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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
37/63

35 叱責

 



「──なんだよアレ!」

「30人31脚やらない? って言い出したの先生自身だろ」

「多数決で決めるって言い出したのも先生だよな」

「決まった時は誰よりも喜んでたくせにね!」

「マジ意味わかんない。ただの癇癪(かんしゃく)じゃん」

「とばっちり食らうあたしたちの気分にもなってほしいよね」

「あの先生、やっぱダメだな」

「監督に頼んで練習させてもらおうよ」

「えー、そこまでする必要あるかよ」

「練習お休みって言われたんだからやんなくてよくね?」

「だってムカつくじゃん。バカにされるだけされて放り出されたんだよ、うちら」

「でもさー、確かに先生の言うとおりだよ。30人31脚やりたいって本気で思ってる子、ぶっちゃけ何人残ってんの? って感じでしょ」

「福島さんくらいでしょ」

「あの子、先生のこと大好きだもんね」

「実行委員も頼りになんないよなー。あそこで反論してくれりゃよかったじゃん。やる気があるのは先生だけですよってさ」

「実行委員もやる気あるんじゃない? 知らないけど」

「やる気()()はあるんだろうけどさ」


 ──練習終わりのプールは地獄絵図だった。どこを向いても不満の声が飛び交っていて、当の実行委員にはろくな居場所も見当たらなかった。仕方ないから叶子と一緒に泳いでやった。佑珂は気分が悪いといって先に帰ったようだ。佑珂の真似をすればよかったと、ビート板を抱え込みながら康介は後悔に暮れた。「そんなもん持たないと泳げないのかよ」と嘲笑する叶子の声も、いつもの覇気を欠いていた。

 もはやクラスの士気も、先生の豹変も、実行委員ではどうすることもできない。しいて言えば気がかりなのは駿の容態だった。大クラッシュで鼻を折ったのを発端にしてチームを抜けていった志穂は、あれから一度も練習に姿を見せていない。抜群の走力でみんなを引っ張っていた駿が志穂と同じ道を選べば、いよいよ洒落にならない事態に陥る。走力減衰だけじゃ済まされない。三十人という最低人数基準を満たさなくなった一組は、自動的に大会への参加資格を失うのだ。

 あんまり不安になったので、帰宅早々、ゴロゴロしていた姉のすみれを捕まえて質問攻めにした。鼻骨骨折は治るのか、完治にかかる時間はどれほどか、どれくらい痛むのか──。


「そんなの自分で調べれば?」


 すみれは彼女のスマートフォンを放ってよこした。

 鼻骨骨折はもっとも簡単に起こる骨折のひとつだ。鼻骨は薄いため、ちょっとした衝撃でも簡単に折れやすいが、裏を返せば自然に癒合しやすい部位でもある。鼻骨骨折の治癒には通常一週間から二週間を要し、大規模な治療は必要ないようだ。ただし駿の場合、折れた衝撃で鼻が曲がってしまっていたので、鉗子と呼ばれるハサミ型の道具を用いて整復手術を行う必要がある。いずれにしても命に別状はなく、後遺症をもたらす重篤な怪我でもない。

 駿は大丈夫だ。

 あとは無事、チームに戻ってきてくれるか否か。

 抱きかけた確信がしぼんでゆくのを感じながら、康介は姉にスマートフォンを返却した。いくら駿が治ったって、戻るべきチームがなければ意味がない。そちらの方が何倍も、何十倍も大きな懸念材料だというのに、いくら検索エンジンや写真フォルダを漁っても、康介のやるべきことはいっこうに見当がつかなかった。ついでにすみれにもしっかり絞められた。勝手に画像を漁った罰だ、とかなんとか脅された。姉ちゃんの写真になんて興味ないと叫んだらいよいよ強く絞められた。この世は理不尽の塊だと、薄れゆく意識の中で康介は思った。



 首を回すたび、神経が悲鳴を上げる。


「痛てて……」


 呻きながら康介は慎重に準備体操を試みた。姉ちゃんのやつ、もっと手加減しろよな。こちとらか弱い小学生なんだぞ──。無論そんなことを言ったらすみれの攻撃力はいよいよアップすると分かり切っているので、言わなかった。つくづくこの世は理不尽であふれている。

 時刻は午後九時。

 狛江の町は見渡す限り、立ち込めた宵闇にとっぷりと沈んでいた。

 なんとなく心が落ち着かなくて、ジョギングをするといって家を出てきた。体力の不足を感じているわけでも、走り方の改善の必要を感じたわけでもなかった。胸の中に滞留する有象無象の黒い感情を、走るついでに街のどこかへ置き去りにできればよかった。

 点々と街灯が並ぶ片側一車線の猪駒通りを、息をひそめるような足取りで乗用車が何台も通り過ぎる。あいつらに続いてやろうと思い立ちつつ、ジャンプして膝の調子を確かめていると。


「何してんだ、武井」


 道路の向こうから声がかかった。

 仰天した康介の目に、連れ立って歩く稜也と克久の姿が映った。


「お前らこそ何してんだよ。夜九時だぞ」


 左右を見回して安全を確認しながら問いかけたら、稜也は「塾」と即答した。言われてみれば二人とも、お揃いのGバッグ──もとい日学研の制式カバンを背負っている。稜也はともかく、克久も日学研の通塾生であることを康介は初めて知った。


「こんな時間まで塾あんのかよ。中学受験ってやべーな」

「塾っていうか……ねぇ?」

「自習時間中はずっと30人31脚のことばっかり話してたけどな」


 伺いを立てるように克久が語尾を上げると、すかさず稜也が続けた。


「30人31脚って、お前、確か練習に参加できなくなったんじゃ……」


 康介は尋ねずにいられなかった。親からの圧力で克久が30人31脚に加われなくなったことは、もちろん康介も先生から聞かされて知っていた。

 質問を見越していたのか、克久はカバンを下ろして留め金を開いた。


「参加はできないよ。だからこれは僕のちょっとした反抗」


 差し出されたのは【30人31脚 練習記録】と大書された一冊のノートだった。ほんの数ページばかりめくったところで康介は目を見張った。あたりが暗いので詳細に目を通すことはできないが、どうも一組の練習状況が事細かに記されているようだ。おまけに日付を見ると、克久が参加していないはずの数日前の練習の分まで書き込まれている。


「ずっと隠れてノートを執ってくれてたんだよ。多分、先生の持ってる練習記録より詳しいと思う」


 傍らの稜也がおもむろに太鼓判を押した。


「こいつが抜けてから何度かメンバーの入れ換えをやっただろ。あれのアイデアの大半は、こいつと、こいつのノートに知恵を借りて考えたんだ。みんな勘違いしてると思うけど、俺ひとりで考え付いたわけじゃない」


 受けた衝撃に理解が追いつかず、康介は口をぱくぱくさせた。あんなにもみんなが練習への意欲をなくして、先生すら指導を放棄しかけている今、練習から引き離されても参画を諦めない克久は本物の逸材といってよかった。そういえばこれまでちゃんと話したこともなかった気がする。親の説得には稜也と理紗先生が当たったと聞いているが、こんなことなら康介も同行して、あれこれ言う親の頭をねじ伏せてやればよかった。


「すげぇ……。すげぇよ、お前」


 素直な言葉で称賛したら「へへ」と克久は後頭部を掻いた。

 戻ってこいよと叫ぶのを康介は懸命に我慢した。叫んだところでどうにもならない現実が無数に横たわっているのを、冷めた頭で理解している自分が嫌になった。


「そんでどこ行くんだよ、お前ら」

「別に。一緒に帰りながら色々と話してただけだよ。神野の家、学校の近くらしいから」

「そんなら一緒にジョギングしようぜ。一人で走ってもつまんねーもん」

「こんな重いカバン背負ってジョギングしろっていうのか」

「うわっ、マジで重い。何を入れたらこんなに重くなるんだよ」

「何って、そりゃテキストとかノートとか電子辞書とか」

「川内のカバンはほんと重いよ。僕と違って過去問ぎっしり詰め込んでるもん」

「すげーな。こんなの毎日背負ってたらムキムキに鍛えられるじゃん」

「身体が鍛えられても意味ないんだよ。頭を鍛えるために通塾してんだから」

「お前、今ちょっと上手いこと言ったって思っただろ」

「照れてるじゃん、川内」

「うるさい。黙れ。前を向いて歩け」


 そっぽを向いた稜也が吐き捨てる。見ると、狭い街路の彼方に岩戸小の正門が浮かんでいた。無意識のうちに足が通学路をたどっていたらしい。克久の家は学校の近所と言っていたから、これはこれでいいのかもしれない。ジョギングのつもりで出てきたこともすっかり忘れて、康介は後頭部に腕を組んだ。門灯に照らされた細いアスファルトの道を、三人分の足音はささやかに賑わしていた。

 正門が近づいてきた。

 足音に混じって、人の声が暗がりに響き始めた。

 眉をひそめたのは康介だけではなかった。見れば稜也も、克久も、前方を注視していた。


「あの声、校長だよな」


 稜也が声を潜めた。

 言われてみれば聞き覚えのある声だった。岩戸小では毎週月曜日の朝、校庭に出て朝礼を実施している。どことなく神経質な甲高い声であいさつをする校長──鈴木(すずき)信子(のぶこ)の印象が、響いてきた声に不気味なほど一致した。


「こんな時間に校長が残ってるわけなくない?」

「そうだよ。だってそれ残業ってやつじゃんか」

「学校の先生ってめちゃくちゃ残業するらしい」

「えー、嘘だろ。だったらおれらの先生も残業してたっての?」

「してたかもな。俺らが知らないだけで──」


 口にしかけた言葉を引っ込め、稜也は校門脇の電柱に隠れた。何が何だか分からないまま、無意識に康介も稜也の真似をした。隠れ損なった克久はカバンで顔を隠した。かえって目立つだけだろ、と康介は呆れ返った。


「どうしたんだよ」

「聞こえないのか」


 稜也は目を細めた。


「校長だけじゃない。高橋先生の声も聞こえる。すぐそばだ」


 そんな馬鹿な。

 電柱に隠れたまま、康介は目を凝らした。

 コンクリートの壁で作られた校門と違い、その両脇は隙間だらけの鉄柵で囲まれている。門番のごとく屹立する大きな木の向こうに、二棟の校舎に囲まれた小さな広場が伺える。職員室の窓明かりに照らされた広場の片隅に、ふたつの人影が伺えた。一方は校長、もう一方は確かに理紗先生のものだった。


──「ですからね、先方は大変お怒りなわけですよ!」


 甲高い校長の声が、この距離まで近づくと鮮明に聞き取れた。誰から言い出すでもなく、康介たちは二人の会話に聞き耳を立てた。


──「高橋先生、あなた本当に理解してます? 手術を伴うような怪我を児童に負わせたんですよ? あなたの監督責任が問われて当然の事態だとは思わないんですか?」

──「分かっております……。すべて私の責任です」

──「分かってる分かってるって、あなたは以前もそう答えたんですよ! 今度の山懸さんだけじゃない。これまでかかってきたクレームの電話、いったい何件あったと思ってるんだか! 全部あなた自身に出てもらって対処してほしかったくらいです!」

──「すみません。ご迷惑をおかけしました。重ね重ね申し訳ないと……」

──「あのね、あなた自分で言ってる意味が分かってるの? 謝るっていうのはつまり、あなた自身が監督不行き届きを認めるってことですよ? そうなればあなたの選ぶべき道は分かり切ってるわね?」

──「校長とのお約束通り、練習には監督の方々にも付き添っていただいております。保護者の方々からの理解も得ています。今後も安全には十分に配慮して……」

──「配慮できてなかったから今回の事故を招いたんでしょう! バカも休み休み言いなさい! 何が保護者の理解ですって? あなたの指導に対する保護者からの信用なんか、とっくの昔に地に堕ちてるんですよ!」


 身のすくむような叱責を、無意識に脳が拒んでしまった。一歩、二歩と後ずさりしたところで、我慢できなくなって康介は校門に背を向けた。何も言わずに稜也と克久がついてきた。足音を聞かれるのも恐ろしくて、忍び足でアスファルトを慎重に踏みしめた。二つ目の交差点を過ぎたところで、いつか稜也が「校門から二つ目の角までが約五十メートル」だと話していたのを思い出し、ようやく息を吐き出した。これだけ距離を取っておけば、万一の時にも逃げる時間を確保できる。


「……聞いたかよ」


 訊くと、二人は首を垂れた。

 何を聞いたのか、そこから何を読み取ったのか、康介は尋ねたくなかった。口にするのも嫌だった。もと来た道をとぼとぼと辿りながら、耳にした話を頭の中で必死に整理した。

 鼻骨骨折は確かに治る。けれども事故が起きたという事実は覆らない。大事な息子が顔面を強打して鼻血まみれになった事態に、駿の親は予想以上に憤ったのだ。結果、岩戸小にクレームの電話がかかった。おそらくはこれまでも何度か、同じような内容のクレームが寄せられていたのだろう。ついに堪忍袋の緒を切らした校長は、午後九時にもかかわらず居残って仕事をしていた理紗先生を外へ連れ出し、説教を浴びせた。

 いや、説教ですらないかもしれない。

 あの口ぶりは明らかに最後通牒だ。

 今後、一度でも同じことがあれば、すぐさま練習も参戦もやめさせる──。校長の剣幕にはそれだけの含みがあった。そして、その恐喝にも等しい要求に、理紗先生は有効な反論を何ひとつ行えていなかった。


「……嫌な予感がする」


 絞り出したような声で稜也がつぶやいた。


「だよな。マジで練習やめさせられるかな……」

「そっちじゃない。いや、それもあるけど」

「他に何があるってんだよ。駿も参加できなくなるってことか?」

「先生のこと見てただろ。蝋人形みたいに真っ白で、震えてた」


 蝋人形とやらを康介は見たことがないが、ニュアンスは確かに伝わった。稜也の瞳にも同じものが映っていたようだ。


「俺の父さんも昔、ああいう顔をしたんだ。父さんはそれから寝込んだ。仕事をやめても、病院に移っても、二度と起き上がらなかった」


 LEDの街灯に照らされた青い唇を、稜也は結んだ。


「……あの先生、壊れるかもしれない」






「なんで()()副校長が担任みたいなことしてるんですか……」


▶▶▶次回 『36 病欠』

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