34 夏休みの幕切れ
来る日も、来る日も、練習漬けは続いた。
夏休みの日付は残すところ一週間ばかりになった。
一か月間、毎朝六時に起きて朝食をかき込み、七時半に登校して練習に励み、終わればプールへ飛び込んで疲れを吹き飛ばした。こんなにも単調な日々を繰り返した夏休みは初めてだ。ほかの子たちがなんだかんだと理由をつけて練習を休む中、実行委員の四人だけは皆勤賞だった。実行委員を務めている自負がなければ、どこかで心が折れていたかもしれない。蒸し暑いベッドの上でカレンダーの日付を見上げるたび、康介は自分の心意気を褒めたくなった。誰からも褒められないから自分で褒めるしかなかった。
実行委員は褒められない。人一倍の努力が当たり前だと言われ、時にはみんなの敵にも回る。それでも歯を食い縛って、根性だけで頑張り続けた。そろそろご褒美があってもいい頃だ。五十メートルを走り切るとか、あのムカつく他校を追い抜くとか、そういう目覚ましいご褒美がほしい。さもなければ燃料切れを起こしかねない。
「……今日は走れるかな、五十メートル」
つぶやいて、タオルケットを払いのけた。これも毎朝のルーティンになりつつあった。ルーティンにしたかったわけじゃない。今日は、今日こそはと毎日のように願い続けて、そのたびに神様の大きな足に踏みにじられるのを繰り返した結果、恒例の習慣のように成り果てただけだ。それでも康介は願い続けるし、みんなに声をかけ続ける。だってそれが、実行委員の役目だから。
どこかの漫画の登場人物が言っていた。
もしも神がいるのなら、前に向かう者を好きでいてくれるはずだ──と。
けれども神はちっとも康介に微笑まない。砂を蹴散らして前に進む一組を氷みたいな目で俯瞰しては、これでもかとばかりに血を流させて、くずおれた康介を嘲笑う。
昨日は頬をすりむいた。三日前には佑珂が肘をすりむいた。一週間前には稜也が、十日前には叶子が、転んで血を流しているところを見た。いったい今日は誰の血を見ることになるのだろう。想像するのも嫌になって康介は立ち上がった。神様はそこまで意地悪じゃない、きっと今日は大丈夫だと、誰にともなく叫んで言い聞かせた。
──はずだった。
ぼたぼたと垂れた血が、地面に、体育着に、グロテスクな染みを描いてゆく。
見るも無残な血まみれの顔を、誰もが息を止めて見つめていた。
よろめきながら立ち上がったのは、クラス最速男子の駿だった。痛みをこらえているのか、涙をこらえているのか、閉ざされた薄桃色の唇はワナワナと震えていた。傍らに突っ立っていた敏仁が、消え入るような声で「ごめん……」とつぶやいた。
「僕のせいだ。山懸くんの走りについていけなかったから……」
「設楽のせいじゃない」
苦しげに駿は吐き捨てた。もともと無口な子だが、いまは言葉を発すること自体が困難みたいだった。見ると、しかめられた顔の真ん中で、綺麗な輪郭を描いていたはずの鼻が不格好に曲がっている。
志穂の時と同じだ。鼻骨骨折を起こしている。
スポーツ傷害に詳しくない康介でも一目で分かった。
志穂が離脱して以来、二度目の大クラッシュだった。右隣の鈍足な敏仁に足を取られたのか、油断していて腕をしっかり両隣に回していなかったのか、駿は陣形が崩れた瞬間、全速力のまま顔から地面に突っ込んだ。ホイッスルの停止指示も間に合わなかった。
「みんな、大丈夫!?」
「怪我はしてない!?」
駆け寄ってきた朱美や理紗先生が、一組の輪をかき分けて駿の様子を覗き込んだ。血まみれの駿に気づいた理紗先生はたちどころに青ざめた。
「鼻、折ってる……」
無言で駿はうなずいた。血と一緒にこぼれた涙が数滴、汚れた地面に落ちて泥と混ざった。
「と、とりあえず保健室にっ……。わたし連れていきますっ」
おずおずと佑珂が進み出たが、理紗先生は佑珂の言動には反応しなかった。うなだれた駿の肩を抱き寄せながら、理紗先生は一組を見回した。
誰かが息を呑む間抜けな音が響いた。あれだけ柔和だった先生の表情は一変していた。眉間に彫りを描く何本ものしわが、夏の日差しに影を落とされて黒く変じていた。
「……みんな、ちょっと目に余るんじゃない」
先生は静かに切り出した。真正面に立っていた敏仁が、心臓ごと凍り付いたみたいに肩を跳ね上げた。敏仁の目を見て理紗先生は首を振った。
「犯人探しをするつもりはないよ。二十数人で走ってるんだから、誰か一人の責任で転んだわけじゃない。こうして山懸くんが怪我をしたことは、肩を組んだチームのみんなで受け止めなきゃいけない。分かるよね?」
みんなの瞳が一斉に濁ったのを康介は悟った。無理からぬことだった。つい今しがたまで、ほとんどの目が非難がましい視線を敏仁に投げかけていたからだ。クラス最速の駿とクラス最遅の敏仁では、どう考えても敏仁の立場が弱い。実際に転倒の原因であろうがなかろうが、この状況では敏仁は否応なしにスケープゴートにされる。正しいとか正しくないとかじゃない。そういうものなのだ。けれども理紗先生の血走った眼差しは、そういうものを心の底から軽蔑していた。
「夏休みなのに朝早くから練習やって、疲れが溜まってきてるのは先生も分かる。だけど、だからって練習で手を抜いていいって話にはならないよね。最近のみんなはちょっと目に余るよ。スタートラインに向かう時もだらだら、準備体操を始める時もだらだら。二人三脚の時もしゃべってばかりいるし、監督のお二人が走り方を指導してくれても改めないし……。その積み重ねの結果が、今度の山懸くんの怪我じゃないの?」
「そんなのっ──」
「そんなの私たちに言われても困る、って?」
先手を打たれた夏海が真っ赤な顔でうつむいた。「二人三脚の時もしゃべってばかり」というのは、明らかに夏海と桜子のことだった。全員ランをやるとき以外、基本的に二人はみんなと引き離されて二人三脚を繰り返し走らされている。いがみ合う二人の姿をようやくみんなも気に留めなくなってきた矢先に、これだ。
「おまけに先生の注意も聞かないで勝手に危ない練習をしようとするしね」
返す刀で理紗先生は明宏や文李を睨んだ。
二人は赤黒い顔で立ち尽くした。当たり前だが、こればかりは弁解の余地もない。
「みんな、忘れてるんじゃないかな。みんなが30人31脚をやるって決めたから、こうやって先生も監督のお二人もみんなを指導してるんだよ。みんなのやる気がなくなったっていうなら指導をする必要もないの。そのことは分かってる?」
淡々と理紗先生は畳みかける。声を荒げもしないし、暴力に訴えようともしないが、その無感情な声色が康介にはたまらなく恐ろしかった。これならいっそ怒鳴られて叩かれた方がマシだとさえ思った。
一組の士気が目に見えて下がっているのは康介も肌で理解していた。多摩川自由ひろばで見知らぬ他校に敗北を喫してから、あの場にいた男子たちは残らず全員、立ちすくんだように意欲を減らしていた。あんなにも巨大な実力差を見せつけられて意欲が減衰しない方がおかしい。明言したのは明宏だけだが、きっと誰もが疑問を抱いたのだ。このまま練習を続けたとして、あんな化け物に勝てる日は来るのか。よその学校はおろか、隣の二組にすら勝てないままに会場を立ち去るのが関の山なんじゃないのか──と。
「単刀直入に聞いてもいいかな」
先生は駿の肩から手を離した。よろけた駿が数歩ばかり後退した。
「みんな、30人31脚をやるって、自分たちで決めたよね?」
普段の理紗先生ならこんな聞き方はしない。まるで先生の皮をかぶった別人が話しているみたいだ。薄気味悪さに肌をさすっていると、群衆の中で誰かが独り言ちた。
「そんなの先生が焚きつけたんじゃん……」
バカ、と康介は心の中で叫んだ。たとえ本心だとしても、言っていいことといけないことがある。今のは間違いなく後者だった。
「……そう」
ゆらり、理紗先生の影が揺れた。
その目がみんなの顔色を順に窺うのを、肝を冷やしながら康介は見つめていた。幸か不幸か、先生は康介の目を見なかった。佑珂や叶子や稜也の様子を見る限り、実行委員は全員、先生の断罪を逃れたようだ。もちろん真意など問いただせるはずもない。
「夏休みが終わるまで一週間あるね」
理紗先生は低い声で告げた。
「最後の一週間くらい、練習、やめようか」
その提案が何を意味するのか、すべてを推し量ることは康介には難しかった。朱美も、春菜も、ほかの実行委員も、誰ひとり文句や不平を口にしなかった。もはや理紗先生は誰のことも見ていなかった。血なまぐさい臭いを帯びた風が首元を吹き抜け、お通夜のような空気を荒らしてゆくのを、研ぎ澄ませた鼻で康介は感じた。
「だからこれは僕のちょっとした反抗」
▶▶▶次回 『35 叱責』




