏み出すつもりで、康介は丁寧に話を切り出した。
「先生、元気そうだった。たぶん近いうちに復帰できるって。小原先生みたいに二度と戻ってこないってことは、高橋先生に限ってはないと思います」
「本当かよ。小原先生の時だって最初は戻ってくるって言ってたんだぞ」
「ぜったい戻ってきます。おれたちが約束を取り付けたから」
康介は毅然と言い切った。疑いの声を上げた明宏は、すごすごと自分の席に収まった。
「そんで、ここからはみんなに提案です。このクラスに先生が戻ってきたとき、夏休み中みたいに30人31脚が走れなかったら、おれ、すっげぇ格好悪いなって思うんです。あと何日で戻ってくるか分からないけど、戻ってくることを信じて練習は続けたいんです。みんなは色々と思うところがあるだろうけど……」
口にして確認するまでもなく、みんなの目を見ていれば複雑な思惑の交錯は簡単に読み取れた。『30人31脚』という単語を聞いた途端、何人かは露骨に目を逸らした。チームに加わることを諦めた志穂、練習中に鼻を折った駿、練習量の不足を声高に叫んだ明日乃や貴明──。
少数意見を突っぱねたりせず、みんなが納得できるような落としどころを思案する。それが無理ならみんなを一生懸命に説得する。それこそがリーダーの責務だと、かつて姉のすみれに教えてもらった。今こそ、その教えを実践に移すときだと、康介は確信を得ていた。
「30人31脚をやるって決めてからしばらく経ってるし、あれからみんなの気持ちも色々と変わったと思う。やめたい、やりたくないっていう人の気持ちも分かる。だから、こういうのはどうかなって思うんです」
康介は一歩、前に進み出た。
「一週間後、二組との合同練習をもう一回やろうと思ってます。そのとき前みたいな惨敗の仕方をしたら、もう30人31脚は諦めよう。どっちみち、その時点でも五十メートルを走り切れなかったら、大会に出たって何もできない。もしも走り切れて、二組ともいい勝負ができたら、もう一度みんなで話し合おう。このまま練習を続けるか、それともやめるか、きちんと全員で話し合って決めよう」
例によって、このアイデアを考えついたのは稜也だった。五十メートルの走破さえ成し遂げられない様子なら、賛成派の子も諦めざるを得ない。反対に走破できた場合は、否定派の子たちの心境も変化する可能性が大きい。そのタイミングで話し合いの場を設ければ、より新鮮なみんなの民意をもとにして挑戦の是非を決められる。誰の声も否定しないし、無駄にしないで済む。おまけに、全員の意見を聞く機会をきちんと用意しているので、みんなも表立って反発しづらいわけだ。
「どう思いますか」
康介は畳みかけた。みんなは三々五々、互いの顔を見交わし始めた。それまでのような面会謝絶のムードが、ここにきてほんのりと和らぎだしていた。
「練習、どうすんの。高橋先生いなかったらやれないんでしょ」
恐々と手を挙げたのは夏海だった。すぐさま「やれないよ」と叶子が応じた。
「だから練習はしません。なぜかみんなが勝手に走ってるだけです。昼休み中は校庭で、放課後は近所の公園で。供養塚児童公園か、もし使えそうなら多摩川自由ひろばを使おうかなって思ってます」
「でもさ、さすがに誰も大人がいなかったら危ないんじゃないの」
「昼休みは勝手に走ってるだけなんだから危なくないし、監督だって要らないよ。放課後に関しては、また以前のように大迫さんと室伏さんに来てもらおうと思います。交渉はうちらが責任もってやります」
「オレの母ちゃんなら喜んで来るよ。すっげぇ退屈そうにしてたもん、最近」
健児が口を挟んだ。こらえきれず持ち上げられた口角に、健児の本心の在処は分かりやすく浮かんでいた。確認を急かされていると思ったのか、文李もおずおずと「うちも大丈夫だと思う」と申し出てきた。
これで練習の環境を整える道筋は立った。
残る難題は、みんなの意欲だけ。
「昼休みは先生も監督もいないから、練習メニューはみんなの意見を取り入れながらおれたちで考えます。なるべく無理のないように、誰も怪我しないように、ちゃんと全員に配慮した形でやりたいと思ってます。これまで上手くいってなかった部分はきちんとおれたちも反省して、これからの練習に生かそうと思ってる。……だから、みんな」
一拍おいて、康介は頭を下げた。
「お願いです。あと一週間、おれたちに付き合ってください」
渾身の懇願をみんながどのように捉えたのか、本当のところは何とも言えない。康介はスーパーマンじゃないから、みんなの思考なんてちっとも読めない。クラスメートたちの面持ちは一様ではなかった。ふてくされている子もいれば、不安げに身をよじっている子もいた。それでも目立った反論が噴出することはなかったから、きっと康介たちの提案は受け入れてもらえたのだと思った。
「終わったかね」
頃合いを見計らったように菅井先生が出てきた。いちおう念を押すつもりで、康介は先生の顔色を伺った。
「いまの話、職員室でしないでくださいよ」
「しないとも。遊ぶ約束を立てていたんでしょう」
菅井先生は苦笑した。捉えどころがないようで、静かな眼差しの底で場の状況をちゃんと読んでくれる副校長の人柄を、そのとき初めて康介は少し、信頼できる気がした。
本当の正念場はここからだった。
中休みに入るや否や、まずは四人で北島先生のもとへ交渉に行った。一週間後の合同練習の約束は無事に取り付けられた。一組の不振は北島先生にとっても懸念の材料だったみたいで、「一組のいい刺激になるなら大歓迎だ」と先生は笑って許してくれた。ついでに理紗先生の容態を「風邪」と偽った件についても糾弾しようかと思ったが、よけいな波風を立てたくはなかったので康介たちは大人しく撤退した。そもそも鬱のことをみんなに伏せている時点で、いまや康介も教師陣の共犯なのだった。
昼休みの練習メニュー考案にあたっては、足の速い駿や優平や万莉、足の遅い敏仁や知樹、一家言ありそうな明日乃や貴明など、なるべく多様な立場の子たちを集めて話し合いを開いた。昼休みは時間も短いし、危険な練習も行えない。したがって基礎体力をつける場にすべきだとみんなは主張した。昼食の直後にキツい練習をしたくない、という本音もそこには見え隠れしていたが、康介たちは何も気づかなかったふりをしてみんなの意見を尊重した。
昼休みは縄跳びや五十メートル走、スタート練習、直線歩行など、基礎的な練習をほどほどに実施。放課後は二人三脚から始めて三十人まで人数を増やし、本番に向けての本格的な練習を実施。ひとまず方針が決まったものの、今度は練習用の足紐やサポーターが必要になった。練習用具は理紗先生の机に保管されていて、先生が不在の間は持ち出せない。
「室伏くんのお母さんに相談してみようよ」
という佑珂の発案で、放課後、文李とともに室伏家を訪れた。文李の家を訪れた経験があるのは康介しかいない。会社社長宅だけあって、周囲の戸建て住宅より一回りも二回りも大きな室伏家の豪邸に、三人は例外なく驚いていた。
室伏春菜は康介たちの要求をすんなり飲んだ。使わなくなったら学校に寄付するといって、全員分の足紐と膝サポーターの購入を約束してくれた。やはり富豪の力は舐めたものではない。感激して何度も頭を下げる康介たちに、春菜はそっと笑いかけて語りかけた。
「あのまま諦めちゃったら寂しいねって大迫さんとも話してたところなの。また動き出せることになって、本当によかったわ」
30人31脚への挑戦は、もはや一組の内輪で片付く事柄ではない。岩戸小の先生たちや下級生にも迷惑をかけ、隣の二組にも影響を及ぼし、監督をはじめとした保護者たちにも多くの不安を与えながら、康介たちは校庭を駆け回り続けてきた。いきおい、関わってきた人々のさまざまな期待を背負うことにもなる。
みんなのためにも30人31脚への挑戦をやめたくない。
そのためにも、まずは五十メートルを走り切れなければならない。
室伏邸を出て空を見上げると、西の彼方に綺麗な夕暮れ色が広がっていた。あの晴れ渡った空が明日、康介たちの頭上に来る。練習初日の天気は心配なさそうだ。
「頑張ろうな」
誰からともなく言葉をかけて、四人で拳をつき合わせた。
この四人さえ折れなければ、きっと明日はいい日になる。その確信があまりにも心地よかったから、康介はなんだか泣きたくなった。胸の奥に燃え盛る決意の炎が、また一段と勢いを強めた。
「お前のこと、どっかでバカにしてたような気がする」
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