32 驀進康介とリーダーの責任【3】
横長の東京都を西から東へ流れ下る多摩川の河川敷には、その広大な面積を利用して野球場やサッカーグラウンド、教習所、公園なんかが整備されている。なかでも「多摩川自由ひろば」は、その名の通り目的を制限しない一面の芝生におおわれた広場だ。まちなかの公園はどこも狭いうえにボール遊びが禁じられているから、大人数で遊びたくなった日には決まって自由ひろばを利用するのが康介たちの共通文化だった。
「おー、誰もいねぇじゃん」
土手を乗り越えて河川敷を見渡した明宏が、満足げに声を上げた。遅れて明宏の隣に立った康介も、自由ひろばに人影がないのを確認してほっと一息ついた。30人31脚の練習はとにかく場所を取る。ひろばの利用者がほかにいたら、あやうく練習不可能になるところだった。
「オレがいちばーん!」
「あっおい、俺が行こうとしてたんだぞ!」
「別に何番だっていいじゃんかよ」
「待ってよ、置いていくなよっ」
口々に叫びながら仲間たちが土手を駆け下りてゆく。釣られて康介も河川敷に降り立った。たちまち、軽やかな熱風が首元を吹き抜けて頬を叩き、対岸めがけて渡っていった。ガラゴロと金属質の轟音を響かせて、上流側の鉄橋を小田急線の電車が通過してゆく。横長の取水堰が心地のいい滝音を紡いでいる。
空は一面の青。確かに、練習日和だ。
「足紐、ちゃんと足りてるよな?」
明宏が尋ねると、ビニール袋を掲げた文李が親指を立てた。昨日、練習終わりに理紗先生の隙をつき、足紐の入った段ボール箱から一部をかすめ取ってきたものだ。いくらなんでも気づくだろうと康介は思ったが、理紗先生は気づかなかった。もし気づいたら、こんなルール違反の自主練などたちまちやめさせていただろう。
「心配すんなってー。あの先生なら絶対、自主練してましたって言ったら喜ぶに決まってんじゃん。怒られそうになったって何とかなるよ」
康介の内心を読んだみたいに、お気楽者の桐生将大が肩へ腕を回して笑う。「そうだそうだ」と為末隼も後ろで叫んでいる。こいつらみたいに能天気になりたい──と康介はつくづく思った。むかしのやんちゃな康介だったら、きっと先生の説教なんて屁にも思わなかった。実行委員という肩書きにすべてを変えられてしまった気がする。
「そんじゃ、まずは準備体操だな」
「おっし、やるか!」
「ランニング別にやらなくてもよくね? 五十メートルをダッシュする練習してんのに、ランニングでだらだら長い距離走っても意味ないと思う」
「代わりに五十メートル走でもやる?」
「それ賛成!」
「俺も賛成」
のんびり雑談を交わしながら、明宏や貴明の主導でウォーミングアップが始まった。あの二人が今回の自主練の発起人であり、そしてどうやらリーダーシップも取る気でいるらしい。なんとなく安心するやら、役目を奪われて寂しいやら、複雑な心境のままに康介もウォーミングアップへ加わった。すみれの脅しにも等しいアドバイスを受けてから、まだ日も浅い。リーダーの役目から解放された安心感の方がいくらか強いようにも思えた。
リーダーの明宏と貴明、康介、健児、文李、将大、知樹、隼、そして高彦。三つのグループに分かれている女子と違い、一組の男子は大きな一枚岩だ。もちろん稜也を筆頭に、関与していない男子もいる。けれども多くの男子は、明宏をボスに頂くピラミッド型の仲間グループに身を置き、そこに居心地の良さを覚えているのが現状だった。明宏が「阿」と言えば、みんなは「吽」とは言わない。もとはと言えば康介自身も、そんな単純で分かりやすい仲間のひとりだった。みんなに混じっていればとりあえず楽しかったし、仲の良くないやつらと不必要にかかわる必要もなかった。
今は、あの頃とは違う。
あの頃には戻れない。
手を取り合って笑ってはしゃいで遊んでいても、みんな仮面の裏では違う面持ちで別々の世界を見ていることを、30人31脚の練習を通じて康介は知ってしまった。
だらけながら練習に取り組むのは不真面目だからだと康介は思う。だらけながら練習に取り組むのは練習そのものが退屈だからで、あえて練習中も楽しくモチベーションを保つために遊んだり駄弁ったりしているのだとみんなは言う。その認識を康介がどうこうすることはできないし、もちろん理解だってできない。すみれの言う「尊重」がどういうことなのかも、いまいち分かっていない自覚がある。
──『実行委員を名乗ってみんなの先頭に立つなら、それ相応の覚悟が要るんだ』
練習の指示を飛ばす明宏や貴明を遠目に眺めるたび、すみれの声が耳の内側で反響する。
おれ、やっぱり覚悟が足りなかったのかな。
リーダーが何をしなきゃいけないのか、何も分かってなかったのかな。
いきいきとしゃべりながら走るみんなの背中を追いかけては、底の知れない失意が溜め息になって口を漏れ出す。
「なんだよなんだよー」
隣へ並んだ健児が吞気に相好を崩した。
「つまんなそうな顔して走ってないでさ、もっと楽しく練習しようよ。うるさいこと言う人もいないんだしさー」
「それ、あとで健児の母ちゃんにも言っとくぞ」
「うわっそれはやめて! マジで頼むからやめて! オレ母ちゃんに殺されちゃう! 今日の練習だって黙って家を抜け出してきてるし!」
「嘘だよ。言わねーから」
健児の滑稽な怯えっぷりに、康介は思わず失笑した。こういう良い意味で空気を読まないところが、朱美と健児は実にそっくりだ。親子なのだからさもありなん、か。
健児にしろ、朱美にしろ、大迫親子の持ち前の快活さと朗らかさに、康介たち実行委員はこれまでもずいぶん助けられてきている。理紗先生はともかく、朱美の期待はなるべく裏切りたくない。そのためにも、せめて一刻も早く五十メートルを走れるようになりたいものだ。明日からも頑張らなきゃな──と、決意を込めた拳を前に振り上げた。
「なんだ、あいつら」
先を走る明宏が急に立ち止まった。
前を塞がれた康介も慌てて拳を止めた。
明宏は土手を睨んでいた。視線の先には、康介たちが自由ひろばへ降りてくるのに使ったコンクリート製の階段がある。今、その階段を、土手上を歩いてきた何十人もの子供たちが降りてこようとしている。
見覚えのない顔ぶれだ。優に三十人以上はいる。おまけに全員、同じデザインの青いシャツを着ている。
「ここを使う気なんじゃ……」
貴明の声に警戒感が滲んだ。誰の指示を受けるでもなく、康介たちは明宏を中心にして集まった。否応なく募り始めた不安が、立ち向かう姿勢を自然と作らせる。
「おい、どうする?」
「ここは使ってますって言うしかないでしょ」
「誰が言うんだよ、それ」
「明宏か貴明だろ」
「他にいないよな。だってさぁ……」
「言い出しっぺだもんな」
ひそひそ交わされるなすりつけの談議を「待てよ」と明宏が撥ねつけた。撥ねつけたにしてはあまりにも弱く、震えを帯びた声だった。貴明は何も言わずに前方のグループを見つめている。握りしめられたシャツの裾が伸びている。
向こうのグループも康介たちを認識していた。じきに、河川敷に降り立った三十名超の中から、男の子と女の子がひとりずつ進み出てきて、突っ立つばかりの康介たちを目掛けて歩き出した。いよいよ康介たちは寄せ集まりを強くした。
「あの」
男の子の方が声を上げた。
「ここ、練習で使いたいんだけど、譲ってもらえたりしない?」
「な……なんの練習だよ」
どもりながら明宏が尋ね返した。すると男の子はポケットから一本のバンドを取り出して、康介たちの前にかざした。見覚えのあるバンドに康介は仰天した。
30人31脚用の足紐だった。
テレビ局から貸与された練習用の赤いタイプだ。康介たちのものと同じく、マジックテープで足首へ巻く仕様になっている。
「30人31脚っていうんだけど。練習でけっこう広い範囲を使うから、できたら端にどいてもらえたらいいなって」
康介たちの動揺を悟るそぶりもなく男の子は要求した。すらりと背の高い、頑丈そうな顔にじっと見込まれ、明宏は「いや……」と目を逸らしてしまった。こんなときに高身長の駿や優平がいたらどんなに頼もしかっただろうと康介は思ったが、今さら後悔したって何も始まらない。
誰かが言わなきゃいけない。
このひろばへ先に来たのはおれたちだ。
おれたちだって30人31脚の練習をしに来たんだ──と。
明宏ではダメだ。向こうの気迫に怯んでしまって交渉にならない。貴明もプレッシャーに潰されている。残された選択肢は自分だけだ。
「無理」
きっぱり康介は言い切った。みんなを押しのけて前へ出た小柄な康介を、男の子は小人でも見るような目つきで探り回した。
「おれらも30人31脚の練習やってるから」
「この人数で?」
「そうだよ。今日はたまたま人数が足りないだけ」
「そんな普通の服を着てるのに?」
「……たまたまだよ」
康介は肩を縮めながら男の子を睨み返した。普段使いのハーフパンツが風に揺れてザワザワと嫌な音を立てた。
自主練をしていることがバレてはいけないからといって、あえて体育着ではなく私服で練習を始めたのが失敗だった。これでは真面目に練習する気で集まっていることが伝わらない。案の定、男の子は身じろぎをする康介たちを見回して、「嘘つかないでよ」と鼻で笑った。
「別に、よそへ行ってほしいなんて言わないからさ。ちょっと脇にどいてくれるだけでいいんだ。お願いできない?」
「嘘なんてついてねーよ!」
我慢ならずに康介は吼えた。あからさまに見下した男の子の態度に、反感を覚えずにはいられなかった。
「嘘だと思うんなら足紐だって見せてやるよ。おれたちの方が先にここで練習始めようとしたんだ。どこの誰だか知らねーけど、よその公園を使えよ」
「そうは言うけど、僕らの人数じゃ普通の公園には収まりきらなくて。君らなら公園でも練習できるでしょ? 九人しかいないみたいだし」
「九人だってバカにすんなよ。精鋭揃いなんだぞ」
売り言葉に買い言葉で言い返しながら、迂闊に虚勢を張ったことを一瞬、康介は後悔した。いつもの仲良し軍団で集まっただけであって、この九人は精鋭でも何でもない。しかし男の子は本気にしてしまったようだ。
「ふうん」
不敵に目を輝かせた男の子は、黙って見守っていた隣の女の子に何事かを耳打ちした。女の子は静かにうなずいた。何を言い出す気かと身体を固めた康介に、男の子はふたたび向き直った。
「じゃあ、こうしよう」
「何だよ」
「そっちの十人と僕らの三十五人で五十メートルを走って、タイムの速かった方がここを使うことにしない?」
康介は思わず目を見張った。真っ向勝負にしては信じがたいほど破格の条件だ。人数が多ければ多いほど、多脚走のタイムは遅くなる。向こうの人数は康介たちの三倍はいる。常識的に考えれば、どう転んでも彼らは勝てない。
「お、おい。それ乗ろうぜ」
「そうだよ。勝てないわけないだろ」
「あいつらの気が変わらないうちにさ……」
明宏たちが背後から口を挟んでくる。背中を押されたからには仕方なく、康介は声を張り上げた。
「そうしよう」
「決まりだ」
ほくそ笑んだ男の子はきびすを返した。
どういう意図か知らないが、大きなチャンスを勝ち取ったのは確かだ。全員ランはともかく、十人十一脚でなら五十メートル走破の経験は何度もある。負ける気はしなかった。すぐさま全員で顔を突き合わせ、作戦会議を開いた。並び順と一歩目で出す足を決め、ビニール袋から取り出した足紐を分配した、その刹那。
「しゃあ──────ッ!」
背後で砲声のような掛け声がとどろいた。
康介は思わず二度見してしまった。向こうのグループが全員で円陣を組み、なにやら儀式をしているところだった。テレビで観たルーティンというやつだろうか。明宏も、健児も、みんな呆気に取られていた。誰からともなく「俺らもやろうぜ」とけしかけて、九人で小ぢんまりと円陣を組んだ。
「か、勝つぞーっ!」
「お──っ!」
やけっぱちの円陣だった。こんなものを組んだところで向こうの気迫に勝てるはずはないと、冷静な自分がこめかみの奥で嗤っている。それでも大声を上げて、気持ちを整えて、彼らが用意してくれたスタートラインの前に立った。ラインといっても何もなく、ただ両脇にカバンが置かれているだけ。五十メートル先のゴールも同様だ。
おもむろに足紐を結び、肩を組んだ。
やることはいつもの練習と変わらない。ただ少し、背負うものの中身が違うだけ。
「位置について、用意」
くだんの女の子が静かに告げる。康介たちは上半身を傾け、スターティングスタートの姿勢を取った。
「どん」
彼女の手刀が鋭く振り下ろされた。
蹴り慣れない芝生の地面を康介は押しのけた。ふだん練習に使っている岩戸小の校庭とは違う、ぐっと沈み込むような足裏の感覚に、うっかり身体のバランスを崩しかける。それでも懸命に立て直して、足を振り上げ。
「1、2、3、4、5、6、7、8!」
「1、2、1、2、1、2、1、2!」
叫ぶたびに恐怖は薄れ、鍛えた足が調子を取り戻してゆく。両隣の明宏や琳がぐいと加速した。負けじと康介も歩幅を広げ、踏ん張った足を後ろへ蹴った。土気色の風が足元で裂けた。一歩、また一歩、あと一歩。彼方に霞んでいたゴールラインがみるみる目前まで迫った。
置かれたカバンの両脇を康介たちは駆け抜けた。
「タイムは!」
足紐を取るのもそこそこに振り返って叫ぶと、ストップウォッチを握った男の子が「十一秒〇二」と機械的に答えた。
勝った。さすがにあの大人数で十一秒は切れまい。起き上がった貴明や明宏の顔に、示し合わせたように安堵の色が広がった。
「次はこっちの番だ」
康介の手にストップウォッチを預け、男の子は立ち去っていった。傍らの健児に康介はスターターを頼んだ。「よしきた」とうなずいた健児はダッシュで女の子のもとへ向かい、彼女が場所を譲るのを待って手を振った。
もはや余計に気を張っている必要はない。健児の手が振り下ろされたらボタンを押して、みんながゴールを通過したらふたたび押せばいい。このひろばは康介たちのものだ。その絶対的な確信があったから、康介は怯まなかった。三十五人もの大群が横一列に並んで足を結び、健児の発声に合わせてスタート姿勢を作るのを、なんの感慨もなく眺めていた。
「どん!」
健児が手旗を振った。
猛然と彼らは走り出した。
掛け声の数字の並べ方は一組と同じだった。
「1,2、3、4、5、6、7、8──!」
二組の練習を見学した時にも思ったが、三十人以上が肩を並べて驀進する様はやはり圧巻だ。よそのスポーツにはない一体感や迫力を、ゴールラインから見ていると改めて実感する。いつか、おれたちもこんな風に走れるようになりたいな。まるっきり他人事の気分に浸っていたおかげで、あわやゴールの瞬間、ストップウォッチを止め忘れるところだった。予想よりも早く彼らはゴールラインを踏み越えていった。
果たして、タイムは。
ふと覗き込んだストップウォッチの画面から、康介は目を離せなくなった。
「おい、何してんだよ」
「俺にも見せろ」
寄ってたかってストップウォッチを見た明宏たちが、ひとり残らず言葉を失った。足紐を外した男の子が、一歩、また一歩、こちらへ歩み寄ってくる。すでに康介たちの反応から結果を読み取っていたようで、その顔は至って冷静沈着だった。
「それで」
男の子は笑った。
「九秒いくつ?」
「思わねぇか。お前、大人だもんな」
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