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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
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39 同じ穴の狢【前】

 



 寝覚めの気分は最悪だった。ガンガンと痛みの響く頭をもたげ、ベッドから身体を起こそうとしたが、水の染みたように重たくなった上半身がいうことを聞かなかった。そのうち母の和華(わか)が康介を起こしに来た。ドアを開いて踏み込んできた母に、康介は小さな声で訴えた。


「──学校、休みたい」


 こんなことを申し出るのは生まれて初めてだ。皆勤賞のはずの息子が藪から棒に発したSOSを、母は意外にも素直に聞き入れてくれた。休みの電話を入れてくる、あんたはそのまま寝てなさいと言い渡して、母は部屋を出ていった。昨夜、泣き腫らした顔で帰ってきて、夕食も口にしないで部屋へ閉じこもった息子の姿に、何かしら思うところがあったのかもしれない。

 目を開けても閉じても、昨日の記憶が網膜を焼き焦がす。あんなにもみんなに軽蔑されて、今日、どんな顔で登校すればいいのか康介には分からなかった。身体が本能的に登校を拒んでいた。仲のいい健児や文李たちにさえ、顔を合わせたいと思えなかった。

 不登校の子の気持ちってこんなものなのか。

 学校に行かなきゃいけないのは分かっている。それなのに、行けない。行きたくない理由が立ちふさがって前に進めない。義務感と恐怖の板挟みになって、今にも心が圧壊しそうだ。

 黙って身を横たえているほど胸が苦しくなる。布団に潜り込んだのはまったくの逆効果だった。仕方なく頑張って起き出して、一足遅い朝食を口へ運んだ。ちっとも空腹ではないのに無理やり喉へ流し込んだので、それからしばらく吐き気が止まらなかった。やりたくもないのにゲーム機を持ち出して、窓を染める灰色の曇天を見上げながら、稜也や佑珂や叶子の顔をそこに並べた。みんなはどうしてるんだろう、と思った。みんなもおれみたいに学校を休んでいればいいのに、とも思った。これでも人並み程度には罪悪感を覚えているつもりだった。

 父の正之(まさゆき)は出勤中だ。姉のすみれももちろん登校している。昼頃になって、母も「買い物に行ってくるわ」と言い出した。


「欲しいものがあるなら買ってくるけど」

「いい。なにも要らない」

「なによ、気持ち悪いな。普段のあんたならお菓子やらなにやら要求してくるじゃない」

「……自分への罰、ってやつ」


 漫画みたいに気障(きざ)なセリフだ。康介らしくもない。言ったそばから自己嫌悪が高まって、康介は手元のゲーム機に目を落とした。無意識にかっこつけてしまったのは、きっと本物の気持ちを母に知られたくなかったからだと思った。そのあたりを器用に察してくれたのか、母は「まぁいいわ」といってカバンを持ち、居間を出ていった。

 武井家の家族は全員が姿を消した。

 康介は今、正真正銘のひとりぼっちだ。

 だからといって気が安らぐわけでもない。むしろ不安は刻一刻とかさを増して、康介の背中をいっそう(おびや)かす。

 おれ、このままどこまでも腐っていくのかな。

 このまま駄々をこねてみんなから逃げ続けたって、何かが解決するわけないのにな──。

 無気力にゲーム機のボタンを押し込んでは、焦点の合わない瞳でキャラクターを眺めた。やることなすことすべてが億劫で、苦痛だった。だから居間の固定電話が鳴り始めた時も反応が遅れた。また面倒事が起きた、としか思えなかったが、いまの武井家には自分しかいないので、やむなく康介は腰を上げて受話器を取った。


「はい。武井です」

──『武井康介くんですか』


 げ、と康介は受話器を取り落としかけた。電話の向こうにいるのは副校長の菅井先生だった。よく見ると画面には【岩戸小学校】の文字が表示されている。


「そ、そうですけど、何ですか」

──『よかった。ひとまず元気そうで安心しました。お母さまから体調不良だと伺っていたので心配になってね』


 体調不良とは一言も言わなかったのだが、母の方で適当に名目をでっち上げてくれたらしい。とりあえず腹痛ってことにしとくか──と決め込みつつ、先生の声に耳を傾けた。名乗り忘れていたね、一組()()担任の菅井ですと、副校長は受話器の向こうで頭を掻いていた。その口ぶりからして、今日も理紗先生は一組へ復帰していないらしい。

 先生。

 今ならおれ、先生の気持ちが分かる気がするよ。

 だって同じ穴の(むじな)ってやつだもん。

 康介は目を伏せた。最後に理紗先生を見た日の光景が、幻灯みたいにまぶたを彩った。状況がいささか異なるだけで、昨日の康介たちと構図は同じだ。あのとき先生は一組中の敵意をひとりで受け止めようとしていた。そうして康介と同じように、受け止めきれなくなって学校に来なくなったのかもしれない。風邪とかなんとか適当に理由をつけておけば、大概の人のことは騙し通せる。人の良さそうな副校長など真っ先に騙されたはずだ。


──『ところで君』


 その菅井先生が急に声を発した。


「なんですか」

──『昨日、何かあったのかね』


 康介は反応に詰まった。なんでもないです、といって言い逃れる余地があるような口ぶりには聞こえなかった。


──『いや、別に尋問したいわけじゃないんだ。しかしどうもクラスの雰囲気がおかしいのが気にかかってね。休んでるのは武井くん一人だが、休み時間になってもほとんど誰も口を利かないんだよ。言葉尻もとげとげしい。それで最前列の女の子に事情を聞こうとしたら、泣かれてしまった』


 誰のことを言っているのか、とっさにピンときた。教室の最前列には佑珂の席がある。


──『なにか事情を知っていないかな。このままでは学級運営もままならん。武井くんの力を借りたいんだ』


 菅井先生の声色はどこまでも真摯だった。事情を知らないのもおそらく本当だろう。昨日の二組との合同練習に思い当たっている節もない。もちろん練習が行われたことは、北島先生との会話で副校長も知っていたはずだ。

 この先生を信頼できるかと問われたら、康介はまだ、首を縦には振れない。お世話になった過去があるとはいえ、馴染みの薄い臨時担任に重い真実は託せない。それならば、康介の選ぶ道は決まっていた。


「……きっとみんな、高橋先生のことが恋しいんですよ」


 康介は嘘をついた。ついてから、数ある嘘の中でもひときわあからさまな嘘を選んでしまったことに気づいたが、菅井先生は存外すんなり『なるほど』と相槌を打ってくれた。


──『そうですか、高橋先生のことが……。だから泣かれてしまったのか。これは野暮なことを聞いたな』

「みんな不安なんですよ。おれだって不安ですよ。去年のことだってあるし……」


 話を合わせるつもりで康介は畳みかけた。

 これは嘘ではなかった。持病をこじらせて唐突に姿を消してしまった小原先生のように、このまま理紗先生もいなくなるのかもしれない。先生が姿を現さなかった二学期の初日、一組の教室にはそんな懸念、いや諦念が確かに蔓延していた。あんな頼りなくて気の小さな先生でも、いなくなってしまえば不安に駆られるものだ。

 菅井先生はしばらく受話器の向こうで沈黙していた。

 やがて、おほん、と咳払いが耳にこだました。


──『高橋先生のご病気のこと、知りたいかね』


 康介は「え」と目をしばたいた。問われたことの意味を理解する前に、菅井先生は話を先に進めてしまった。


──『あらかじめ言っておくけれども、高橋先生は入院なさってはいない。ご自宅で療養しておられる。病状が重くないのも本当だよ。だいぶ回復しているそうだから、おそらく来週中には復帰なさると思う』

「え、でも、ただの風邪なんですよね……」

──『()()()はね。君たちの前ではそう説明したと思うが』


 菅井先生だけじゃない。北島先生からも風邪と説明されている。康介の目の前は真っ暗になった。よもや一組は、北島先生にさえも嘘をつかれていたのか。


──『事実をありのままに説明したところで、君たちにはなかなか理解できない部分もあるかと思ったんだ。他ならぬ高橋先生からも詳細を伏せるよう頼まれていた。だがまぁ……君の前で()()()()()()()()だけなら、先生も許してくださるだろう』


 いやが上にも身構えてしまって、康介は受話器を掴んだまま身体を固めた。小原先生の時みたいに大層な病名が来るか、と思った。

 改めて『知りたいかね』と菅井先生が確認を取る。おそるおそる「知りたいです」と答えたら、菅井先生はおごそかに一呼吸を置いた。


──『高橋先生は、心のご病気なんだ』


 康介は目をしばたいた。心のご病気、という病名には心当たりがなくて、すぐさま「なんですか、それ」と問い返してしまった。言葉を選ぶように菅井先生は吐息を溜めた。


──『鬱という言葉は聞いたことがないかね。ごく簡単に言えば、心が疲れてしまったということだよ。人と会うのが怖くなったり、普段通りの生活を送れなくなったりする。ただちに命にかかわることはないが、少なくとも以前のように仕事はできなくなってしまう。そういう病気だ』


 受話器を握る手に汗がにじんで、康介は電話の前から動けなくなった。菅井先生のいう『鬱』とやらは、いまの康介の症状を言い表すのにあまりにも最適な言葉だった。心が疲れて、友達に会うのが怖くて、普段通りに学校に行けない。そうか、これっておれがサボり魔になっちゃったわけじゃなかったんだ。心の病気だったんだ。浅い呼気で頭の中を整理していると、目から剥がれ落ちた鱗が次々と足元へ落ちて、立ち尽くす康介の姿を映しながら砕けて消えていった。

 その中には理紗先生の顔もあった。

 理紗先生も受話器を握りしめながら立っていた。信じるべき相手を見失い、路頭に迷ったような真っ暗な顔で。


──『このことはくれぐれも他言無用で頼むよ。いまの君には少し理解するのは難しいかもしれんが、鬱というのはこじらせると非常に厄介なんだ。高橋先生は今、真剣にご自身の心と闘っている。そのことだけでも心の片隅に置いて、とりあえず今は私で我慢──』

「あの!」


 康介は思いきって話を遮った。やや残念そうに『なんだね』と菅井先生が嘆息した。


「おれ、頑張って腹が痛いの治します。そしたら先生に会いに行ってもいいですか」

 ──『どうしたんだね、藪から棒に……』

「聞きたいことがあるんです」


 菅井先生はさぞかし怪訝な顔をしているだろうと思った。それでもこれは大きな好機だと思ったから、康介はためらわなかった。この半年近く、理紗先生は一組の前でほとんど本性を現したことがない。どんなことがあってもニコニコと穏やかな面持ちで、すべてを丸く収めようとしてきた。鬱とやらの発症は、そんな理紗先生が初めて発した本物の心の叫びなんじゃないかと思ったのだ。

 もっと、理紗先生のことを知りたい。どうして30人31脚を提案したのか、どうして優しいのか、先生のすべてを知りたい。そうした際限のない疑問解消の果てに、一組の未来が眠っている気がする。いまにも立ち止まって足紐をほどいてしまいそうな一組が、ふたたび前を向いて走り出すために、理紗先生の言葉を聞きたい。たとえそれでは何も解決しないのだとしても。


──『こればっかりは私の独断では決められないことだが……』


 菅井先生はいっとき沈黙を挟んだ。


──『君の気持ちも分からんではない。高橋先生に確認を取ってみよう』

「やった。ありがとうございますっ」

──『くれぐれも()調()には気を付けるように』


 はい、と元気な声で即答しながら、なんだか菅井先生にすべてを見透かされている気がして康介はむず痒くなった。案外、菅井先生は鎌をかけようとしていただけなのかもしれない。康介が体調不良になど見舞われていないことも、昨日、一組のあいだで何が起こったのかも、その遠因がどこにあるのかも、何もかも知った上で。

 大人の考えることは、康介にはまだ、難しい。






「そんでおれ、今日は先生にも嘘ついてほしくない」


▶▶▶次回 『40 同じ穴の狢【中】』

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