40 同じ穴の狢【中】
東京の街並みはどこまでも連続している。市町村の境目なんてものはほとんどあってないようなもので、人々の生活圏は自治体の垣根を越えて柔軟に広がっている。市内で完結するサービスといったら、せいぜい義務教育くらいのものだ。消防、ゴミの処理、上下水道、イベントや公共施設の運営──。どの街も互いに手を取り合い、多様な生活サービスの充実を図っている。
公共交通機関だってその一つだ。隣町の狛江駅前を発着する路線バスの中には、市境を三度も越えて遠くの街を目指す便がある。もちろん都市間輸送のためのバスじゃない。四つの市にまたがる人々の生活を支える、純粋な地域内輸送のバス路線だ。片道一時間の旅路のあいだ、一分おきに停車してはドアを開け、市井の人々が乗り降りを繰り返す。買い物帰りのサラリーマンもいれば、病院を出てきた高齢者もいる。足元では母親に手を引かれた幼児がはしゃいでいる。おそろいの制服に身を包んだ高校生たちが、仲良くスマートフォンを覗き込んでいる。
車内放送が次の停留所を読み上げた。
「お、次だ」
「どこ、ここ……?」
腰を上げて停車ボタンを押すと、車窓を眺めていた佑珂が不安げに尋ねてきた。すぐさま自分のスマートフォンを取り出した稜也が、地図アプリの画面を開いてみせる。GPSの座標は狛江市の二つ隣の街を指していた。
東京都三鷹市。狛江市の北西に位置する、十九万人の住まうベッドタウンだ。
「うち、こっちの方って一度も来たことないかも」
頬杖をついた叶子が、退屈げな眼差しを窓の外に注いでいる。「おれもないよ」と康介も窓を見上げた。
「だからちょっと不安になってさ、みんなに声かけたんだ。ひとりで踏み込むのはちょっと怖ぇもん」
菅井先生に教えてもらった理紗先生の住所は、狛江の町から何キロも離れた見知らぬ街の一角を示していた。自分ひとりではたどり着ける自信がなかった。だから、授業の終わる時間を待って岩戸小の近くまで出向き、往復分の運賃を握りしめて実行委員を探した。みんなの目を気にしているみたいに、稜也も佑珂も叶子も固まって歩いていたので、一網打尽にするのは簡単だった。
「なんでこんな遠いところに住んでるんだろ。もっと近くに引っ越してきたらいいじゃん」
「私、なんとなく理由わかるよ。学校の先生って転勤があるから、いつどこに転勤になってもいいように、交通の便利な街を選んで住む人もいるんだって」
「詳しいな」
「私のお父さんも学校の先生なの。その、水道中の……」
「だから遠くの島から引っ越してきたのか。ぜんぜん知らなかった」
「へぇ、川内そんなことも知らなかったんだ。うちはだいぶ前から知ってたけどね」
「悪かったな。どうせ俺は友達のいない人間スパコンだよ」
「ちょっと待てよ。おれもいま初めて知ったんだけど、それ」
わいわい騒ぎながら康介たちはバスを降りた。ようやく心が元のような膨らみを取り戻しかけてきた感触があったのに、バス停の向かいにたたずむ一棟のアパートを見上げた途端、脆い心は身体のこわばりとともに急速に萎れてしまった。
クリーム色をした五階建ての団地が夕陽を浴びている。
「ここだ」
勇気を振り絞って、康介は横断歩道を探した。
東京都営三鷹深大寺北アパート。この建物のどこかに、理紗先生の自宅がある。
部屋を探り当てるのは存外簡単だった。【高橋】と表札が掲出されている一室の前に立ち、震える指で呼び鈴を鳴らすと、間もなく足音とともに扉がゆっくりと開かれた。
「いらっしゃい。……本当に来てくれたんだね」
理紗先生だった。部屋着姿の先生は、傍目にもそれと分かるほどに青い顔をしていた。真っ先に口を開いたのはやっぱり佑珂だった。
「先生、大丈夫? しんどくないの? 風邪はまだ治らないの?」
「大丈夫だよ。ちょっとまだ、調子が戻らないだけ」
顔色はともかく、声の調子からは苦しげな様子を感じない。そっか、とこうべを垂れた佑珂が、先生のあとに続いて玄関に踏み込む。小声で「お邪魔します」と口ずさみながら、康介たちも佑珂を追いかけた。
部屋の中は肌寒くなるほど冷房が効いていた。残暑のはびこる外の世界とは、まるで気候そのものが食い違っているみたいだ。肩を震わせた叶子が、半袖のシャツから伸びた細い腕をさすり始める。
「寒すぎ……。もうちょっと温度上げてくださいよ」
「ごめんね。先生、暑がりだから」
「風邪ひきそうだよ。家族から何も言われないんですか」
エアコンのリモコンを手にした理紗先生は、叶子の何気ない文句に固まった。声にならない形ばかりの笑顔を繕いながら、先生はボタンを押し込んで温度を上げた。
「先生ね、独り暮らしなんだ。だから誰からも何も言われなくって、つい……ね」
独り暮らしにしては広い居間の景色を康介は見渡した。まるで家財道具を運び出したあとのように、ずいぶん物や家具の少ない居間だ。中央には雑多に布団が敷かれ、ゴミ箱の中には錠剤の包装が転がっている。なんで薬があるんだ、風邪を引いてたのは嘘だったんじゃ──。いぶかる康介の視線に気づいたのか、先生は布団を畳み、いそいそと隣の寝室へ持っていってしまった。
初めて顔を合わせた日のことを康介は思い出した。あの日も先生はこんな風に慌て気味で、テンパっていて、それからちょっぴり──よそよそしかったんだっけ。
「本当に身体、壊してたんですね」
捨てられたゴミを眺めていた稜也が、ぽつり、こぼした。「うん」と理紗先生は苦しげに微笑した。
「みんなには本当に心配をかけたと思うの。ごめんね」
「なんで先生が謝るの? 風邪ひいたのは先生が悪いからじゃないのに」
「そんなことないよ。先生の自己管理ができてなかったのがいけないんだもの。なにより先生に落ち度がなくたって、それで一組のみんなや岩戸小の先生方に迷惑をかけているのは事実だから」
「そうかもしれないけど、でも……」
促されるままに小テーブルを囲んで座り込みながら、佑珂が睫毛の長い目を伏せた。
こうしてやり取りを見守っていると、やっぱり最後に30人31脚の練習をやった日の理紗先生はどこかがおかしかったのだと実感する。過剰なほどに他人を気遣い、優しく目をかけて心配事を取り除こうとするのが、康介の目に映る理紗先生の従来像だった。これまで関わってきた幾人もの教師たちの中でも、理紗先生は群を抜いて穏やかな人柄の教師だ。その優しい先生が不意に牙をむき、自分たちの不遜な練習姿勢を糾弾し始めたことに、一組のみんなは動揺のあまり反発してしまった。よもや練習がお預けになり、先生が学校へ来なくなり、合同練習で大敗を喫する運命をたどるとは夢にも思わずに。
鬱とは心が疲れることだと、菅井先生が教えてくれた。それなら理紗先生はいつから心を病んでいたんだろう。駿が鼻を折った日の夜、校長に怒られたときに病んだのか。それとも練習中か。あるいはもっと以前から、カビの侵食を受けるようにじわじわと疲労が溜まっていったのか。いったい何が先生を壊してしまったんだろうか。
うっかり正座を選んだせいで、足元が疲れて落ち着かない。もぞもぞと座る姿勢を変えてみたら、テーブルの向こうから先生が「トイレ?」と顔色を伺ってきた。
「ううん」
きっぱり康介は首を振って、先生の目を見返した。
「トイレ行きたかったらそう言うよ。おれ、大人みたいに嘘つくの、苦手だもん」
「……そうだね。そうだよね」
「そんでおれ、今日は先生にも嘘ついてほしくない」
理紗先生の瞳孔が縮こまった。かすかに肩を揺らした先生は、二度、三度とまばたきを打って息を呑んだ。
「先生は今、本当に風邪で学校を休んでるの?」
単刀直入に康介は切り出した。
「おれ、今日、学校ズル休みしたんです。母さんに電話してもらって、体調が悪いって嘘ついて休んだんです。そしたら何か、先生の気持ちがちょっと分かった気がした。みんなの目が怖くて足がすくんじゃうと、学校って簡単に行けなくなるんだなって、初めて分かった。先生もおれと同じなんじゃないかなって思って、確かめたくなって、ここに来たんです」
やっぱりね、と言いたげに叶子が横目で睨みつけてきた。康介の意図は実行委員には筒抜けだった様子だ。つくづく格好悪いリーダーだな、と思う。もっとも康介の格好悪さはとうの昔に露見しているから、いまさら発覚を悔いることもない。少しばかり恥が上塗りされるだけだ。
「武井くんがズル休みするなんて、何があったの」
理紗先生の顔にはたちまち翳が差した。
四人で手分けして説明した。理紗先生が病欠になり、みんなの動揺がいよいよ加速していること。先生がいないので練習ができず、仕方なく二組との合同練習を実施したところ、あまりにも悲惨な大敗を前にしてみんなが互いを責め始め、しまいには実行委員が集中砲火を浴びたこと──。
畳み掛けられる話の数々に、理紗先生は黙って耳を傾けていた。もともと青かった顔色は、時間の経過とともにいよいよ暗い色へ変じていった。
「……そっか」
すべてを聞き終えるや、先生は小さく頭を振った。
「ごめんね、みんな。先生が休んだりしないで、ちゃんと一組のみんなに向き合ってたら、こんなことにはならなかったね」
ほら、こうやってすぐにすべてを自分のせいにしようとする。昨日の実行委員と同じだ。これも鬱ってやつの副作用なのかなと、先生を見つめながら康介は思案した。この歳になるまでちっとも知らなかった。心に負荷のかかりすぎた人間が壊れてしまうことも、それが病気と称するほど重いものであることも。
「諦めないでよ。見捨てないでよ、おれたちのこと……」
▶▶▶次回 『41 同じ穴の狢【後】』




