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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
35/63

33 驀進康介とリーダーの責任【4】

 



 足紐を盗み出したことは、呆気なく理紗先生にバレた。

 ひろばを追い出されては練習もままならず、ほとんど使わなかった足紐を翌日、先生の目を盗んでこっそり戻そうと試みた。しかし鈍くさい文李がビニール袋をガサガサ言わせたおかげで先生は気づいてしまった。「どうも少ないと思ったんだ」と嘆息する先生を前に、康介たちは平身低頭するしかなかった。


「私が練習についてるのはなんでか分かる?」

「勝手に走ったら危ねーから……」

「そうだよ。30人31脚が本当はすごく危ない競技なんだってこと、みんなもそろそろ分かってきたでしょ。康介くんだって怪我したんだし」

「……うん」

「まさか実行委員が率先して決まりを破るなんて思わなかった」


 おれが率先してやったんじゃない。明宏や貴明たちがみんなを焚きつけたから──。喉元まであふれかかった本音を康介は懸命に押し殺した。実行委員たるもの、みんなが暴走した時には言葉をもって制止すべきだったのだ。みんなを導くことだけがリーダーの責務じゃない。すみれにも助言されたばかりだ。

 理紗先生は説教らしい説教をしなかった。物静かに、おごそかに、失望したことだけを淡々と口にした。いっそ怒鳴りつけてくれた方がどんなに楽だろうと康介は何度も思った。自責の沈んだ胃の底がシクシク痛んで、練習も始まっていないのに帰りたくてたまらなかった。

 また男子の一部がバカをやった──。夏海たちの無言の非難を浴びつつ、いつもの練習メニューを愚直にこなした。走り慣れた校庭の砂を踏みしめるたび、昨日の芝生の感覚を思い返してはアンニュイな気分に駆られた。

 芝生があんなに走りにくいなんて思わなかった。

 なまじ足元が柔らかいばっかりに、地面からの反発力を蹴りに生かせない。

 走行環境はレースでは重要な要素になる。陸上競技の短距離走ひとつ取っても、土の地面を走るか、全天候型のタータンコースを走るかでタイムは大きく変化する。競馬だって(ターフ)(ダート)では要求される脚力が異なるし、モータースポーツの舗装(オンロード)未舗装(オフロード)に至っては完全に別物の競技だ。30人31脚の大会映像では、疾走する小学生たちの足元に人工芝のような緑色のマットが敷かれていた。30人31脚の練習は本来、あのような芝のコースで行われるべきなのだ。さもなければ蹴りの感覚に慣れず、昨日のように惨敗を喫することになる。


「おい」


 二人三脚の相手を探そうと首を回したら、明宏に声をかけられた。康介ともども先生の前で頭を下げてから、いや──昨日ひろばを追い出されてから、明宏はすっかり以前のような居丈高な気配をなくしていた。


「ペア組んでもいいか。俺、スピード遅いけど」

「今さら何言ってんだよ。昨日だって隣で一緒に走ったじゃん」

「そうだな」


 言葉少なに苦笑した明宏が、康介の傍らに腰を下ろして足紐を結わえる。優平や駿ほどの高身長ではないにせよ、明宏もクラス男子の中では指折りの大柄だ。チビ呼ばわりされたことも一度や二度じゃない。叶子の目をそれとなく警戒しつつ、ちまちまと紐を結ぶ明宏の丸い背中へ康介は目を落とした。


「俺のせいでお前まで怒られちまった」


 明宏は頑なに足紐だけを見つめていた。大きな背中が少し震えて、小さくなった。


「悪いな康介。これじゃ俺、お前に責任ぜんぶなすりつけちまったみたいだ」

「実行委員なんだから怒られて当たり前だよ。本当だったら止めなくちゃいけなかったんだ。……多分」


 すみれの言葉を受け売りする気分で答えると、はは、と明宏は笑った。


「お前、いつからそんなに大人になったんだよ」


 たぶん、素直な称賛の発露だったのだと思う。それでもちょっぴり(ひが)みの臭いがして、康介は鼻をつまみたくなった。

 いつからだろう。それこそ実行委員を引き受けた時からかもしれない。くじの結果とはいえリーダーに選出され、その役割を甘んじて受け入れた瞬間、康介は子供のままでいられなくなった。常にクラスメートたちの一歩先に立ち、数歩先の世界を見渡すことを求められた。もちろんそれは理紗先生や監督の二人に求められたわけじゃない。そうあるべきだと思って、みずから大人であろうと気を張り続けてきただけ。

 スタートラインに足先を揃えて、前を見つめる。脇に立った理紗先生が「位置について」とけしかける。結わえた足を後ろに、自由な方の足を前に出して、上半身を傾ける。「用意、ドン」──号令を蹴散らす勢いでスタートラインを飛び出した。憂いも迷いも何もかも振り払いたくて、全力で掛け声を唱和しながら地面を駆け抜けた。リズミカルに飛び散る砂の音が耳にこびりつく。昨日の模擬レースでは決して聞くことのなかったザラザラの足音に、ゴールに駆け込んで止まるまで康介は耐え続けた。


「俺さ」


 足紐を外してぶら下げた明宏が、隣へ並びながらつぶやいた。


「30人31脚のこと、舐めてたかもしんねぇ。昨日のボロ負けで初めてそう思った」

「九秒九七なんてタイム、初めて見たもんな」

「俺、30人31脚ってもっと楽しくやる競技だと思ってたんだよ。みんなで足を繋いでワーッて走るだけの、なんていうか……テレビとか動画サイトでよく見かける集団行動みたいなさ。だから楽しそうだと思って参加にも手を挙げたし、練習も楽しく走れるに越したことないって思ってた」


 康介はうつむいた。一歩一歩、スタートラインに向かって踏みしめる足跡だらけの地面に、明宏のこぼした汗のしずくが王冠を描いた。


「でも、そうじゃなかったんだな。昨日のあいつらを見てやっと分かったよ。俺たちが束になってかかっても追いつけないような、まるっきり次元の違うスピードの世界で、あいつらは戦おうとしてるんだな。俺たちがやろうとしてんのはそういう競技だったんだ。先生も、監督も、初めから俺たちにああいう勝負を求めてたんだ」


 今さら知ったのかよと内心だけで康介は毒づいた。五十メートルすら満足に走り切れない現状の一組にとって、全員で足を繋ぎ、五十メートルを九秒台で駆け抜けることがどれほど困難なことであるか、真面目に練習していれば分からないはずがない。ましてや本番は不慣れな芝生のコースときている。実行委員の四人が遥か以前から抱き続けてきた危機感を、大敗という結果をもって明宏たちはようやく学んだのだ。


「なぁ、康介」


 明宏はいっとき唇を結んだ。


「俺たち本当に走れんのか。五十メートルを、あのタイムで」

「……そんなのおれにも分かんないよ」

「こうやって毎日のように練習し続けて、本当に意味あるのかよ。今からでも昨日のあいつらに追いつけんのか。大会に出てもまるっきり勝負にならないなら、俺たち、このまま頑張ったって時間の無駄じゃねーのか」


 康介は黙って目をそらした。答えられるはずもなかった。


「せっかく頑張ってもあんな悔しい思いばっかりさせられるんなら、そんなのちっとも楽しくねぇよ。お前はそう思わないのかよ。どうせやるなら楽しくやりたいって、ゴールした先で楽しく笑い合いたいって思わねぇのかよ。さんざんな結果だけ突き付けられてコースを立ち去るような、それこそ昨日の勝負みたいなことになって嬉しいかよ。それのどこが楽しいんだよ」

「…………」

「思わねぇか。お前、大人だもんな」


 今度の『大人』はずいぶん嫌な響きを持って聞こえた。

 そんなに言うなら今からでも本気で走ったらいいじゃないか。死ぬ気で走って、死ぬ気で体力も筋力もつけて、本番であいつらを叩き伏せてやればいいじゃないか──。心の中だけで喚き散らかしながら、康介は黙って苦笑した。言うは易しだと思っただけじゃない。どんなに言葉を選んでも、語調を整えても、康介の叫びは明宏には届かない気がした。楽しく走れなきゃ意味がないというスタンスの明宏を、どう頑張ったら過酷な練習に駆り立てられるのか、説得の道筋の想像もつかなかった。

 おそらくそれは明宏に限った話じゃない。このクラスの大半の男子、いや女子も含めてほとんど全員が、きっと似たような動機でグラウンドを走っている。それを片っ端から捕まえて言葉を重ね、やる気にさせて練習に追い立てるのが実行委員の本来の役目ならば。

 そんなの無理だ。

 できっこない。

 教えてよ姉ちゃん。これが姉ちゃんの言う「尊重」ってやつなのかよ。

 スタートラインの白線に浮かんだすみれの顔を、康介は靴の裏で踏みにじった。──負けたくない。強い衝動が燃え上がった。何に負けたくないのか、誰に負けたくないのか、そのあたりが明確だったわけじゃない。胃の底で暴れ狂うような痛々しい闘志を、他の言葉では上手く表せなかった。黙って足紐を結び、理紗先生の合図でスタートラインを飛び出す。決して速いとはいえない明宏の身体を引きずってでも前にゆくつもりで、死ぬ気で足を振り上げた。

 負けたくない。

 自分に負けたくない。

 クラスメートに負けたくない。

 どこの誰にも負けたくない。

 けれども今は誰よりも、何も知らずに背負ってしまった自分自身の肩書きに負けそうだ。






「……みんな、ちょっと目に余るんじゃない」


▶▶▶次回 『34 夏休みの幕切れ』

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