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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
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37 合同練習の顛末

 



 30人31脚の練習ができない間も、事実上の昼休み練は続行された。体力づくりの縄跳びや五十メートル走、ランニングなどの一般的なメニューをこなす分には、理紗先生の付き添いも必要とされない。ただでさえ一組は夏休み終盤に一週間も練習を休んでいる。来るべき二組との合同練習のためにも、身体作りを怠るわけにはいかないのだった。無論、追い立てる役は実行委員がやらねばならない。康介や叶子の言葉に叱咤されて教室を追われ、みんなは気が進まなそうに校庭を走っていた。

 臨時担任の菅井先生は、監督下の一組が得体の知れないスポーツの練習を繰り返すことに良い顔をしなかった。


「本当にお任せして大丈夫ですかね。先生のご負担にもなるでしょうに」


 北島先生が合同練習の面倒を見てくれると知るや、菅井先生は授業終わりの北島先生を捕まえて問いただした。「大丈夫ですよ」と北島先生は笑っていた。雲一つかかることのない冬晴れの太陽みたいな、裏を感じさせない笑顔だった。


「なんたって彼らは高橋先生の肝煎りですから。二組とは鍛えられ方が違うと思いますし、危なげなく走ってくれるでしょう。私の役目は彼らの姿をのんびり見守ることだけですよ」


 肝煎り、という言葉の意味を康介は知らないが、ともかく北島先生が一組の実態をよく知らないことだけは理解した。後発で30人31脚への挑戦を決めた二組と、担任として二組を率いる北島先生にとって、一組は自分たちの数歩先をゆく先駆者(パイオニア)という認識なのだ。もちろん一組にそのような自負はない。

 黙っていると菅井先生が「そうなのかね?」と尋ねてきた。康介たちは半笑いでお茶を濁した。先に五十メートルを走り切れたのはおれたちじゃなくて北島先生の二組なんですよ、なんて正直に暴露したら二人はどんな顔をしたのだろう。さしもの康介もみずから進んで、そんな屈辱的な暴露を試みたくはなかった。

 二組は一組の有様を知らない。

 当の一組も、一部の男子を除けば、すでに実力差で二組に追い越されていることを知らない。

 互いに誤解を残したまま、練習の期日は一瞬で目の前に迫った。



 合同練習の内容は、おもに二組の実施しているメニューに基づいて行われた。もっともメニューの種類は一組と変わらない。ただ、純粋に回数が多いだけ。


「ランニング十五周ってマジかよ……」

「二キロ近くも走り続けるってこと?」

「二組やべーな。二人三脚でも四人五脚でも五十メートル走らされてるんだ」

「一組だったらせいぜい三十メートルも走って終わりだよな……」


 自分たちのそれを上回る練習の濃さに、走りながらみんなは悲鳴を上げていた。普段からハードトレーニングに慣れ親しんでいる二組の面々は、文句を垂れるでもなく、真剣な眼差しで淡々と練習に打ち込んでいる。私語のひとつも聞こえてこないことに康介は驚いた。質、量、そして態度に至るまで、あらゆる意味で二組の練習内容は一組のそれを凌駕していた。

 炎天下の夕空に汗が溶けてゆく。たっぷり乳酸を吸い込んだ足が重くなり始めた頃、一組と二組は北島先生の号令で校庭の真ん中に集められた。


「今日の全員ランなんだけども、せっかくだから合同練習らしいことがやってみたいと思うんだな」


 北島先生は切り出した。

 嫌な予感が一瞬、康介の耳元をかすめて消えた。練習中の真剣さはどこへやら、周りを埋め尽くす二組の子たちが一斉に騒ぎ立てた。


「合同練習らしいことって?」

「対決? 対決とか?」

「あたしもそれ賛成!」

「刺激になるよね!」

「どうせ本番でも対決するんだもんな、練習でも一度くらい競ってみたいって思ってたんだ!」


 一組の実行委員が一斉に青ざめたが、無垢な彼らの目に捉えられることはなかった。案の定、北島先生は二組の声を汲み取って「ようし」と声を張り上げた。


「先生たちも同じことを考えてたところだったんだ。一組のみんなも賛成してくれるか?」


 その視線は明らかに康介を貫いていた。一組の総意を訊かれているのか、康介自身の意思を問われているのか、康介には区別がつかなかった。もっとも一組の総意など知るべくもないから、いずれにしても返答には困っただろうと思う。仕方ないから小声で「賛成します」と応じた。たちまち、声にならないほどのささやかな動揺が、すきま風みたいに一組のあいだへ広がった。

 もう後には引けない。

 やるしかない。

 合同練習を提案した時点で、こうなるのは目に見えていた。

 二組の子たちはみずから意気揚々と「先に走りたい」と申し出た。これには康介も少しばかり安堵した。すぐさまスタートラインとゴールマットが用意され、北島先生がスタート地点に、監督を名乗る男性がゴール地点に立った。聞けば、二組の監督を務めているのはクラスの子の父親で、隣町の調布(ちょうふ)市に本拠地を持つプロサッカーチームでコーチを務める人物だという。二組ばっかり恵まれて卑怯だ──。渾身の力で理不尽を叫べたらどんなにいいかと思った。

 肩を組んだ二組がスタートラインに並ぶ。

 その数、三十二名。クラスの人数は一組も二組も同一だ。


「……三十人ってこんなに多かったっけ」


 ぼそっと叶子がつぶやいた。


「夏休み中に三十人も揃うことなんてなかったもんな、おれら」

「下手すりゃ二十人すら切ってたもんね」

「夏休み中にさ、こっそり二組(あいつら)の練習を覗き見したんだ。その時もあいつら、普通に三十人近い人数が集まってた」

「マジで?」


 今の「マジで?」は何に驚いた台詞だったのだろう。三十人も集めてしまう二組の実行委員や北島先生の指導力に驚愕したか、はたまた一組の指導陣の不甲斐なさを嘆いたのか。うめくように「ああ」と声を絞り出して、落ち着かない心を包むように腕組みを決め込んだら、北島先生がおもむろにスタート合図を開始した。位置について、用意。ザッと砂を蹴散らしながら、二組の子たちは前傾姿勢を取ってゴールマットを見据える。


「どん!」


 手刀の一閃とともに二組は飛び出した。


「1、2、3、4、5、6、7、8!」


 高波の襲来か、さもなくば大軍の進撃を思わせる猛突進だった。息の合った掛け声が校舎の壁に波を打って、正面からも背中からも康介たちに襲い掛かった。わずか十秒ほどの出来事のようには康介には思えなかった。眼前を通過する三十二人の荒い息遣いに、舞い上がった砂ぼこりの煙たさに、小さな身体が芯から冷えた。それはいつか多摩川自由ひろばで対決した他校と同じ、絶対的な実力差の相手を前にして覚える畏怖のあらわれだった。

 おれたちはこんなに息を合わせられない。

 胸の奥で確信が渦を巻いた。

 綺麗なフォームだ。お世辞にもスピードは速くないが、安定して走っている。真横から見た時に隊列が大きく(たわ)んでいないことも、全体的な走力のバランスの高さを如実に示している。


「十二秒二五!」


 監督の男性がタイムを読み上げる。足紐を解いてゴールマットから立ち上がった二組の子たちが、次々に歓声を上げた。最速記録を更新したようだった。一度も五十メートルを走破できたことのない一組には、もちろん最速記録など存在しない。


「次、一組も走ってみようか」


 促されるまま、スタートラインへ並んだ。


「……あんな長い距離、走れるわけないじゃん」


 桜子が静かにぼやいた。普段の康介なら黙っていないところだが、今度ばかりは何も言えなかった。夏海も口をつぐんでいた。叶子も、稜也も、佑珂も、みんながみんな不安げに瞳を曇らせていた。

 陽炎の向こうでゴールマットが揺れている。

 その距離、()()()五十メートル。

 震える胸で康介は深呼吸を試みた。思うように酸素を取り込めず、溜まりに溜まった疲労がいよいよ重みを増した。


「位置について、用意」


 無情にも北島先生はスタート合図を始めてしまった。すぐさま、平静を装って前傾姿勢を取る。期待の眼差しを注ぐ二組の姿が視界をかすめた。何も見なかったふりを決め込んで、康介は歯を食い縛った。

 どん、と北島先生が叫んだ気がした。

 蹴り出した地面が悲鳴を上げた。本物の三十人で走る久々の感覚は、予想していたよりも遥かに不自由だった。見えない力で両側から腕が引っ張られ、組んだ肩や腰へ回した手がほどけそうになって悲鳴を上げる。両側に広がる陣形が、目に見えてわかるほど湾曲している。


「1! 2! 3! 4! 5! 6! 7! 8──!」


 康介は負けじと怒鳴った。自分以外の二十九人をまとめて引っ張り上げる覚悟で、滑りやすい地面を命がけで蹴りつけた。あと十歩、二十歩、いや二十五歩か。足は確かに前を向いているのに、ゴールマットへの距離はちっとも縮まらない。もどかしくてたまらない。一刻も早く辿り着きたい。神様、頼むから早く、この役目からおれを解放してよ。この五十メートルの地獄からおれを解放してよ──。無我夢中で叫んだ無言の本音が、鋭いホイッスルにまぎれて聞こえなくなった。

 停止指示だと気づいた時には手遅れだった。

 引きちぎられるように一組の陣形は崩壊していた。

 嘘だろ、と思う間もなかった。左右からかかった力に身体の軸も主導権も奪われ、康介は地べたへ叩きつけられていた。道連れになった夏海や祥子が、「うわっ──」と叫びながら覆いかぶさるようにして倒れ込んできた。

 分かり切っていたことだ。

 一組の実力では、五十メートルを完走できない。

 完走できなければ転ぶしかない。

 いまさらショックを受ける理由なんてなかった。

「大丈夫か!」と声がかかった。真っ先に駆け付けてきたのは北島先生と、成り行きを見守っていた二組の面々だった。立ち止まって助かった両サイドの子たちは、駆け寄ることもしないで茫然と立ち尽くしていた。なに突っ立ってんだよ、こっちに来て手伝えよ──。足紐を外そうと暴れながら内心で毒づく康介のもとに、二組の友人たちが集まってきた。


「うわ、泥だらけじゃん」

「怪我とかしてない?」

「……どうってことねーよ」


 康介は目を逸らして、引き剥がした足紐を握りしめた。マジックテープの鋭い凹凸が肌を刺した。胸底をうごめく無言の痛みに比べたら、外傷の痛みなんかいくらでも耐えられるとさえ思った。

 もしかしてさ、と小声で切り出したのは秀仁の声だったか。


「……五十メートル、まだ走れなかったのか?」


 あまりにも悪気なく突き付けられた不都合な現実を、心が満足に受け止められなかった。唇を噛みながら康介は立ち上がった。ねじれるように胸の痛みが加速した。秀仁の問いかけには答えず、目を伏せ、寄せ集まった一組のところへ向かった。誰の顔もまともに見られなかったが、居所を失ってふらつくみんなの足取りを見ていれば、顔なんか見なくとも表情を推測するのは容易だった。






「みんな、ごめん。役立たずなおれのせいでみんな……」


▶▶▶次回 『38 かすれた未来』

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