36 病欠
夏休みが終わるまでの一週間、練習は本当に実施されなかった。
練習の中断を正式に申し入れる電話があったと、プールでばったり会った健児が教えてくれた。夏休みが明けたら再開する予定だと、理紗先生には言われたらしい。
「先生の声じゃないみたいって言ってたんだよなー、母ちゃん。だったら誰だって言うんだろ」
怪訝な顔で健児は水に浮かんでいた。
誰なのだろう。康介にも分からない。少なくとも以前のような、みんなへ熱心に気をかけて回る善良な先生の面影は根こそぎ失われた。なまじ外見は変わっていないから気味が悪い。答えが思いつかずに押し黙っていると、健児も空気を察したのか、それから二度と先生の話を切り出さなかった。もちろん30人31脚のことも切り出さなかった。
一度、心配になって朝七時半の校庭へ出向いたが、そこには誰の姿もなかった。駿の事故の日に練習へ参加していなかった十名近くの子たちにも、どこからともなく話は伝わったようだ。空白の一週間はいやに穏やかで平和だった。夏海と桜子の言い合いに神経をすり減らす必要も、しゃべりながら走っている子を注意する必要もなかった。プールが終わればそそくさと着替え、みんなで学校を抜け出した。夕方から始まる二組の練習風景など、まかり間違っても目に入れたくなかった。
夏休みってこんなに暇だったっけ。
飽きるほどやり込んだゲームを放り出すたび、心が空腹みたいな痛みを発した。
こんなことなら計画的に宿題を進める必要なんてなかった。最後の一週間まで積み残しておいて、まとめて処理したってよかったじゃないか。姉と一緒に書き上げた自由研究の壁新聞を眺めるたび、何とも言えない生臭い息が漏れた。皮肉ってこういう臭いの肉なんだな、と思った。こいつを書き上げることに躍起になっていた頃、康介の日々はあんなにも充実していたのに。たとえみんなをまとめることに困っていても、みんなの好き勝手な行動に振り回されていても、何もしないで立ち止まっているよりは退屈じゃなかったのに。
でも、それも夏休みの終わりまで。
一週間の余暇で気持ちを入れ替えたみんなは、きっとふたたび元のように練習や理紗先生と向き合ってくれる。
そうであってくれるはず。
そうでなければ困るのだ。
「夏休み、早く終わんねーかな……」
居間の真ん中に寝転んで嘆く息子の姿を、父も、母も、まるで別の生き物を見るような目で眺めていた。たったひとり事情の一端を知っているすみれだけが例外だった。そのすみれにしても、勝手にゲームの攻略を進めたことには激怒して康介を蹴り飛ばしたが、康介が日がな一日、居間を占拠してだらけていることには何も言わなかった。無言で通り過ぎる一瞬、姉の注いでくるどことなく同情的な眼差しから、康介は意識的に逃げ回り続けた。逃れたかったのは姉の視線だけではなかったかもしれない。
待ちに待った九月一日、二学期始業日。
康介は派手に寝坊した。
自堕落な生活が一週間も続いたせいだ。重い宿題の束を背負い、息せき切って六年一組のドアを開くと、すでに大半の子は顔を揃えていた。目ざとく康介を見つけた健児が「おせーぞ!」と笑った。他の子たちは誰も反応しなかった。
「ギリギリじゃん。あと一分で先生入ってくるよ」
「マジで遅刻するかと思った……」
鳴り止まない心臓を右手で押さえ、ランドセルや持ち物袋を机のフックに提げながら、そういうわけかと康介は納得した。てっきり一瞬、実行委員たる康介の滑り込み登校をみんなが非難しているのかと思ったが、そうじゃない。みんなは来るべき理紗先生との対面に緊張しているのだ。
夏休みの理紗先生との思い出は、駿の事故の日を最後に、最悪な形で終わりを告げたといってよかった。誰もが窓の外や互いの顔、机に広げた教科書や宿題に目を落としていた。できる限り直接、理紗先生と目を合わせたくなかったのだろう。さもなければ否応なしに、あの日の胸のムカムカを思い出す。不愉快な状態のまま二学期が始まってしまう。
「先生、謝るかな」
ひそひそ声で健児がささやいた。
「言い過ぎてごめんね、とかさ。でなきゃみんなマジで切れるかもよ。あのあとのプールでのみんなの剣幕、康介も覚えてるでしょ」
謝ってほしくはない、と康介は思う。だって先生は何一つ、間違ったことなんて言わなかった。だからといって健児の言うことも理解できないわけじゃない。押し黙っていると、「やべっ」と小声で叫んだ健児が自分の席に戻って姿勢を正した。
足音が近づいてきた。
本鈴のチャイムが教室に響き渡る。
次いで、扉が開いた。
息を呑む音が立て続けに周囲を濁した。一度ならず、二度も。
「すまなかったね。遅くなった」
入ってきたのはウインドブレーカー姿の理紗先生ではなかった。アイロンの行き届いたスーツを身にまとった、眼鏡姿の初老の男性教諭だった。
日直の万莉が勢い余って「ふっ」と口にした。
「副校長先生……!?」
岩戸小学校副校長、菅井裕次郎。行事以外では滅多に世話になることのない先生だ。もっとも康介たちの場合は少しばかり例外で、この先生に何度も教鞭を執ってもらったことがある。なぜならば──。
「久しぶりだね。君たちとは去年、小原先生のご都合でピンチヒッターに入ったとき以来かな?」
菅井先生は柔和な笑みを振りまきながら、何事もなかったように名簿の名前を読み上げようとする。慌てた叶子が「ちょっとちょっと」と続きの突っ込みを入れた。
「高橋先生は? なんでまた副校長が担任みたいなことしてるんですか……」
口にしたそばから叶子は目を丸くし、凍り付いた。まさか──。開いたままの口が無音で叫んでいるのが見て取れた。
菅井先生は咳払いをひとつ挟んだ。
「高橋先生ですが、夏休み中にちょっとばかり体調を崩されてね。そう、風邪です。ただの風邪」
『風邪』の二文字が響くや否や、一瞬にして教室の秩序は崩壊した。みんなは口々に菅井先生を質問責めにした。風邪ってどういうことか、本当に風邪なのか、つい一週間前までは元気だったのに。てんでばらばらに飛び交う質問の嵐を、康介は呆然と聞いていた。何も考えたくない気分だった。少しでも頭を働かせれば、色々なことが分かってしまうから。
菅井先生が「ただの風邪です」というのは今度が初めてじゃない。小原先生が病に倒れて一組を去った時も、先生は同じ文句でみんなをなだめたのだ。
その意味するところは、つまり。
「まぁまぁ、みんな落ち着きなさい」
菅井先生は両腕を広げ、興奮する一組を鎮圧にかかった。
「大したことじゃない。風邪というのはご本人がおっしゃったことで、本当です。遠からず復帰されるそうだが、とりあえず当面は出勤できないというので、出勤できない間は私が担任を代行しようと思います」
耳が痛くなるほどの沈黙が教室を支配した。
天井の冷房が無言で空気を掻き回している。
何も言葉が浮かばなかった。叶子も、稜也も、絶句していた。佑珂は顔面蒼白のまま、理紗先生のいない教壇を穴が開くほど見つめていた。
今日はこれから体育館に移動して、全校での始業式が挙行される。よその教室では点呼が終わり、子供たちの移動が始まったようだ。無数の足音が地鳴りのように響くのを、康介はぐちゃぐちゃの頭で聴いていた。それはまさしく全校生徒が、狛江の街が、世界中が六年一組だけを置き去りにして、夏休み明けの日々を何事もなく生き始めた音に他ならなかった。
始業式は平然と進行した。まだまだ暑い日が続くので体調を崩さないようにと、時おり教職員の座るあたりに目をやりながら鈴木校長はあいさつした。ほとんどの子供たちは彼女のあいさつを額面通りに受け止めたことだろう。もっとも心の底から校長の嫌味を理解できたのは、一組の中でも康介や稜也、克久くらいのものかもしれない。
誰か事情を知る人はいないかと思い、授業のたびに先生を問い詰めた。唯一、重い口を開いてくれたのは、隣の二組で担任を務める北島先生だけだった。
「その……高橋先生は高熱が続いて寝込んでるそうだよ。今朝の時点でも三十八度あったと聞いてる」
「いつから風邪ひいたんですか?」
「いつからだったかな。最初に休んでから数日は経ってるかもしれないな。君たちと違って先生は夏休み中も出勤するんだよ」
「数日前から休んでていまだに三十八度もあるなんて、そんなことある?」
「ほんとなんですか? 嘘とかついてないですか?」
「君たちに嘘をついてどうするっていうんだ。小原先生のご病気のことも僕から君たちに話したじゃないか。ともかく、僕が人伝に聞いて知ってるのはそこまでだ」
返す言葉もなく、康介たちはうつむいた。去年、副校長が秘匿しようとした小原の病気のことを詳しく教えてくれたのも、ここにいる北島先生だった。君たちはもう大人だ、本当のことを知っているべきだといって、北島先生は校長たちが明かしてくれなかった事情を話してくれた。その張本人が、今度に限って康介たちに不利益を働くはずはない。
一組のショックは正午を越えても収束しなかった。宿題を集める間も、二学期に取り扱う新たな単元の説明を受けても、みんなは一貫して上の空だった。先生のことすら見ようとしない子が大半だったように康介には見受けられた。
まただ。
今度も先生に裏切られた。
理紗先生もきっと、小原先生みたいに一組を去ってゆくんだ。
無言の理解と諦めが、狭い教室に暗雲のごとく立ち込めていた。
給食を食べ終える頃になって、叶子が康介の机にやってきた。おもむろに「あのさ」と尋ねる声はすっかり沈みきっていた。叶子もまた、例外なく理紗先生への失望にまみれている。康介の胸にも薄い痛みが走った。
「昼休み練、できると思う?」
「30人31脚の練習って、先生が立ち会ってないとできないんじゃなかったっけか……」
「だよね。そうだった気がするんだ、うちも」
叶子は目を伏せた。聞き耳を立てていた子たちの間から、無言の吐息がいくつも花開いた。嬉しげな匂いと嬉しくなさげな匂いがごっちゃに入り混じって、康介の鼻を不愉快に刺激した。
このまま当分、練習はお預けか。
いやが上にも覚悟を決めかけた康介の頭上に、「待ってよ」と佑珂の声が降ってきた。
「練習、できるよ。理紗先生がいなくても」
「どうやって?」
「北島先生に頼み込んでみようよ。二組との合同練習だったら、他の先生たちも許してくれるかもしれないよ」
「その手があったか」
康介は身を乗り出して、机のそばまでやって来ていた佑珂を見上げた。確かに北島先生であれば、30人31脚の練習を見てきた実績がある。理紗先生が不在の間も一組が練習実施の要件を満たすには、北島先生の協力を仰ぐしかない。
周囲の空気が一変した。余計な知恵を吹き込むな、とばかりに鋭い視線がいくつも佑珂を貫いた。負けじと康介は声を張り上げた。
「北島先生に掛け合ってみよう。実行委員で説得に行こうぜ」
この閉塞的な状況を何がなんでも変えたい。二組との合同練習が実現すれば、みんなへの適度な刺激になるかもしれない。現に二週間ほど前、康介たちは二組が五十メートルの壁を突破する瞬間を目の当たりにして、おおいに練習への意欲を刺激されている。
やるぞ、おれ。
みんなを引っ張る実行委員の務めを果たすんだ。
固めた決心をそのままに、放課後、四人で北島先生のいる職員室を訪ねた。二組の練習は数日後から再開されるとのことで、北島先生は康介たちの嘆願をじっくり聞き入れ、「いいだろう」と応諾の言葉をくれた。見合わせた実行委員の頬が安堵の色に染まって、ほっと康介も吐息をついた。冷房の効いた職員室の空気は康介たちに優しくなかったが、頼りになる味方を得た康介たちにしてみれば、もはや有象無象の教師など恐れるに足らない。
これで万事は解決した。
言うまでもなく、理紗先生の不在という解決不能な問題を除いて。
「……三十人ってこんなに多かったっけ」
▶▶▶次回 『37 合同練習の顛末』




