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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
43/63

41 同じ穴の狢【後】

 



「先生ね。ちょっと疲れちゃったんだ」


 理紗先生の瞳は康介たちを映していなかった。


「風邪だったのは本当だよ。夏休みが明けるまでに治さなくちゃと思って頑張ってたんだけど、どうしても疲れが抜けなくて、それで今まで長引いちゃったの。不思議だなって思うでしょ。熱も痛みもとっくの昔に引いてるのに、身体が動いてくれないの」

「先生が疲れたのって、おれたちのせい?」


 言葉を選ばずに康介は切り込んだ。不意打ちを食らってまごついたみたいに、先生はいっとき口をつぐんだ。


「正直に言ってよ。おれたちがいけないことしたっていうなら、これから頑張って気をつけるよ。ほかに悪いやつがいるっていうなら、おれたちがそいつに注意してやるもん」

「……優しいね、武井くんは」

「だって先生が戻ってこなかったら、また、みんなバラバラになっちまうから……」


 仮定の話をしているわけじゃない。二組への敗戦を通じて、すでに一組の絆はズタズタだ。あるいは絆なんて初めから存在しなかったのかもしれないが──。いずれにせよ、危機感などという半端な言葉では語れないほど、康介の胸は深刻な不安に浸食されている。きっと稜也も、佑珂も、叶子も、同じ懸念に(むしば)まれているはずだ。

 それでも先生は真っ暗な顔で微笑むばかりだった。


「みんなのせいじゃないよ」

「じゃあ誰だっていうんだよ」

「誰のせいでもないの。しいていえば、私のせいかな」

「なんでそうやって自分のことばっかり──」

「私がみんなのことを信じられなかったから」


 かすれて弱々しい、それなのに底冷えのする声だった。康介は言葉を取り落とした。姿勢を崩していた佑珂が青ざめながら「えっ……」と身を乗り出した。理紗先生の濡れた瞳は、ちっぽけな佑珂の姿も、はたまた周りを囲む康介たちの姿も映していなかった。


「みんな、もう六年生だもんね。先生に急かされなくても自分で考えて、みんなで協力して、色んなことができるようになってくる年齢だと思う。いわとまつりのこと覚えてる? あのとき先生はほとんど何もしなかったけど、みんな自分の力で立派なお化け屋敷を作り上げたよね」

「いや、だってあれは明宏たちが強引に……」

「リーダーをやるのは誰でもいいの。きちんとチームワークを発揮して結果を出したみんなは、ちゃんと立派だったよ。……それなのに先生は、頑張ったみんなのこと、心の底から信頼できなかった」


 声にもならない息を漏らして、理紗先生は寂しそうに笑った。


「みんなの力を見くびってた。先生が手を貸してあげなきゃ何もできないんだ、色んな手助けをしなきゃいけないんだって思い込んで、必死に理想の先生であろうとしてた。手助けするだけじゃない、ときにはみんなの頑張る目標を提供することも必要だと思ったから、それで──」

「──30人31脚を提案した、ってことですか」


 前のめりになった稜也が口を挟んだ。「うん」と理紗先生はこうべを垂れた。傍目には首が折れたかと見まがうような急角度だった。


「でも、今にして思えばお節介だったね。みんなはちゃんと自分で考えて、自分たちのやるべきことを考えられる子たちだった。私がやろうとしたことは結局、みんなに上から新たな目標を押し付けて、自分で考えることもやめさせて、あれをやれ、これをやれってお尻を叩くことにしかならなかった。みんなが反発するのも当然だと思うの」

「そんな……!」


 悲鳴を上げかけたのは佑珂だったが、ともすれば康介も同じ声を上げそうだった。いくらなんでもあんまりだ。これまで一組が頑張ってきたことには何の意味もなかった、といって突き放されたみたいじゃないか。

 いや。

 事実、そうなのかもしれない。

 みんなのためになるどころか、まるで逆効果であることに気づいてしまったから、理紗先生の心は折れたのだ。そして今もなお、取り返しのつかない罪悪感に苛まれている。さっきから康介たちを直視してくれないのも、きっと、そのせいだ。


「30人31脚はね、先生がみんなくらいの年齢の頃にテレビでやっていた大会なの。私は参加することができなかったけど、ずっと憧れながら番組を観てた。だから今年限りで復活するのを知った時は、運命めいたものを感じずにはいられなかったんだ。これがあれば、教師一年目の私でも一人前にクラスをまとめられるかもしれない、みんなに夢を見させてあげられるかもしれない……って思った」


 うなだれた先生の顔はいよいよ真っ暗になった。窓から差し込む金色の西日が、座り込んだ先生の前に長い影を落としていた。


「ごめんね。特に実行委員のみんなには、ずっと謝りたいと思ってた。先生の独善に付き合わせて、苦しい思いもさせちゃって、本当にごめん。本当だったら先生がぜんぶ責任を持ってやるべきだったの。みんなの気持ちを受け止めるのも、嫌な立場を引き受けるのも、本当は先生の私が担うべき役割だったの。私が未熟なばっかりに、こんな……」


 ぐすん、と佑珂が鼻をすすり上げた。稜也は唇を噛んでいた。足元に視線を落とした叶子が、膝に押し当てた拳を赤黒くなるほど握りしめている。小さく開きかけた口が、そのたびに震えを帯びて閉じられるのを、康介は何度も目の当たりにした。胸の中がぐちゃぐちゃなのはおれも同じだ、と思った。

 いろんな思いがあふれ返って、ちっとも収拾がつかない。理紗先生がようやく本音を開示してくれたのは嬉しいけれど、開示された本音は想像以上にどす黒く濁っていて、まともに受け止めたら嘔吐(えず)きそうだった。そこには徹底的な諦めが飽和していた。一組のみんなを信頼することも、みんなに信頼されることも、理紗先生は何もかも諦めようとしていた。「ごめんね」の四文字がこんなにも冷たく感じられたのは初めてで、どう噛み砕いてやればいいのか分からない。

 中途半端な場所で途切れた言葉をぶら下げたまま、理紗先生も黙り込んでしまった。表情すら読み取れないほどの(かげ)に覆われた顔を見つめていたら、不意に、ふつふつと心の奥が煮え始めるのを感じた。とうとう先生は康介のことを見てはくれないのか。ようやく少し先生のことを理解して、鬱のことも知って、この距離を縮められるかと思ったのに。

 みんなのことを信頼できなかったのが落ち度だと先生は言った。だったら今度こそ信頼しようと努力してくれればいいのに、先生は動かない。こうして家に引きこもって、すべてを手放すことに尽くしている。バカにすんなよと、心の奥で自分の声が叫んだ。先生との関係を諦めたくなかったからこうして家まで押しかけたのに、この気持ちを無下にされてたまるものか。こちとら、そんな生易しい気持ちで一時間もバスに揺られ、市境を二つもまたいで旅をしてきたわけじゃない。

 諦めたくない。

 諦められたくない。

 ぶわっと炎が燃え上がった。


「……負けねぇ」


 低い声でつぶやいたら、叶子たちが顔を上げた。痕がつくほど噛んだ唇を、康介は乱暴に解き放った。


「おれ、ぜったい負けたくねぇ」

「なんだよ急に……」

「有森も悔しいって思わないのかよ。おれたち、ちっとも信頼されてないんだぞ。一組の問題を何も自力で解決できない、役立たずの実行委員だって。みんなに思われるだけならまだしも先生にさえ思われてるんだぞ。悔しくねぇのかよ。おれはすっげぇ悔しいよ。悔しくて死にそうだよ!」


 最後の部分はいつかの叶子への意趣返しのつもりだった。みんなを見回して叫んだら、見開かれた叶子の瞳のふちに、ひとしずくの透明な光が膨らんだ。結んだ唇を震わせながら、叶子はうなずいた。佑珂も、稜也も、同じようにした。

 返す刀で康介は理紗先生を睨みつけた。


「先生。おれのこと見てよ」


 理紗先生はゆっくりと視線を持ち上げた。

 互いに地べたへ座り込んでいれば、視線の高さに大差が生じることもない。ようやく今、康介は理紗先生と対等になった。天岩戸をこじ開ける心の準備はできていた。


「おれ、簡単に投げ出したりしねーから」


 ハイライトの消え失せた瞳を覗き込んで、康介は唾を散らした。


「30人31脚は確かに先生がやりたかったことかもしれないけど、おれたちだって最初、自分からやりたいって手を挙げたんだよ。おれは今だってすっげーやりたい。みんなで一つになってゴールに飛び込んでみたい。だから30人31脚の練習も投げ出さなかったし、実行委員だってキツかったけど投げ出さずに来たんだ。みんなだって本当は諦めてないよ。諦めてないから悔しくなるんだよ。30人31脚のことも、先生のことも」

「…………」

「約束してよ。何日かかってもいいから、ぜったい一組に戻ってくるって。そしたらおれも約束守って、ぜったい先生に見せてやる。先生抜きでも頑張れる、頼りになるおれたちなんだってこと、何がなんでも証明してやる。たかが五十メートル、全員で足結んで走り切ってやる。誰がなんて言おうと約束する!」


 勢いのままに叫べたのはそこまでだった。ただ決意表明をしただけで、もともと自信も担保もあったものではない。ふらついた視線が先生の胸元を漂い、そのままゆっくりと下へ落ちてゆく。「だから」と康介は強引に視線を持ち上げた。


「諦めないでよ。見捨てないでよ、おれたちのこと……」


 エアコンが低速運転に切り換わった。しんと静まり返った部屋の中に、かすかに外の音が響き始めた。都道を行き交うバスの音、ねぐらに帰るカラスたちの鳴き声、風にさざめく葉っぱの歌──。何気のない雑多な賑わいが、限りのない勇気を康介に与えてくれる。外の世界から逃げたって何も始まらない。どんなに嫌でも、苦しくても、意見や立場や価値観が合わなくても、人々は互いに向き合って折り合いをつけながら生きてゆくしかない。それは社会という共同体の中で生きる人間の宿命なのだ。

 理紗先生が応じるまで康介は動かなかった。

 その間、約一分。

 まるで誰かの嘆きを代弁するみたいに、台所の水滴がいくつもシンクに跳ねるのを聞いた。






「あと一週間、おれたちに付き合ってください」


▶▶▶次回 『42 「遊ぶ約束」』

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