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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
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38 かすれた未来

 



 ミーティングやろうぜ、と最初に言い出したのが誰だったかは覚えていない。練習を終えた二組の面々が帰路についてゆくのを尻目に、一組は校庭の片隅へ寄り集まった。このままでは家に帰れない。明日からの練習にも手がつかない。どうしようもない惨敗を総括するための言葉が、結論が、いまの一組には必要だった。


「……ぜんぜん歯が立たなかったね」


 夏海が死にそうな声でつぶやいた。取り巻きの女子たちもうなずいた。

 まさに文字通り、歯が立たなかった。あれから何べんも走り直したが、とうとう一組は五十メートルを走破できなかった。いっぽうの二組は二度も三度も走り切った。これが実力差でなかったら何だというのだろう。落胆して、嘆息して、すりむいた腕をさすったら、視界の外で「ははっ」とせせら笑う声が響いた。


「歯が立たなかったって? 当たり前じゃん」


 明日乃だった。体育座りの足先を広げながら、彼女は真っ暗な顔で笑っていた。すぐさま夏海が「何が可笑しいわけ?」と噛みついた。


「だってあたしたちが五十メートル走れないのは前から分かってたでしょ。二組が何度も走り切ってるっていうのも、あたしは友達から聞いて知ってたし。だったら算数の計算で答え出すのととおんなじじゃん。どう考えたって負ける一組が、負けるべくして二組に負けただけ」

「それじゃ何、あんたは初めっから無理だと思って走ってたっての?」

「そんなのあたしに限った話じゃないし。ねぇ、みんな?」


 明日乃の挑発を嫌がるように、周りの子たちが一斉に目をそむけた。あるいは図星だからこそ目をそむけたのかもしれない。日頃あれほど明日乃と親しくつるんでいるはずの桜子でさえ、真一文字に結んだ唇を膝に埋めたまま、かたくなに沈黙を守っていた。

 大袈裟な吐息をついた夏海が地べたに座り込んだ。


「バカじゃないの。無理だと思ってっから本当に無理になるんだよ。負けたくないなら死ぬ気で走ればよかったじゃん」

「死ぬ気で走ったって無理なものは無理だよ」


 すかさず反論したのは貴明だった。これにも夏海は「はァ!?」と噛みついたが、貴明の濁った瞳に見つめ返されて黙り込んでしまった。


「気合いさえあれば練習しなくたって五十メートル走れるのか。そんなことなら誰も苦労しないだろ。俺たちは根性の強さで負けたんじゃない。死ぬ気で走ろうが何だろうが関係ない」

「それは……そうだけど」

「二組の練習内容、俺たちのそれより多くて内容も充実してたでしょ。結局それがすべてなんだよ。二組はちゃんと頑張ったから、俺たちより先に五十メートルで記録を出せるようになったんだ。俺たちは純粋に練習が足りなかったんだ。そんな死ぬほど単純な話だったんだよ。分かるだろ」

「待ってよ。練習量が足りないって自覚はあったって言いたいの?」


 沈黙した夏海を押しのけて叶子が立ち上がった。「あったよ」と貴明は言い返した。


「俺たちも二組が五十メートル走れるようになったことは事前に知ってた。このままじゃ絶対に敵わないと思ったし、だから自主練を企画して実行に移したことだってある。そうだろ、康介」


 多摩川自由ひろばでの一件のことを言っているのはすぐに分かった。けれどもあれは、先生との約束を反故にして初めて実現したものだ。うなずくにうなずけない康介と、不甲斐ない実行委員を睨みつける貴明との間を、叶子の視線は何度も往復した。


「何それ」


 叶子は笑った。

 いや、笑っていたのじゃない。口角が崩れて笑顔のようになっただけだ。無数の言葉を抑え込むように唇をひくつかせながら、叶子はみんなを見渡した。


「みんなもそう思ってたの?」


 叶子には決して目を合わせないまま、ほとんどの子がうなずいた。

 ()()()()()()だった。これには康介も思わず腰を上げかけた。貴明や明宏のように、練習の不十分を訴えて行動に出た子だけではなかった。唯一の例外は健児くらいのものだった。嘘だろ、と言わんばかりに目を丸くして周囲を見回す健児の姿は、はたから見ればあまりにも滑稽だ。けれどもきっと康介自身も今、健児と同じ顔をしているのだ。


「こんなに大勢!?」


 たまりかねたように叶子が叫んだ。


「だったらなんで文句のひとつも言ってくれなかったわけ? そしたらうちらだって練習の中身とか分量とか練習時間とか、色々と工夫できたかもしれないのに!」


 あと一歩ばかり遅ければ、たぶん康介も同じことを口にしていた。

 なんだよ、どいつもこいつも。練習量が足りないって思ってるなら、こっちにだって応える準備はあったのに。結局うまくはいかなかったけど、多摩川自由ひろばの時みたいに自主練習にだって付き合ったのに! ──なんて怒鳴る勇気もないまま、肩を怒らせた叶子の姿を見つめていた。

 ちょうど叶子の正面に座っていた明日乃が「は?」と嘲笑した。


「普通に無理なんだけど。これ以上ハードな練習してたら身が持たないし。こっちは練習後に塾だってあるんだよ」

「だいたいただでさえ休み時間ぜんぶ投げ出して30人31脚やってんのに、これ以上もっと時間かけろっての?」

「というか練習の内容なんて実行委員とか先生が考えることだろ。なんでもかんでもこっちのせいにしようとすんなよな」

「お前らが『これやれ』って言うから頑張って練習してきたんだぞ、こっちは!」

「走っても走っても五十メートルなんかちっとも走り切れないし、そもそも人数だって十分に集まらないし、なんかもう途中でやる気なくなってきたよね」

「もう疲れたよ、私たち」

「本気でやりたいって思ってるのなんて一部だけでしょ。その子たちだけでやればいいじゃん」

「叶子たちが頑張ってるのは認めるよ。近くで見てんだからそりゃ分かるよ。でもさ、私らだって頑張ってんのは同じだよ。それなのにみんな私らのこと怒るばっかりじゃん。いつも頑張ってくれてありがとうとか、そういうフォローみたいなの何もないじゃん」

「そうだよ! そういう自分たちは率先して厳しい練習してんのかよ……!」


 理紗先生もいない。監督の朱美や春菜もいない。遮るもののない荒野を突風が吹き荒れるように、みんなの不満は一斉に爆発した。拓志、琳、知樹、侑里、万莉、実華、彩音、高彦──。めったに声を上げることのない面々までもが声を張り上げ、正面から実行委員を批判していることに、康介は衝撃を隠せなかった。息が詰まって、思わず傍らの叶子を見上げた。たったひとり立ち上がった状態で面罵を食らった叶子は、柄にもなく瞳を潤ませ、震えを帯びるほどに拳を握りしめていた。

 これ以上、叶子を矢面には立たせられない。かといって康介の手をもってしても、渦巻く不満の嵐を(なぎ)に戻すことはできない。そうと分かっていても康介は口を閉ざしていられなかった。


「黙れよ! さっきから聞いてりゃ、みんな好き勝手なことばっかり言いやがって!」


 みんなの注ぐ視線が明確に害意へ切り替わったのを、全身の肌が察した。「なんだよ」と康介は負けずに吼えた。


「30人31脚やるって、大会にも出るって、みんなで決めたんだろ! だったらおれたちに何もかも任せようとすんなよ! おれたちだってみんなと同じ歳なんだぞ、スーパーマンでも何でもないんだぞ……!」

「は? そもそも誰のせいで二組に負けたと思ってんの?」

「実行委員でしょ?」

「スーパーマンになれないなら、せめてスーパーマンになろうと努力しろよ」


 康介の訴えをみんなは聞き入れなかった。反論しようと開けた口に、特大の悪口が飛び込んできて炸裂した。


「役立たず!」


 文字通り、開いた口がふさがらなくなった。康介の身体は完全に硬直した。もはや康介ばかりを相手にすることなく、みんなは口々に実行委員の無力さを非難し始めた。もっとも、どれだけ批判の言葉を重ねられても、そのすべては「役立たず」の一言でまとめてしまうことができた。威力を増した悪口は胸の奥や腹の底で何度も爆発した。胃が、肺が、心臓が、次々に大穴を開けられて血を流した。けれども何より康介の身体を傷付けて回っていたのは、ほかでもない康介自身の心に巣食った悲嘆の言葉だった。

 そっか。

 おれ、役立たずだったんだ。

 みんなの役に立ててなかったんだ。

 偉そうに実行委員をやってたくせに。

 一言、一言、突き付けられた事実を噛み締めては、えぐられるような鋭い痛みに康介は顔を歪めた。もちろんみんなはそんなことを少しも知らない。砲弾が尽きるまで機銃掃射は続いた。やがて罵倒にも飽きを覚えたのか、ひとりふたりとみんなが立ち去り始めても、実行委員の四人は地べたに突き刺さったように動かなかった。蜂の巣にされた心は沈黙していた。投げつけられた失望の破片が足元に転がるのを、ただ、無為に見つめることしかできなかった。



 着替えて、ランドセルを背負って、校門を出る頃には、紫色の雲が空を埋め尽くしていた。太陽はとっくの昔に山々へ沈み、耳を澄ませてもセミの声ひとつ聞こえない。不気味に静まり返った世界の片隅で、四人分の足音がとぼとぼと響いた。

 結局、みんなの姿が消えるまで、教室にも立ち入ることができなかった。いまから帰ったら何時になるだろう。そういえば稜也も練習終わりに塾があるんじゃなかったか。


「いいのかよ、塾」


 言葉少なに康介は声をかけた。やけに小さな歩幅で足を運びながら、稜也はランドセルの紐を握りしめた。


「いいよ。こんな時間から向かったって、もう間に合わない」

「悪いな。おれのせいだよな。おれがみんなに余計なこと言って火をつけたから……」

「そんなこと言ったら俺だって、いつも塾を理由にしてみんなに迷惑かけてたよ」


 ランドセルを握る手に力がこもった。うつむいた稜也は「ごめん」とつぶやいたきり、視線を合わせてくれなくなった。


「意味わかんない。なんで川内が謝んの」


 長い足を振り上げた叶子が、小石を蹴った。すっ飛んだ小石は路肩に跳ねて砕け、ばらばらになって地面に馴染んだ。


「ほかのやつらだってなんだかんだ理由つけて休んでたじゃん。塾でもなんでも堂々と行けばいいでしょ。迷惑なんてちっともかぶってない」

「なんだよ、気味悪いな。俺をかばおうとするなんて有森らしくもない」

「かばってなんかない!」


 叶子はまたも小石を蹴り飛ばした。振り抜かれた足先に、白い光の粒がいくつも舞った。


「川内はちゃんとやることやってくれてたって思ってるから言っただけだし! そんなのみんな同じだよ! 実行委員は役立たずとかなんとか散々に言われたけどさ、日頃うちらが何をやってたのか知ってる子なんて誰もいなかったじゃんか! あんなのに罵倒されて悔しいって思わないわけ!? うちは悔しい! すっごい悔しい! 死にたくなるほど悔しい!」


 叶子はめちゃくちゃに喚き散らした。今にもそのへんの電柱に掴みかかって()ぎ倒しそうなほどの剣幕に、康介は首をすくめた。怒気をはらんだ声を振り向けられると、込められた怒りがすべて自分に注がれるように感じる。実行委員を務めるまで、こんな後ろ向きの思考に身を(やつ)されることはなかった。あの30人31脚がすべてを変えてしまった。自分の至らない部分も、足りない部分も、ぜんぶみんなの前へさらけ出してしまった。


「もういいよ、有森」


 叶子の肩を掴んで、康介は首を振った。涙目の叶子が康介を睨み返した。


「おれがいけないんだよ。みんなのこと、たった五十メートルも走らせられなかった。時間はたっぷりあったのにみんなのやる気を引き出せなかった、おれが悪いんだ。みんなの言う通りの役立たずだったんだ」


 不甲斐ない話だ。ほかの実行委員は当てにならない、おれがみんなのリーダーになるんだ──なんていっぱしに息巻いていたくせに。ふたを開けてみれば一組どころか、実行委員みんなの手本にすらなれなかった。説教や叱咤を担う役目は叶子に負わせ、頭を使う仕事は稜也に丸投げし、理紗先生との関係作りだって佑珂にみんな任せていた。康介ひとりで成し遂げられたことって、いったいどれほどあっただろう。

 康介は、無力だ。

 噛み締めた唇に塩の味が混じった。


「みんな、ごめん。役立たずなおれのせいでみんな……」


 うなだれた拍子に目尻の涙が弾け、頬を伝って落ちてゆく。ぐいと腕で頬を拭ったら、ぼやけた視界の外で「やめてよ」と佑珂が叫んだ。


「役立たずなんて言わないでよっ……。そんなこといったら私がいちばん役に立ってなかったもんっ……。武井くんも叶子ちゃんも川内くんもすっごく頑張ってくれてたのに、私だけ……いつもみんなの影に隠れるばっかりでっ……」


 佑珂の叫びはまもなく嗚咽に呑まれてしまった。声にもならないうめき声をぼろぼろこぼしながら、佑珂は小さな背中を強く震わせた。叶子からの反論がないと思ったら、彼女も小さくしゃくり上げていた。闇色の顔を地べたに向けたまま、稜也も鼻をすすり上げた。

 役立たずの烙印を押されることが、こんなにも身に(こた)えるなんて思わなかった。積み上げてきた努力も、気苦労も、存在意義さえも全否定された康介たちの心は、いまや根元から折れかけていた。このまま明日を迎えたとして、いったい現状の何が好転するだろうか。明日もあさっても一組は五十メートルを走れず、練習を続ける気力も削がれ、やがて大会への出場も諦めてしまうのが関の山じゃないのか。むろん実行委員の働き次第では、そんな末路を回避することだって可能かもしれないが、少なくとも康介たちの手では回避できない。なぜなら康介たちは、みんなの認める「役立たず」だから。

 おれたち、ここで終わりなのかな。

 もう二度と起き上がれなくなるのかな。

 失望のあまり歩く元気さえも消え失せて、誰からともなく立ち止まってしまった。街路灯の冷たい光に照らされ、前も後ろも暗闇に沈んで見えなくなった町の一角で、あふれ返る悲嘆に康介は溺れた。泣いて、泣いて、何度も謝ったのに、誰も受け入れてはくれなかった。みんなは代わりばんこに「悪いのは自分だ」と叫んだ。際限のない自己批判で自分を傷付けては、その痛みに泣くことを、四人で力尽きるまで繰り返した。






「──学校、休みたい」


▶▶▶次回 『39 同じ穴の狢【前】』

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